会場に流れていたエンヤのゆったりとした曲が一瞬大きくなり、そして消える。
同時に落とされる客電。期待に声を張り上げ立ち上がるオーディエンス。
客席の興奮と緊張は頂点に達し、割れんばかりの大歓声が会場内を満たした。
それを掻き消すように鳴り響き始めたサイレン。
薄い幕で隠されたステージの赤い照明が点滅と回転を繰り返し、会場内が光の渦に巻き込まれる。
地の底から突き上げるようなドラム音。徐々に開かれていく紗幕。
SEがオーディエンスの期待と興奮を煽る。
現れたステージは両サイドからDangerと書かれた黄色いテープが幾重にも交差するように張り巡らされていた。
そのテープの向こうに、廃墟をイメージさせるセットが組まれていたのだ。
まるで、ステージそのものが危険地帯だと示すような鮮やかな黄色。
そして………。
ステージにそのシルエットが現れた瞬間、耳を劈かんばかりの嬌声が上がった。
長い髪をゆったりと結わえた彼は、真っ白なロングコートを翻して、軽くオーディエンスに手を上げてみせる。
彼は定位置につくと、スタッフが差し出したギターをしっかりと肩にかけた。
瞬間。
完全暗転。
目まぐるしく変わる照明の明るさに慣れていたオーディエンスたちは、突然訪れた暗闇に視界を奪われる。
光の残像がハレーションを起こす。
そして興奮を煽るように、空気を切り裂く激しいギター。
弁慶のテクニックがなせる早弾き。
それにベースが重なり、ドラムが入ったその時。
暗闇から一転して怪しげな暗い赤に染め上げられたステージに、突如として現れた空中に浮かぶ鉄の檻。
その中で軍服を模した衣装に身を包んだヒノエが、ニヒルな笑みを湛えて、オーディエンスを傲慢に見下ろしていた。
誰もが予想しえなかった場所からヒノエが姿を現したとたん、会場を揺るがすような歓声が会場を満たした。
拳を突き上げ、ヒノエの登場を歓喜の声で迎える。
ヒノエは目深に被った帽子と濃いサングラスで顔半分を覆い隠し、その視線をオーディエンスに掴ませなかった。
ヒノエは自分を囲う檻を掴み、退廃的な雰囲気で低く妖しく歌い出す。
深紅のライトがまるで血のように、ヒノエに纏わりついている。
ゆっくりと降りてくるヒノエを捕らえた鉄の箱。
その檻の降臨を待ち望むように、オーディエンスの手が伸ばされていた。
檻の中でヒノエはオーディエンスを睥睨しながら、気だるげで隠微な歌声を響かせる。
その美しく整った顔を怪しく歪め、見せ付けるように唇を舌先で舐める。
ヒノエの歌声とは対照的な激しいギターが、ヒノエの歌声をより引き立てていた。
二人は聴覚と視覚で、オーディエンスをグリフォンの世界に引きずり込んでいく。
やがて鉄の檻が地上に着いたとき、一曲目が終了した。
そして続けざまに、弁慶のギターが次の曲を紡ぎ出す。
ステージを照らすライトが目も眩むばかりの明るさになったとたん、ヒノエが鉄の檻の扉を蹴破った。
檻を破って激しく歌いながらまっすぐに歩いてきたヒノエが、張り巡らされた黄色いテープを片っ端から引きちぎっていく。
手に絡んだテープをそのままに、ヒノエが身体全体で高く激しく歌い上げる。
空に伸ばされた手の先に、彼はいったい何を見ているのか…。
弁慶もギターを激しく掻き鳴らしながら前に出てきたものだから、最前列のオーディエンスが彼らに届けとばかりに手を差し伸べていた。
ヒノエは幾千もの眼差しを一身に集め、捕らえて放さない。
広い音域を自在に歌い上げる類まれなる声は、弁慶の卓越したギタープレイに負けないものだった。
ファンに視線を悟らせないサングラスの奥で、ヒノエは会場中をぐるりと見回した。
二階席にはたくさんの立ち見客。
三階席も最後列まで埋まっている。
チケットは発売開始5分でソールドアウトになったのは聞いていた。
会場によっては1分で売り切れたとも。
だが、やはり自分の目で確かめたい。
どれだけのファンが、自分たちの作り上げる世界を楽しんでくれるのかと。
今夜もオープニングからノリがいい。
ホールの音響もなかなかだ。
ヒノエは気分よく歌いながら、片手を高々と天へと突き上げた。
望美は下手5列目からステージを見つつ、音楽にあわせて気持ちよく身体を揺らして踊っていた。
