「そろそろ、潮時かな……」
ライブと軽い打ち上げで、心地よく疲れた身体をホテルのベッドに投げ出し、一人天井を見ていたヒノエがぽつりと静かに呟いた。
「……ん?……何?」
祖父の家の客間で寝ていた望美は、枕の横で震える携帯に気づいて、顔をしかめながら目を覚ました。
気持ちよく寝ていたのをいきなり叩き起こされた望美は、まだよく開かない目を瞬かせながら、ごそごそと枕の横を手で探った。
部屋の中はまだ暗く、夜明けを迎えていないことがわかる。
寝るときはマナーモードにしてる携帯が音楽を鳴らすことは無いけれど、その振動が望美の眠りをやぶったのだ。
「…誰よ、もう」
寝起きの掠れた声で文句を紡ぎながらフラップを開くと、そのディスプレイの明るさが目に沁みて、まともに相手を確認しないまま通話ボタンを押した。
「……もしもし?」
普段なら相手を確認しないまま電話に出たりしない。
でも常識知らずな時間に叩き起こされて、望美の頭は上手くまわってなかったらしい。
望美は起きぬけの舌足らずな口調で、不機嫌に電話口に答えた。
『…おはよう、望美』
「んー?誰〜?」
笑いを含んだ男の声は、どこかで聴いたことがあるような気がする。
望美は瞼をゆっくり閉じながら、眠たげに相手の名を尋ねると、向こうでふっと笑う気配がした。
『もしかして寝ぼけてるのかい?』
「……うん」
『お姫様はキスがないと起きられない?』
「……ヒノエくんっ!?」
からかい混じりの囁き声が望美の耳に流れ込み、その相手に思い至った瞬間、望美の眠気は一気に吹き飛んだ。
望美は驚きのまま携帯を持っていない手を付いて、がばっと上体を起こした。
『おはよう』
笑いを含んだ耳に心地よく響く声は、こんな時間なのにいつもと変わりないからかいを含んでいた。
「お、おはよう…」
望美は戸惑いながらも、素直にヒノエへ朝の挨拶を返した。
『目が覚めた?』
「おかげさまでっ!」
人を叩き起こしておいて、飄々としたその言い草は何だろう?
望美は寝起きの機嫌の悪さも手伝って、少し怒って嫌味たっぷりに言い放った。
『そう怒るなって』
「怒るわよ。何時だと思ってるの?」
『んーと、5時…』
「お・や・す・み・な・さ・い!!」
のんびり馬鹿正直に時刻を口にするヒノエを遮って、望美は電話を切ろうとした。
いつもなら考えられないほど強気な望美の行動は、まだ完全に目覚めていないため。
ヒノエはそんな望美の様子を気にすることもなく、くすくす笑いながらちょっと待てよと望美を止めた。
「……何?」
『朝早く起こしたのは謝るからさ、オレに約束を守らせてくれない?』
「約束?」
『桜を見に行こう…』
「え?」
予想もしないヒノエの申し出は、望美の思考を固まらせるのに十分な威力を持っていた。
朝早くから何を言っているのか?
