吉川(きっかわ)氏は安芸国(広島県東部)を中心に勢力を伸ばしていた戦国大名です。
もともとは現在の大朝町一帯を支配していた豪族でしたが、元春の代に大きく発展しました。
元春は実は毛利元就の次男なのですが、養子として吉川家に入りました。
元春と毛利隆元(兄)と小早川隆景(弟)の三兄弟は、互いに助け合いながら毛利家を盛り立て、
中国地方を支配する大勢力に育て上げました。
『一本の矢では簡単に折れてしまうが、三本では折れにくい〜』で有名な『三矢の誓い』は、
この毛利三兄弟がモデルになったといわれています。
このシリーズでは吉川氏ゆかりの旧跡をたずねた記録をご紹介していきたいと思います。
第1回 大朝荘時代の吉川氏
第2回 日野山城時代の吉川氏
第3回 岩国時代の吉川氏(予定)
以上のような構成で進めてみたいと思いますが・・・変わる可能性もあります(笑)
それでは、とりあえず第1回をご覧下さい。
第1回 大朝荘時代の吉川氏
吉川氏の先祖は藤原鎌足だとされています。
鎌足から数えて18代目の経義の代に駿河国(静岡県東部)有度郡吉川邑へ移住し、吉川姓を名乗りました。
さらに、21代目の経高の代には安芸国大朝本荘へ一族を引き連れて移住。駿河丸城(大朝町)に本拠を置きます。
その後、南北朝時代には本拠を規模の大きな小倉山城(大朝町)に移し、勢力拡大に努めました。
応仁の乱では西軍として参戦し、京都で多くの戦功を挙げました。その戦う様は敵に『鬼吉川』と恐れられるほどだったといわれます。
時代は下って戦国時代。
吉田郡山城を本拠にしている毛利元就は山陰進出の拠点を築くため、
吉川氏に自分の次男・元春を養子に送りこもうとしていました。
元就は先に自分の三男の隆景を小早川氏へ養子に送り込むことに成功しており、
吉川氏にも同じ手を使おうとしたのです。
時の当主、興経はこの養子縁組に猛反対。
興経はこのときまだ30歳、さらに元服前でしたが自分の息子も居たのですから当然です。
そこで、元就お得意の謀略が仕掛けられます。
元就は興経に不満を持つ吉川家の家臣を煽り、反乱を起こさせました。
これに手を焼いた興経は結局、元春の養子縁組を受け入れざるを得なくなり、自分は隠居することになりました。
さらに、本拠地の大朝から退出することを要求され、興経は息子を連れて深川(広島市安佐北区高陽町)へ移りました。
その3年後、興経と息子は元就の家臣に暗殺され、吉川氏の嫡流は途絶えたのでした。
それでは、今回は元春がやってくる前の吉川氏の史跡を幾つかご紹介していきましょう。
小倉山城跡(広島県大朝町)
先に書きましたが、南北朝時代、吉川経見によって築城された山城です。
後に吉川元春が日野山城に本拠を移すまで170年間使用されました。
アクセスは浜田自動車道大朝ICから国道261号を江津方面にしばらく行くと、右手に城跡入り口の看板が現れます。
大河ドラマの元就ブームの時に整備されたと思われる広い駐車場から登ります。
登山口から山城を望みます。
最高所の『甲の丸』からの眺めです。
登山口から頂上まで10分くらいですかね。標高差は80mなんでそんなにきつくないです。
こじんまりした山城です。
麓の池には菖蒲園がありますので、梅雨の時期なんかに訪れると良いかもしれません。
龍山八幡神社(広島県大朝町)
鎌倉時代後期の正和2年(1313)に吉川経高が駿河国から勧請した神社。
現在の本殿は永禄元年(1558)に吉川元春が再建したもので、国の重要文化財に指定されています。
アクセスは大朝ICから国道261号を江津方面へ200mくらい行くと、左手に案内板があります。
拝殿(左)と本殿(右)
本殿は三間社流造
本殿正面の蟇股には吉川家の家紋が彫刻されてます。
枝宮八幡神社(広島県大朝町)
南北朝時代に吉川千鶴丸が五穀豊穣と村里安穏を祈願して狛犬を奉納するなど、
吉川氏の信仰が篤かった神社です。
現在の本殿(県重要文化財)は天正3年(1575)に吉川元春が再建しました。
大朝ICから県道5号線を旭方面へ、大朝町の市街地を過ぎたあたりの道端にあります。
参道入り口の鳥居(左)と拝殿(右)
拝殿の後ろに本殿があったんですが、周りが暗くて上手く写ってませんでした(泣)
吉川興経墓所(広島県千代田町)
元春が小倉山城入りした天文19年(1550)の9月、
毛利元就は深川の吉川興経屋敷を急襲し、興経と息子・千法師を殺害しました。
このとき殺された興経の首を生前可愛がっていた愛犬がくわえ、
興経の故郷である大朝まで運ぼうとしました。
しかし、大朝の手前の中山峠で力尽きたため、その場で首と犬を葬ったと伝えられています。
墓所は興経の菩提寺だった常仙寺の跡地にあります。
アクセスは大朝ICから国道261号を広島方面に戻り、千代田町に入ってしばらく走ると
日野山城入り口の案内板が右手にありますので、そこを入ります。
日野山城登山口の脇に常仙寺入り口の看板があります。
興経の首塚(左)と犬塚(右)
犬塚は首塚の少し上手にあります。
犬が息絶えた時に首が転げ落ちたためとも言われています。
土地の人たちによって掃除され、とても綺麗な状態に保たれていました。
龍山八幡神社境内にある治功神社
興経とその子・千法師の霊を祭っています。
ということで、『吉川氏ゆかりの地をたずねて』第1回はここまでです。
次回は元春と元長の時代の史跡をご紹介していきたいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。