その日は朝起きた時から、何か忘れているような気がしていた。
 いつもと同じ朝。
 いつもと同じ時間に起きて、いつもと同じように行動開始。
 何も変わらない朝の風景。
 それなのに……。






 どこかに違和感がある。
 






【わすれもの】






「う〜〜ん??」
 花梨は眉を寄せて首を捻りながら、朝ごはんを作っていた。






「朝から唸って、どうしたんだい?」
「あ、おはよーございます。先生」
 ちょっとだけ早く出勤して、食生活が思いっきり不健康な医者の為に、簡単な朝食を用意する。
 花梨の日課で副業。
 花梨は元気な挨拶と共に、テーブルの上にテキパキとご飯とお味噌汁、そして焼き魚を並べた。
 派手な外見の美貌の院長の朝ごはんの好みは、スタンダードな和食だった。
 どちらかといえば、コーヒーにパンという外見(花梨の偏見)をしていながら、翡翠は和食党なのだ。
 そんな院長の朝食を用意する花梨自身は、すでに朝食を済ませている。
 テーブルについた翡翠にお茶を淹れて、花梨はエプロンを外した。
「それじゃ、私は下に降りますね」
「ああ、ありがとう」
 翡翠の礼を受け、花梨は拭えない違和感に首を傾げつつ本職の仕事場へ降りて行った。






 花梨は翡翠が院長の診療所で事務員として働いている。
 診療料の計算が主な仕事だ。
 翡翠の専門は外科。それも消化器外科だ。
 もちろん町医者だから、風邪の治療から怪我の縫合まで幅広くこなしているけれど。
 患者の評判もすこぶるよい。
 腕の評判と、その容姿の評判。
 誰もが口を揃えて美形と言う翡翠。
 花梨も面接の時、初めて翡翠を見て驚いた。
 世の中には、こんなに綺麗な男の人がいるのかと。
 そして雇われて、その性格の複雑さにもっと驚き呆れたのだけれど。
 






「おはよ〜」
「おはよう、花梨」
 着替え終わった花梨とすれ違うように、更衣室に入ってきた看護師と挨拶を交わし、花梨は今日の業務の用意をする。
 受付やフロアの掃除をして、患者の来院に備えた。
 






 やがて……。







「おはようございます。翡翠先生」
 診療開始時間少し前に姿を現した翡翠に、スタッフが頭を下げる。
「おはようございます、先生。そしてお誕生日おめでとうございま〜す!」
 明るく響いた白衣の天使、看護師達の声と拍手。
 それを耳にした花梨の動きが、ピタリと止まる。







『綺麗さっぱり忘れてたーーー!!!!』







 花梨はムンクの絵画のごとく、声にならない叫びを上げた。







 朝から感じていた違和感はこれだったのか……。
 しかし今更気付いても遅すぎる。








「うわ〜ん。この前まで覚えていたのに〜〜〜!!!!!」







 どう足掻いても嘆いても、今日は翡翠の誕生日だった。






 プレゼントを選ぼうと思ってた。
 当日のご飯だって、いつも以上に腕によりをかけようと思っていた。






 それなのに、どうしてすっぱりと忘れてしまっていたのだろう…。






 今日は、仕事だ。
 プレゼント買いに行く暇なんてない。
 料理だって下ごしらえする暇もない。
 





 ………最悪。





 花梨は、真っ暗になって突っ伏してしまった。








 どこをどう間違ったのか分からないけれど、複雑怪奇な性格の雇い主と恋愛関係になって初めての誕生日。
 花梨だって恋するオトメだ。
 これもあれも、といろいろ計画していた。
 乙女チックだと、主役本人に笑われようと呆れられようと、無理にでも付き合わせるつもりだった。






