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五島・天草天主堂巡礼記 関係地図
2日目 前編(9/4)
目が覚めると、朝の5時過ぎ。
博多を出港して2番目に寄港する小値賀島を出港したころでした。
お客さんは依然かなりの数の人が乗っていました。みんな福江まで行くのかなぁ・・・
やがて、3番目の寄港地、中通島の青方港に到着。
ここでほとんどのお客さんが降りていきました。
中通島は明日上陸する島なので、窓の外の様子をチェックしてみたのですが、
結構山が高く、でこぼこした島なのかなぁって云う印象が残りました。
乗客が減ったので、今のうちにコインシャワーを利用することに。
石鹸を持ってきていなかったことに初めて気づき、激しく後悔(笑)
料金は100円で8分くらいだったでしょうか。
その後、フェリーは若松に寄港し、8時過ぎに奈留島へ到着。
ここで、年配の人10人くらいが乗船。福江の病院にでもいくのでしょうか?
このフェリーは旅客業務だけでなく、離島の生活を支える物資の輸送も担っています。
島に寄港する度に、船内から大きなコンテナの荷揚げが慌しく始まります。
やっぱり、離島の生活は大変ですねぇ。
9時過ぎ、終点の福江島へ到着。
福江は五島列島の中で唯一の市。
街中には商店街やコンビニ、ビジネスホテルなどが立ち並び、
五島列島の中心地にふさわしい賑わいを呈していました。
福江から島を一周する道路を北上し、最初の目的地、堂崎天主堂へ向かいます。
堂崎天主堂は1908年、五島ではじめての洋風天主堂として完成。
以来、福江島のキリスト教信仰の中心としての役割を果たしてきました。
建物正面は赤レンガ造りで、洋風な感じですが、
建物の奥の部分は瓦葺になっており、和洋折衷的な構成になっています。
天主堂内部はキリシタン資料館として、一般に公開されています。
ここで、五島のキリスト教の歴史について少し。
日本にキリスト教が入ってきたのは、1549年のザビエル鹿児島上陸からといわれています。
その7年後、2人の外国人宣教師が五島に上陸、布教を開始しました。
福江島の領主、五島(宇久)純堯は説教を受けるとすぐ洗礼を受け、最初の教会が建てられるなど、
キリスト教は順調に五島全体に広まっていきました。
しかし1579年、純堯が死去し、跡を継いだ純玄はキリスト教を迫害。
時を同じくして、豊臣秀吉によるキリシタン禁教令が発令され、
弾圧と潜伏の時代が始まります。
また、江戸時代中期になると、農民不足を解消するために
五島藩が長崎の大村藩に農民の移住を求めたのを好機として、
当時厳しい迫害を受けていたキリシタンたちは五島へ集団移住しました。
が、五島においてもキリシタンの迫害は激しく、信徒の投獄は江戸時代を通じて続いたのでした。
そんなキリスト教の迫害も、明治政府によるキリシタン禁教の撤廃によって終わりを告げ、
信徒たちは信仰の自由を与えられることになりました。
これを機に、五島各地に天主堂が立てられるようになったのですが、
堂崎天主堂もそのひとつなのです。
というわけで、堂崎天主堂の資料館には、踏み絵やマリア観音などの
江戸時代の迫害を物語る生々しい資料が展示されていました。
堂崎天主堂を後にして、西へ向かいます。
次の目的地は魚津ヶ崎(ぎょうづがさき)です。
・・・知らなかったらなかなか読めないような難読地名ですね(汗)
魚津ヶ崎は遣唐使が中国にわたるときに最後に寄港した停泊地だそうで。
空海や最澄などもこの入り江に立ち寄ったと、案内板に記されてありました。
ここは公園として整備されており、キャンプ場も設置されていると、
手持ちの地図に書いてあったので、今夜の宿はここにしようかなぁって思ってたんですが、
オフシーズンだったせいか、管理棟は閉鎖されており、不安になりパスしました。
再び一周道路に戻って、西へしばらく行くと水之浦天主堂に到着です。
水之浦天主堂は1938年に完成しました。
先ほどの堂崎とは打って変わって、白ペンキの映える天主堂です。
地域によって全然違う個性が見られるのも天主堂めぐりの楽しみですね。
水之浦天主堂の近くに、楠原天主堂があると地図には描いてあったんですが、
なかなか見つかりません・・・
とりあえずさらに一周道路を西に向かうことにしました。
途中きれいな砂浜があったので、一休み。
地図で調べると高浜という海水浴場とのこと。
こんな海で泳げたらいいでしょうなぁ・・・
ということで、2日目前半はここまでということで。
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