ヒノエの意図がわからなくて、望美の眉間に皺が寄る。
しかし望美の戸惑いさえも、ヒノエは楽しんでいるようだった。
『今から出て来いよ。一緒に桜を見よう?』
優しい誘い文句は、まるでヒノエがそばにいるような錯覚に陥りそう。
望美の脳裏に思い浮かぶ、鮮やかなヒノエの微笑み…。
「……うん」
望美はそっと恥ずかしそうに顔を伏せながら小さく、でもしっかりと頷いた。
どこまで迎えに行けばいい?と聞かれ、望美は祖父の家近くの大きな公園を指定した。
その公園に、見事な桜が咲いているのを知っていたからだ。
昔、子供の頃によく祖父と散歩をした大好きな公園。
そこの桜が見たいと言ったら、ヒノエは笑っていいよと応えてくれた。
もしかしたら、ヒノエは別の桜を考えていたのかもしれない。
でもヒノエが「桜を見に行こう」と誘ってくれた瞬間、望美の脳裏に思い浮かんだのはその公園の桜だった。
大好きな場所の大好きな桜を、ヒノエと一緒に楽しめたなら…。
そう思ったから…。
望美は手早く身支度を済ませ、丁度起きてきた祖母に声をかけてから、そっと家を出た。
春とはいえ、まだ日の昇らない朝方の空気は冬のように冷たく、望美は寒さに体を震わせた。
吐き出す息は空へ白く溶けていき、望美は昼間と同じ服を着て出てきた自分の迂闊さを呪った。
けれどヒノエに早く会いたくて、望美は体を芯から冷やしていくような風の冷たさに耐えながら、公園に向かって駆け出した。
「ヒノエくん!」
ヒノエは公園の入り口にそっと佇んでいた。
息を弾ませて駆けて来る望美に気づいて顔を上げ、その綺麗な顔にふわりと微笑みを浮かべた。
「走らなくていいよ」
「早かったね…」
ヒノエの前まで辿りついた望美は、息を弾ませながら風の冷たさに頬を赤らめヒノエを見上げた。
「そうでもないよ。………寒くないかい?」
望美の薄着を見て、ヒノエが心配そうに目を眇める。
望美は照れくさそうに笑って、肩をすくめた。
「慌てて出てきちゃったから……」
「へぇ?そんなにオレに会いたかった?」
「うぬぼれすぎ」
望美の容赦ない切り返しはヒノエの予想範囲内。
楽しそうにくすくすと笑いながら、ヒノエは自分の着ていた上着を脱いで、ぱさりと望美に肩に掛けた。
「え!?」
「ないよりマシだろ?」
軽く片目を瞑って見せたヒノエへ、望美が慌てて上着を押し返した。
「ダメだよっ!ヒノエくんが風邪ひいちゃう」
「オレは平気さ」
「でも、まだツアーが……」
ヒノエを心配して、必死で上着を返そうとする望美が可愛い。
ヒノエは愛しげに望美を見つめながら、受け取った上着をもう一度望美の肩にかけた。
「平気だって。……でもそうだな、そんなに心配なら……」
「ひゃっ!」
いきなりヒノエに肩を抱き寄せられ、驚いた望美が素っ頓狂な声をあげる。
「こうすればあったかい…」
「ちょっ!ヒノエくん!!誰かに見られたら…!」
望美は慌てて身体を捻り、その腕から逃げようとしたが…。
「平気、平気。だいたいこんな朝早く、誰も気づかないって」
上機嫌なヒノエは、望美を強く抱き寄せたまま歩き出した。
こうやって二人の身体のどこかを触れ合わせるのを、ヒノエは好むようだった。
はっきりヒノエが口にしたことはないけれど、彼のいつもの行動から望美はそう思っている。
手をつないだり、不意に抱き寄せられたり。
しかし望美は、ヒノエの積極的な行動を何度経験しても、慣れることができなかった。
でも、拒むことは出来なくて…。
ヒノエのあたたかさがとても心地いいから……。
だから望美は恥ずかしそうに、でもそれ以上ヒノエを拒絶することなくゆっくりと歩く。
そして、間近にあるヒノエの横顔を窺い見て、ふとそれに気づいた。
「ヒノエくん、もしかして痩せた?」
「ん?どうして?」
望美から唐突に尋ねられたヒノエは、答える代わりに問い返した。
望美はヒノエへ目を向けたまま、少し考えるように首を傾げた。
「………なんとなく」
これといった明確な違いは分からない。
でも顎のラインが、以前より少しだけすっきりとした気がしたのだ。
その答えにヒノエは、ふっと目元を和らげて見せた。
「目ざといね」
「やっぱり?」
「でも痩せたのとは、ちょっと違うな」
「?」
ヒノエの曖昧な言い回しに、望美は不思議そうに小首を傾げた。
