この作品は、想像上の世界です。
似たような街があっても、気のせいです(笑)
パラレル、パラレルと10回唱えてください。



以上をご承知下さる方のみ、スクロールしてくださいませ。































 きしり…、と二階の階段が軽く軋む音がする。
 それは毎日行われる儀式の幕開けを告げる音。
 それを耳にして、僕は華やかな着物を手に取る。
 ゆっくりと近づいてくる足音。
 誰もが同じような音を立てるのに、この音だけが僕の特別。





「依織くん…」
 はにかむように呼ばれて、戸口に立った白粉でめかしこんだ君に僕は鏡越しに微笑んで見せた。
 この花街で一番の売れっ妓が僕に向かって笑ってる。
 その笑顔は少女と呼ぶに相応しい可愛らしさと幼さを持っていて、とても政財界や経済界の重鎮をしっかりと接待する妓とは思えない。





 可愛い僕の幼馴染み。





 この花街で育った僕達二人。
 僕の家は元々舞妓芸妓に着物を着付ける男衆(おとこし)と言われるものを生業としてきた。
 だから僕は自然とその道を選んだ。
 4つ年下の彼女は、幼い頃から見慣れていた美しい舞妓に憧れ、この花街の中で生きる事を選んだ。





「おいで…、すず」
 手に持った美しく豪奢な着物を広げてみせると、むぎは素直に歩み寄って僕の前に背を向けて立った。
 豊かな長い黒髪は綺麗に結い上げられ、細い項が無防備に晒されている。
 首にまでしっかり塗られた白粉。そこに残された素肌。
 色香漂うその項に触れたい欲望を抑え、着付けられるのを急かすように心持ち後へ反らされた腕へ、僕は着物の袖を通した。
「今日は、一人?」
 いつもは置屋のお母さんがいるのに、今日は彼女以外の気配がしない。
 ついこの前までここにいた、彼女のお姐さん舞妓は襟替えをすまし、慣例どおり置屋を出て一人住まいを始めた。
 舞妓見習いのお仕込みさんもいない現在、この置屋にいるのは僕の前に立つ彼女、舞妓『すず葉』だけだった。





「お母さんは用事があるとかで、ちょっと出てるの」
 長い袖を腕に巻きつけ、すずの前に回った僕が合わせを整える手元を見ながら答える。
 そして腰紐で結ぶと、すずがくすりと笑った。
「何?」
 僕は着付けの手を止めずに、すずに問いかける。
 するとすずは舞妓にはあるまじき悪戯っぽさで舌を出して笑った。
「やっぱり依織くんじゃないとね、って思って」
「ああ、着付け?」
 しゃべりながらもどんどんと着付けていく僕に、すずはタイミングを合わせて踏ん張ったりと忙しい。
 舞妓の着物を着付けるのはかなりの力仕事だ。
 独特の着付け方をするし、舞を舞っても着崩れない締めが必要となる。
 その締めは男の力でないと無理なところがある。
 女性ならば、舞妓を着付けるのに二人がかりでないと無理なほど大変な仕事だ。





「昨日、依織くん用事があって、代理の男衆さんが来てくれたでしょ?綺麗に着崩れないように着付けてくれたんだけど、なんだか変な感じで落ち着けなかったの」
 腰紐で整えたら、金糸銀糸の艶やかな刺繍入った置屋の紋がある帯を締める。
 帯幅のまま締めるそれはとても華やかで艶やかなものだ。
 その分、締めるのに並々ならぬ力がいるけれど。





「当たり前だよ、すず…」
 帯を整えつつ巻きながら、すずが口にした代理の男衆の感想に僕は笑った。
「依織くん?」
 僕の返答に、すずが不思議そうな顔をして首を傾げる。
 そんな年相応のあどけない表情は僕だけに見せてくれるもの。
「僕以上に、すずの好みに合うように着付けられる男衆はいないよ」
「依織くん、すごい自信だね?どこからくるの?その自信は」
 肩をすくめて苦笑する彼女。
 彼女の後にまわった僕は、ぐっと力強く帯を締め上げた。
 その力に踏ん張っていても彼女の身体が強く揺れた。





「愚問だね。むぎ」
 わざと声のトーンを抑え、彼女の耳元で囁くように本当の名前を呼ぶと、ぴくりと細い肩が揺れた。
 最上級の絹がたてる、帯の衣擦れの音が部屋に大きく響く。
「むぎの身体のすべてを俺は知ってる。むぎ以上にね…」





