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五島・天草天主堂巡礼記 関係地図

3日目 前編(9/5)

テントの中で目覚めると、朝の6時・・・やば、寝過ごした(汗)
ご飯を炊きながら、テントに付いた夜露をタオルでふき取る。

朝ごはん・・・ご飯、味噌汁、丸天

テントを撤収して、福江港に向けて出発です。
港に向かう途中、ガソリンが心もとなかったので、港近くのガソリンスタンドで給油しておくことに。
レギュラーでリッター126円・・・((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
やっぱり離島の生活は大変です(汗)

中通島へ渡る船はいくつかの船会社が運営しているのですが、
今回は行きと同じく、野母商船のフェリー『太古』を利用することにしました。

福江港停泊中の『太古』
10時に窓口が開き、チケットの発売が始まります。
運賃は、1790円(2等客室)+2140円(400ccバイク)=3930円
・・・人の運賃よりバイクのほうが高いのって、普通なのでしょうか?(汗)

出港までの間、フェリーにはたくさんのコンテナが、
フォークリフトで慌しく積み込まれていきます。
なんか、バイクよりも荷物のほうが優先されてるような気がします・・・(汗)
まぁ、しょうがないですねぇ

フェリーは10時40分に福江を出港。
お客さんが少なかったので、適当に場所を取って仮眠をとる。
この日も天気がよく、波も穏やかだったので、心地よく眠ることができました。

12時20分、中通島の青方港に到着。
港からも見える大曽天主堂へ向かいます。
  
大曽天主堂は1916年(大正5)に、
長崎の外海から移住してきたキリシタンたちが、労働奉仕して完成したといわれています。
正面に三階建ての塔が立つ、レンガ造り平屋建ての天主堂です。


大曽から島の南端へと走っていると、『平家塚』という案内板を見つけたので、寄り道してみました
  
案内板によると、
『壇ノ浦で敗れ、西南の島々に落ち延びた平家一族のうち、このあたりの山中に身を隠していた
十数名の者たちが、源氏の追討の手の急なるを知って、もはや逃れるすべなしと全員が自刃して果てた。
これを哀れに思った村人たちがその遺体を手厚く葬り、碑石を立てて供養した。
今もなお、『平家塚』と称して供養を続けている・・・』とのこと。

こんなところにまで、平家の落人伝説が伝わっているとは驚きです。
そういえば、福江藩の五島氏も出自は嵯峨源氏(松浦党と同じ?)だと云ってたようですし、
都から下ってきた源平藤橘の貴族が地方で貴種とみなされて、
現地の領主と血縁的に結びついた、ということも多かったのかもしれませんね。
真偽は別として、興味深いところではあります。


さらに南へ下り、島の南端の奈良尾町に入ったあたりに
次の目的地、福見天主堂があります。
  



福見天主堂は1913年(大正2)に完成。
福見も、大曽と同じく長崎の外海から移住した人たちが開拓した集落。
現在でもキリスト教徒が住民の98%を占めるという、島内でも有数のキリシタン集落とのこと。

ここの説明版を見て、
『あれ?『有数の』って・・・?隠れキリシタンの人は、
明治以降もそのままキリスト教徒になったんじゃないの?』
という、疑問が出てきました。

後で調べてみると、明治に入って信仰の自由が許された後、
隠れキリシタンたちは再び、宣教師の指導下に入ったのですが、
一方では、潜伏の時代から抜け出ることができず、教会に属さずに今日に至っている信徒たちがおり、
そうした信徒たちのことを部外者たちは『隠れキリシタン』とか『はなれ』とか呼んでいるが、
当人たちは、その言葉を好まず、『元帳』とか『古キリシタン』などと称しているそうです。

たとえば、五島列島のひとつ、奈留島では
人口5300人のうち、3割が仏教徒、1割がカトリック信徒、6割が隠れキリシタン・・・ということです。

ざっと調べただけなので、余所者の自分にとっては実情がよく分からないのですが
信仰の自由、表現の自由が認められる時代になっても
自らの信仰を表現することができないということは、
それだけ、300年にわたる弾圧が厳しかったということなのかも知れません。


というところで、3日目前半はここまで。

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