(第1回)

可部線は浜田と広島とを結ぶ
陰陽連絡路線『広浜線』として計画され、1969年、三段峡まで開通した。
当時、沿線では林業が隆盛を極め、材木や木炭が広島市内へ運ばれていった。

しかし、時代の趨勢により可部線の走る沿線は
林業の不振、それに伴う厳しい過疎化に苦しんでいた。

浜田までの延伸計画は国鉄の財政難を理由に頓挫。
次第に列車の本数は減少し、旅客運輸としての役割は失われつつあった。

連日ローカルニュースで伝えられる、地元住民による存続運動。
それに応えるかたちで実施された試験増便、廃止の1年延長・・・
しかし、そんな努力もかなわず2003年11月いっぱいで廃止が決定。

そこで、廃線間際の姿を少しでも多くカメラに収めようと撮影に出かけてみました。
ささやかですが、そのときの可部線の写真をいくつか展示してみたいと思います。


2003年11月30日

ついに最終日を迎えた。
朝4時半、安野、加計に保存されることになった列車を運ぶ
回送列車が可部駅を通過すると聞き、4時ごろから駅で待機。

到着時刻が近づくにつれ、10人くらいのギャラリーが集まる。
この時期の4時半といえば、まだまだ暗い。
三脚を立てながら、ちゃんと写るだろうかと不安になる。

やがて、広島寄りの踏み切りの警報機がなり始め、2灯のヘッドライトが近づいてくる。
先頭を行く赤のDE10・・・可部線にディーゼル機関車が入線することはかなり珍しい。
ゆっくりとカメラのフレームに入ってくるかと思いきや、予想よりはるか手前で停車してしまった。
あわてて三脚を担いで列車へ向かって走る。

機関車には4人くらいの乗務員が狭そうな運転室に乗っていた。
その後ろに率いられているキハ40とキハ58・・・普段見慣れた黄色と白の列車。
しかし、このときは室内灯はもとより、ヘッドライト、テールライトも点けず、
まるで死んでしまったような、そんな印象を受けた。

可部駅に停車中の回送列車。
出来上がったままの写真では
真っ黒だったので、
いろいろ補正を試みたものの
どうやらこれが限界みたいです(汗)
可部駅を出発する回送列車。
黄色い残像をご確認いただければ幸いです(笑)

夜間の撮影は難しいですねぇ(汗)

回送列車を見送った後、バイクに乗って追いかけてみた。
日曜日の早朝。交通量が皆無に近い国道191号を北上する。
鉄路は国道よりも遠回りするコースを取る上、各駅に停車することから、
普段なら簡単に追いつくことが出来る。

しかし、回送列車は全駅を通過するため、
安野駅で何とか追いつくことが出来た。
真っ暗なホームをDE10がヘッドライトのみを頼りに通過していく。

後から聞いた話では、ここで数人が『駅寝』していたようである。
この日の朝は意外と暖かかったが・・・大丈夫だったのだろうか?

安野から引き返して、家路をたどる。
今思えば、なんで追いかけるなんてことをしたのか分からない。
昨夜の徹夜でテンションが異常に高かったことが原因だろうか?
自宅に着くと、ぐったりと力が抜け、そのままベットに倒れこんでしまった。


午前11時に目が覚める。
沿線住民を招待して運行される団体列車を撮影するために
今井田駅へ向かった。

通過時刻の15分くらい前に到着。
メジャーな撮影ポイントではないので、4〜5人くらいが集まっているだけだった。
駅のホームにはJRの駅員さんが立っていた。
この小さな無人駅に駅員が立つのは何年ぶり・・・いや、いまだかつてなかったのかもしれない。
駅近くの踏切には警備員さんが立ち、廃線が現実のものであることを実感する。
おそらく、翌日にはすべての踏切が撤去されるのだろう。

その踏切の警報機が鳴り、団体列車の接近を知らせる。
この列車には特製のヘッドマークが付けられている。なんとしても写真に残さねば。

広島市などの地元自治体によって
運行された団体特別列車。

ヘッドマークには
『ありがとう、かべせん』の文字とともに
存続運動のイメージキャラクター
『かべせん君』が
デザインされていました。
ホームから手を振って見送る人たち

折角なので、20分後に来る下り列車を待つことにした。
しばらくすると、地元の人と思われる数人がホームにやってきた。

『あれ?今日は電車に乗るん?』
『ほうよ。今日は最後じゃけぇねぇ』

そんな会話が交わされる。
普段は自家用車で市内まで出るのだろう。
何とも云えないもどかしさを感じながら、列車を待つ。


午後から所用があったため、今日の撮影はここまで。
最後の瞬間には立ち会うことが出来なかった・・・(泣)

目次第2回

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