「…依織くんっ!」





 白粉が塗られていない首筋が、ほんのりと血の色をのぼらせた。
「むぎの身体の柔らかさも、描く微妙な曲線もすべて……。わかってるだろう?」
「っ、ダメ…」
 身体を震わせて首をすくめるむぎの耳に顔を寄せ、柔らかな耳朶を戯れるように食む。
「俺が着付けると、俺に抱きしめられている気がするだろう?」
「?!」
 耳元で囁いたセリフに、むぎが軽く息を吸い込むのが分かった。
 むぎが肩越しに僕を睨みつける。





 それがどんなに僕を煽るか、君は気付かない。
 ほんのりと赤く染まった目尻、潤んだ黒目がちな瞳。
 白粉で装っていなければ、すぐにでもその瞼にキスしたい。





 けれど君は僕以外の男の為に、美しく着飾っている。
 それを仕上げるのは僕の仕事。





 僕の知らない男達の元へ行かせる為に、僕は誰よりも綺麗に君を飾り立てる。
 それはいつも甘美な苦痛を伴った仕事だ。
 愛しい彼女を一番美しく出来るのは僕だけだという優越感と、存在自体が芸術のような君が決して僕の下には舞い降りてくれない事実。





 僕はただ、夜の花街へ君を送り出すだけ……。





「どうすれば君が心地よく感じるか、俺は知ってるからね…」
「…依織くん!」
 少し怒って僕の戯れを止めようとするむぎ。
 いつまでたっても初心なのが可愛い。
 だからからかわずにいられないのに、彼女はまったく気付かない。
「むぎを誰よりも綺麗に気持ちよく出来るのは俺だけだよ?他の男に着付けられて違和感を覚えるのは当たり前だね……。出来たよ」





 着付け終わった彼女の背を、軽く叩くのが今日の仕事の終了の合図。
 彼女と別れるのは名残惜しいけれど、この花街に男衆は少ない。
 舞妓や芸妓がお茶屋へ行く為に着付けをするこの時間は、僕にとって一分一秒たりとは無駄に出来ない。
 着付けながらほんの少しの本気を込めてからかっていたむぎとの時間もこれまで。
 僕はいつものように、次の置屋へと向おうとした。






「?」
 ピンと僕の服にかかる軽い抵抗。
 振り返ると、僕の服の端をすずが俯いて指先で握っていた。
「何?」
 珍しいこともあるものだ。
 いつもならすっかり舞妓すず葉になり、男衆としての僕に礼を言って送り出してくれるのに……。
 今日の彼女は外見は舞妓すず葉でも、気持ちはまだむぎらしい。





「……の?」
「え?」
 いつも元気なむぎらしくない小さな声が聞き取れず、僕は眉根を寄せてむぎを覗き込んだ。
 顔を近づけると、恥らうように顎を引く。そして僕を可愛らしい上目遣いで見つめた。
「依織くんの着付けで抱きしめられる姐さん、あと何人いるの?」
 紅をひいた朱唇が拗ねてちょっと尖っている。
 珍しいむぎの嫉妬。
 他の女が向けてくるものだったら煩わしいだけのその感情も、むぎがもたらしてくれるものだとどうしてこうも嬉しくなるのか…。
 でも君のように、僕は感情を露わにしない。
 ただ笑ってみせるだけ。
「依織くん!」
 むぎがまた僕の服の裾を引っ張る。
「妬いてくれるの?」
「そうだよっ!」
 むぎの答えに僕が驚いてしまう。
 意地っ張りな彼女はてっきり否定すると思っていたのに。
 首筋を赤く染めて、むぎが僕にしがみ付く。
 まったく……。
 君の素直さにはいつも負けてしまうね……。
 僕が締めただらりの帯と抜いた襟を潰さないよう、そっとむぎの背中に手を回した。





「心配しなくても、僕が抱きしめるのは君だけだよ?」
 舞妓すず葉になりきれない彼女を、僕は優しくなだめる。
 本音を言えば、このまま連れ去りたい気分だけれど、それはこの花街に生きる者には出来ないことだ。
 彼女はこの花街の宝だから…。






