「にゃあ!!」
「大丈夫ですよ、望美さん。ヒノエは優しいですから。……女の子には」
姿は見えないが、廊下から弁慶と猫の女の子の鳴き声が聞こえてきた。
「………やっぱ、むかつくぜ」
ヒノエに聞こえているのを承知で、さらりと嫌味をくわえる弁慶に対し、ヒノエはソファーにふんぞり返って舌打ちをした。
「望美さん、こちらへ…」
弁慶に連れてこられながら、まだ戸惑っているのか、猫の鳴き声はすれど姿は見えない。
先に部屋に姿を見せた弁慶が、彼女に手を差し延べている。
ヒノエは髪をくしゃりと掻きあげて、部屋の外の猫に呼びかける弁慶に言った。
「あんまり無理強いするなよ。可哀想だろ」
しかしヒノエの非難もどこふく風。
弁慶はくすりと笑みを深めた。
「ほら、望美さん、ヒノエは優しいですよ。君を気遣ってくれている。怖がることはありませんから……」
「あのなぁ…」
弁慶の口から優しいなどと言われて、あまりの気持ち悪さに鳥肌を立てながらヒノエは顔を顰めた。
「にゃ〜」
声は近い、扉のすぐ傍に彼女がいるのはわかる。
ちらりと見えたのは、彼女の手だろうか?
弁慶は何度か彼女に呼びかけて、自分から部屋に入るよう促していたのだが……。
動く気配のない彼女に、弁慶はわざとらしい溜息を大きくついた。
「……望美さん」
弁慶の声のトーンが僅かに落とされる。
「にゃぁ…」
弁慶の表情は変わらず穏やかなままだが、身に纏う空気が変わった。
ヒノエの前に姿を見せない猫にもそれはわかったのだろう。
鳴き声がとたんに小さく不安に包まれたものになった。
猫とはいえ、女性相手に珍しい態度を見せた弁慶を眺めつつ、ヒノエはドアへと目を向けた。
猫の女の子は敏感に弁慶の苛立ちを感じ、真っ白な耳をドアから見せた。
弁慶が見せたその苛立ちは計算されつくしたものなのだが…。
人よりも純粋な猫には分からなかったらしい。
「いらっしゃい」
弁慶が差し伸べた手を取った、白く細い手。
姿を見せたのはヒノエと同じくらいの年の、可愛らしい綺麗な猫の女の子だった。
だが、その容姿には似つかわしくない、意志の強い眼差しがとても印象的で、ヒノエは一瞬目を奪われてしまった。
望美と呼ばれた猫は、今まで怖がって部屋に入ってこなかったとは思えない鋭さで、ヒノエをしっかりと見据えたのだった。
「……猫?」
ヒノエは見慣れた猫族の特徴とは少し違う望美の姿に、訝しげに目を細めた。
「稀少種、と言ったでしょう?望美さんは、普通の猫族よりも人に近いのですよ」
弁慶は恭しく望美の手を引き、ソファーに座って足を組むヒノエの前に立たせた。
ヒノエを警戒して睨む彼女の瞳は少しも揺るがない。
その瞳は猫というより、まさしく人の瞳。
そして猫族特有の鋭い爪も無い。
綺麗に整えられた爪は、手入れされた人の女性となんら変わりはなかった。
弁慶はヒノエを見据えたまま視線を動かさない望美に、柔らかく微笑みかけた。
「望美さん、君をヒノエに預けようと思います。…ヒノエの事は、知っていますね?」
「え?」
ヒノエは望美の姿を目にしたことはなかった。
その存在さえ知らなかった。
それなのに、彼女はヒノエを知っているのか…。
驚くヒノエの前で、望美は弁慶の問いに小さく肯定の頷きを返した。
「…幼い頃から遊びまわるヒノエを知らない猫は、この屋敷にいませんよ。……もちろん、三階のお嬢さんもね」
最後の一言に弁慶が含みをもたせて小さく言った。
三階の猫がヒノエにとって『特別』なのは、彼が幼い頃から知っている。
三階の猫関連で何度もヒノエに絡まれたのだから。
「へぇ…。三階の猫もオレを知っているか…」
ヒノエの僅かに嬉しさを含ませた呟きを拾ったのか、望美の耳が小さく揺れた。
ヒノエの呟きに対してのコメントはせず、弁慶は望美の背を軽くヒノエの方へと押した。
「しばらく彼女を君に預けたいと思います」
「しばらくってどのくらいだよ?」
「しばらくはしばらくですよ。…彼女は、ここの屋敷以外をほとんど知りませんからね。世間を知ってもらおうと思いまして」
「…どうしてオレなんだ?」
「……望美さん。ヒノエの家へ移る準備をしてきて下さい。いいですね?」
弁慶はヒノエの問いには答えず、望美を部屋の外へと促す。
どうやら、望美にこの先のヒノエとの話を聞いて欲しくないらしい。
そしてヒノエに望美をこのまま連れて帰らせるつもりのようだった。
弁慶の強引さに望美はごねると思ったヒノエだが、意外にも彼女は少し不服そうに唇を動かしただけで、こっくりと頷きくるりと踵を返した。
滑らかな身のこなしはさすが猫、というところだろうか?