「ライブの為に、前一ヶ月で身体のラインを作り変えたんだ。ステージで映えるよう、不必要なところを落として、必要なところをつけた」
「……そんなこと出来るの?」
ヒノエはまるで何でもないことのように言うが、ダイエットが身近な望美にしたら、身体を作り変えるなんてとんでもないことだ。
思い通りに身体を作れるなんて信じられない。
でもヒノエは、当然だとあっさり頷いた。
「出来るさ」
「不必要なところなんてあったの?」
望美からしてみれば、ヒノエはいつだって完璧な姿だった。
それなのに……。
「ん?ステージ用として魅せるラインが気に入らなくてね。オレ達は音だけじゃなくて、視覚でもライブを楽しんで欲しいんだよ」
「……すごい」
「やるからには徹底的にね。なによりもファンと、オレ達自身が納得できるライブにしたいからさ」
ヒノエは少しおどけて片目を瞑ってみせた。
「綺麗……」
夜明け前の藍色の空に、白く浮かび上がる満開の桜。
望美は桜を仰いで、思わず手を伸ばしていた。
桜の美しさに誘われるように、望美がするりとヒノエの腕から抜けだしていく。
ヒノエは桜の花を飽きずに見上げる望美の背中を、愛しげな眼差しで見つめていた。
「望美」
「ん?何?」
飽きることなく、望美は明けゆく空と淡く光るような桜の美しさを楽しんでいる。
ヒノエはその姿を見つめながら、ゆっくりと大きな深呼吸をひとつした。
「ツアーが終わったらさ、デートしようぜ?」
「いきなりどうしたの?」
ヒノエが望美を誘う時、自分のスケジュールがあるから、必ず日時を指定するのが常だった。
それが曖昧なのは珍しい。
望美は不思議そうにヒノエを振り返った。
「……もうすぐ一年だよな」
「………」
何が、とは問わなかった。
それがヒノエと望美が出逢ってからの時間だと分かったからだ。
もう一年なのか。まだ一年なのか。
望美にはわからないけれど……。
少しずつ、少しずつ、近づいていった二人の距離。
そして自覚していった自分の気持ち。
でも……。
「そろそろ望美の答えを聞かせてもらおうと思って…」
「……ヒノエくん」
「ねえ、もう一度言うよ?」
「………」
「オレの女になりなよ」
「ヒノエくん……」
望美はまっすぐなヒノエの眼差しから逃げるように、そっと目を伏せた。
ヒノエが好き…。
その気持ちに偽りは無い。
でも……。
ヒノエの求めに頷くにはまだ怖くて、不安で。
不安に揺れる望美の瞳を、ヒノエはどう見たのか……。
彼は口元に自嘲めいた笑みを浮かべると、望美の頬にそっと手を伸ばした。
少しだけ骨ばった大きな男の手が、望美の柔らかな頬を包み込む。
近づく唇の気配に、望美は思わず目を閉じて顔を逸らした。
苦笑交じりの溜息と共に落とされたのは、目じりへの優しい口付け。
ヒノエの唇が離れると同時に、望美はその広い胸にぎゅっと抱きこまれていた。
「次に会うときは、始まりか終わりにしよう」
「ヒノエくん?」
ヒノエの意図するところが分からなくて、望美が不思議そうに顔を上げた。
ヒノエは自分の胸に納まっている望美を見下ろして、目元を優しく和ませた。
「お前がオレを受け入れられないなら、オレは今の関係を終わりにするよ…」
「え?」
いきなり区切られた期限。
それに驚いて、望美は目を見開いた。
しかしヒノエは淡々と続けた。
「……オレはお前の前から消える」
「ヒノエくん!?」
「二度と会わない」
「急に何を言うの!?」
ヒノエが言ってることが信じられなくて、望美は思わず声を荒げた。
だがまっすぐに望美を見つめるヒノエの瞳は、静かに凪いでいる。
「……オレはお前が欲しい」
「っ」
ストレートに告げられたヒノエの気持ちに、望美が息を呑む。
ヒノエは小さく息を吐いて、苦く笑った。
「でもオレを受け入れられない女に、いつまでも未練を残すみっともない男にもなりたくないんだ」
「……」
「望美…。そろそろ、オレに答えをくれよ」
「……私は…」
声が震える。
ヒノエは、そっと望美の唇を指先で押さえた。
「言わないで…」
「ヒノエくん…、でも…」
「今は、何も言わないで……」
ヒノエの吐息交じりの声が、望美の言葉を奪ってしまう。
「始まりか終わりか…、それはお前次第だよ」
囁くように落とされた優しい声は、望美へつきつけられた最後通牒…。
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