 幼馴染みという間柄故に見て見ぬ振りをされているけれど、本来なら舞妓と男衆の恋愛沙汰は禁忌。
 だからこそ、二人の関係につけ入る隙を見せられない。






「うそ!」
「むぎ?」
 いつもなら、素直に頷く君がどうしたことか、ますますギュッと僕にしがみ付いてくる。
 君がお座敷前でなければ、とてもうれしいのだけれどね……。
 しかし状況はそうも言ってられない。
 僕は柱にかかった古びた時計に目をやり、時間を確認する。
 次の置屋に行くには、すぐにでもここを出なければならない。
 遅れれば、むぎが僕を引き止めた、なんていう悪い噂になってしまうだろう。
 若い男衆は、それなりに年頃の舞妓や芸妓の視線を集めるものだから…。
 僕が悪く言われるのはかまわないが、むぎだと話は別だ。
 けれど、こんなに可愛く僕に縋っているむぎを無下に振りほどくなんて出来るはずがなかった。





「依織くん、この前豆華姐さんと腕組んで歩いてた!」
 むぎの唇が怒ってへの字に歪んでいる。
 むぎの機嫌が悪い理由を知って、僕は思わず小さく笑ってしまった。
 それがまたむぎの神経に触れたらしい。
「何がおかしいのよ!!」
 むぎが怒鳴って僕の胸を叩いた。
「ごめんよ。でも君の勘違いがおかしくて…」
「勘違い?」
「そう、勘違いだよ」
 でもむぎの目はまだ僕を信じていない。
 やれやれ、僕はそれほど信用がないのかな?
「……だって、豆華姐さんが依織くんとデートしたって言ってたって聞いたもん」
「してないよ」
「…嘘」
「うそじゃないよ。……確かに豆華さんに腕は組まれたけれど」
 豆華さんは僕が着付けを担当している芸妓さんだ。
 僕より少し年上のしっとりとした美しい人気の芸妓さん。
「ほら!やっぱり本当じゃない!!」
「だから、よく聞きなさい。僕から腕を組んだわけじゃないよ。……人の目があるところで、僕が豆華さんに恥をかかせるわけにはいかないだろう?」
「………豆華姐さんの着付けも依織くんでしょ?」
「それは仕事。僕が抱きしめるように着飾ろうと思うのはむぎだけだよ?」
「……」
 まだ不服そうに唇を尖らせてるけど、僕の言い分も分かるからだろう。
 言い足りない文句を膨れることで抑えている。






 そんな幼い仕草が似合う、幼い少女。
 ぼくはぷっくり膨れた愛らしい頬を、指先でつついた。
 





「それより、むぎ。少し痩せた?」
「え?ううん、体重は変わってないと思う…」
「じゃあ、少し体つきが大人っぽくなってきているのかな?」
「そ、かな?」
 僕の指摘に、むぎが抱きついていた僕から離れて、自分の姿を見下ろした。
 本当に少しでも目を離すと、君はどんどん綺麗になっていくね……。






「また、確かめないといけないかな?」
「依織くんっ!」
 わざと悪戯っぽく言えば、君は予想通り慌てて顔を上げる。
「女性の身体は繊細だからね……。僕に教えてくれる?」
 君が好きだという笑顔を浮かべて、僕は君を誘ってあげる。
 まだまだ君からは僕を誘えないようだから…。
 むぎは落とした視線をうろうろと彷徨わせ、そして小さく頷いた。
 





「次の休み、いつだい?」
「…明後日」
「そう。じゃあ、デートしようか?」
「依織くん?」
 びっくり眼でむぎが顔を上げた。
 僕が君をデートに誘うのは、そんなに意外な事なのかな?
「君が勘違いした豆華さんとは違う、本当のデートに行こう」
「…うん!依織くん!!」
 むぎらしい満面の笑み。
 どうやら、あっさりと君の機嫌は治ったらしい。
 僕は軽くむぎの肩に手を置いた。
「機嫌は治ったかな?すず」
 すずと僕が呼んだ瞬間、彼女の表情がきりりと引き締まった。





 彼女が舞妓すず葉に切り替わった瞬間だ。





 彼女の表情が変わると、部屋の空気まで変わった気がする。





「ではね。すず…」
「ありがとう。また明日もお願いします」
 しとやかに頭を下げる舞妓すず葉に見送られ、僕は置屋菊風を後にした。





 夜の街に、すず葉のおこぼの音が響くのももうすぐ……。













<終>