「来年まで持ち越しか…」
 はぁ……。
 がっくり肩を落とし、花梨は圧力鍋の中に今夜のメイン料理の材料を放り込んだ。
 今日のメニューは、豚の角煮と、たことわけぎの酢味噌あえ。
「……色気もなにもあったもんじゃない」
 頭から抜け落ちていた計画は、上品な和食だった。
 翡翠は和食を好む。
 はっきり翡翠から聞いた事はないけれど、箸の進み具合が違うからわかった。
 だから誕生日には、普段作らないちょっと下ごしらえが必要なものをと考えていたけれど…。
「三歩歩いて忘れるこの鳥頭が憎い!!!」
 ガッツ!
「あたたたた」
 菜箸を握った手で自分の頭を思いっきり殴り、花梨はあまりの痛さに一人で蹲ってしまう。
「………一人漫才しているのかい?」
 馬鹿にしきった溜息が、花梨の背を直撃した。
 落ち着いた響きのある声は間違いなく翡翠のもの。
 花梨は情けなくて涙がでそうだった。
「ほっといてください」
 翡翠の顔を見る事が出来ない。
 花梨は頭を抱えたまま自己嫌悪に陥っていた。
 付き合いだして初めての誕生日を忘れた後ろめたさに、今日は極力翡翠と顔を合わせなかった。
 それでも日課(バイト)となっている翡翠の食事を作らないわけにはいかず……。
「ほっとけと言われてもね……。鍋が呼んでるよ?」
「え?うわぁ!!」
 圧力鍋がもういいよ〜と笛を鳴らしている。
 自分の世界に入ってしまっていて、まったく気付かなかった。
 花梨は慌てて手を伸ばして、コンロの火を止めた。
「ぼんやりしてたら危ないよ?」
「……はい。気をつけます」
 翡翠に注意されて、花梨がしょんぼりと小さくなってしまう。
 いつもの花梨らしからぬ態度に、翡翠も少し毒気を抜かれたようで、それ以上は何も言わなかった。
 






「ところで花梨?」
「…はい」
「今日はどうしたのかい?いつも変だけど、今日は輪をかけて変だねぇ…」
「いつもはよけいです!!」
「今日、変な事は認めるんだね?どうしたんだい?」
 落ち込みの原因自身に問われ、ますます花梨の肩が落ちる。
「ほっといてください。私は今、海より深い自己嫌悪に陥ってるんです」
「……また保険請求でミスしたのかい?」
「またって言わないで下さいよ!!!人聞きの悪い!!」
 聞き捨てならないセリフに反応して、キッと顔を上げて翡翠を睨みつけた。
「では、今回も?」
「かー!!ムカツク!!!」
「で、原因は?」
 すると翡翠に噛みつかんばかりだった花梨の勢いが、再びしぼんでしまった。
「………たから」
「え?」
「先生の誕生日、すっかり忘れてたから、お祝いの用意が出来なかった……」
 花梨が告げた内容に、翡翠が思わず苦笑する。
 何を一人で暴れていたかと思えば……。
「なんだ。そんなことかい。別にかまわないよ」
「私がかまうの!折角、派手にお祝いして、先生を嫌がらせようと思ったのに!!!!!!」
「………花梨」
「何にも用意できなかったよ〜」
 情けない顔でベソベソと嘆く花梨。
 翡翠は大きく肩を落として息をついた。
 そして花梨の前に膝を付き、小さな頭にポンと手を置いた。
 悪戯好きで意地っ張りの花梨らしい言いようで、翡翠の誕生日を祝いたかったと悔やむ姿が愛しい。
 翡翠は目元を和らげ、花梨の頭に置いた手で彼女をそっと抱き寄せた。
「花梨…」
「お祝いしたかったのに〜」
 素直に翡翠の胸に納まりながら、花梨は口惜しげに翡翠の硬い胸板を叩いた。
 翡翠は楽しそうに喉の奥で低く笑いながら、花梨の顔を覗きこんだ。
「ねぇ、花梨?」
「一年に一回の先生の誕生日をころっと忘れるなんて…。ごめんね」
「謝る事はないよ。……でも、花梨?」
「はい?」
「私の誕生日を祝ってくれようと思った気持ちは嬉しいけれど、気持ちだけ?」
「……だから用意するのを忘れてたって」
「違うよ。ねえ、花梨?この可愛らしい唇は、用意できなかった事を嘆くだけしか出来ないのかい?」
「あ…」
 唇を指でスッと撫でられ、花梨が小さく声を上げる。
「私はまだ、君から寿ぎの言葉を聞いてないのだがね」
「……忘れてた」
「まったく、どうしてこう忘れっぽいのかね?」
「うわ〜ん!ごめんなさ〜い!!」
「はいはい。謝らなくていいよ」
 くすくす、翡翠は珍しく機嫌よく笑う。
 花梨はそんな翡翠を見上げて照れくさそうに笑った。
「お誕生日、おめでとうございます。先生」
「不合格」
「何よ、それ!」
「『先生』」
「あ…」
 翡翠に指摘され、やっと気付くうっかり者。
 翡翠の整った指先で軽く額を小突かれ、花梨は舌を出して体をすくめた。
 まだまだ呼びなれない名前。
 先生と呼ぶ事が多いから、いつも間違ってしまう。
 花梨は軽く咳払いをすると、改めて翡翠の瞳をまっすぐに見つめた。
「翡翠さん。お誕生日おめでとうございます」






 そして薄い笑みを浮かべた唇に、羽根のような祝福のキスが贈られた。












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