長い髪を揺らして部屋から出て行く望美を、ヒノエは惚れ惚れと見送ったのだった。
「彼女は意地っ張りなんです」
ヒノエに向かい合う位置のソファーに座って、弁慶は少しだけ困ったように笑った。
「ん?」
「何人か、信用できる方に預かってもらったんですが、一週間ともたなくてね…」
「意地っ張りだから?」
「…彼女は人に慣れないのですよ。稀少種で他の猫族とも馴染めない…。彼女はいつも一人でしたから…。唯一の同族は、幼い頃この屋敷を出ましたし…」
「同族がいたのか?」
「ええ、白猫の彼女とは対称的な美しい黒猫でした」
「で、どうしてオレに?確かに猫とよく遊んでたけど、オレは猫族と暮らしたことなんて無いぜ?ましてや稀少種なんて……。いいのか?」
それが不思議だった。
弁慶がこれまでヒノエにも存在を掴ませなかった稀少種をいきなり預けるなど…。
血縁だから、などという甘い考えは、弁慶は持っていないはずだ。
その真意を探るようなヒノエの眼差しを弁慶は真っ向から受け止め、穏やかに話し始めた。
「ヒノエならば、彼女も知っていますからね。顔も知らない人間に預けるよりはいいかと。…ペアリングさせる前に、少し自由な時間を彼女に楽しんでもらいたいのですよ」
「ペアリング?」
「彼女ももうすぐ適齢期に入ります。稀少種ですから、相手は吟味しますが……」
「……しばらくなんだな?」
「ええ、しばらくです。君の生活を長くは邪魔しませんよ。もとより、彼女をこの屋敷から出すつもりはありません」
「……仕方ない。預かるけど、特別なことは出来ないぜ?」
「かまいません。ただ、満月の日だけは、こちらへ戻してください」
「満月の日?どうしてだ?」
「一月ごとでもいいのですが、彼女は月齢の方が本能で理解しやすいですからね。…健康診断ですよ、彼女は貴重な猫ですから」
「なるほど」
「特別、君が気にしなくても、僕が望美さんを迎えに行きますから」
「お前がそれほど大事にしてる猫をオレが預かって大丈夫か?」
「ええ。彼女は基本的に放っておいたら好きに過ごします。それにこれから、しっかりとレクチャーしますから。君なら、大丈夫ですよ」
にっこり微笑みながらも、目が笑っていない。
ヒノエは弁慶の厳しさを想像して、げんなりと息を吐いた。
弁慶の猫族との接し方の事細かなレクチャーが終わろうとする頃。
「うにゃん」
部屋の外から二人を呼ぶような声がしたかと思うと、大きなバッグを手に持った望美が扉から顔を覗かせた。
「用意ができましたか…」
弁慶がすっと滑らかな動きでソファーから立ち上がる。
ヒノエも組んでいた足を解いて、やれやれと腰を上げた。
そしてヒノエはまっすぐに望美の前に歩いていった。
「なぅ……」
ヒノエの強い視線に見つめられて、望美が少し戸惑うように顎を引く。
それでも目を逸らさないのは、勝気な性格があるからだろうか?
ヒノエは望美の前に立ち止まると、不思議そうに首を傾ける望美の手を取って膝を折った。
「では、姫君?」
「…にゃ?」
「これからしばらくの間、私と一緒に過ごしてもらえますか?」
ヒノエは芝居がかった口調で、望美の手の甲にうやうやしくキスを落としたのだった。
こうしてヒノエと猫の望美の生活が始まった…。
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