会場を貫くグリーンのレーザー。
曲にあわせてさまざまな色と動きを見せる、計算されつくしたライティング。
そしてスピーカーに足をかけ、身を乗り出して指先だけでオーディエンスを煽るヒノエ。
弁慶の動きはまだ少ないが、曲調に合わせた荒々しいギタープレイはファンの気持ちを鷲掴む。
望美はこんなにステージに近い位置でグリフォンのライブを見るのは初めてだった。
お腹に響くベースとドラム。
脳髄を貫くような弁慶のギターとヒノエの声。
高揚する自分を止められない。
鼓動は早さを増して、意識がステージのみに吸い寄せられる。
ヒノエが引きちぎったまま掴んでいたテープを、客席に撒き捨てると、我先にそれを取ろうとオーディエンスがジャンプする。
それを片目で見つつ、ヒノエは歌いながら上手へと移動していった。
それにクロスするように、弁慶が定位置の上手から下手へと歩いてくる。
望美は自分の席に近づいてくる弁慶の動きを、踊りながら目で追った。
彼はヒノエと左右対称となる位置で、足を止めギターを奏で始めた。
ちょうど望美の目の前だ。
時折、視線を客席に向けると、弁慶の見た場所辺りから黄色い声が上がる。
彼はにこりと笑って、すっと視線を流した。
一瞬、弁慶の視線がぴたりと望美と視線が合った気がした。
弁慶が軽く首を振る。
望美がこの会場に来ることを知っている弁慶が、自分を見つけてくれたのかと思い、望美は試しに胸の前で小さく手を振ってみた。
すると弁慶が僅かに口の端を上げ、一度だけ軽く頷いてくれた。
わかってますよ、というように……。
そして弁慶は身を翻し、また戻っていく。
上手から歩いてきたヒノエとステージ中央で再びすれ違う。
弁慶もヒノエも定位置に戻り、そのまま二曲目が終了。
しかし興奮するオーディエンスに息つかせる暇も与えず、一気に三曲目へ突入した。
ヒノエは髪を振り乱しながら身体全体で声を響かせる。
喉の調子が悪いなんて信じられないくらいだ。
望美はオーディエンスを煽りながら下手に歩いてくるヒノエを見つめていた。
濃いサングラスに隠された自分の視線。
それなのに、ヒノエの視界に入ろうと自分をアピールする多くのファン達。
ファンの興奮を自在に操りながら、ヒノエは頭の隅の冷静な部分で会場を睥睨する。
そしてふと思い出した。
(5列目に弁慶の女が来てるんだったな……)
とりあえずどんな女か見てやろうと、ヒノエは歌いながら哂った。
どこにいるとはっきり聞かなくても弁慶とは長い付き合いだ。
弁慶の女の好みは分かってる。
ヒノエはスピーカーに片足を掛け、そこにマイクを持った肘を乗せて、サングラスの奥でゆっくりと五列目を順に見ていく。
(えっ!?)
それに気づいた瞬間、ヒノエはサングラスを毟り取っていた。
現れたヒノエの整った素顔を見て、上がる大きな歓声。
(望美!?)
あまりに驚きすぎて、一瞬声が喉に絡んだ。
ヒノエの視線の先で、望美がにっこりと微笑んで手を振った。
(聞いてねぇぞ!てか、なんで弁慶が望美が来ることを知ってやがる!?)
身を起こしてスピーカーから足を離したヒノエが、上手にいる弁慶を睨みつけた。
弁慶はヒノエの鋭い視線を受け、微かに口の端を上げただけだった。
「すごいよ!今日、ヒノエったらノリにノリまくってるじゃん!シャウト入れるなんか今回のツアーで初めてだよ!!」
望美の隣の子たちが、興奮気味にしゃべっている。
かなりコアなファンなのだろう、ツアー会場をいくつも回っているらしい。
一気に7曲歌い終わった後、途切れた音。
暗めの青に染まったステージでヒノエは客席に背を向け、ペットボトルの水をあおる。
弁慶はギターに軽くスプレーを掛けてから、そっと調弦を始めていた。
MCは無し。
グリフォンがライブでMCを一度か二度しか取らないのは、ファンの間では有名だった。
言葉よりも音楽で語る。
そんな姿勢を貫く彼らのステージングは、徹底していた。
客席からは、ライブでしか味わえない彼らの姿を求めて、多くの声が飛んでいた。
水を飲み終わったヒノエは珍しく弁慶の傍に寄って、ぐっとその首に腕を巻きつけた。
とたんに客席から上がる悲鳴。
それを無視して、ヒノエがぎりぎりと腕に力を込めた。
(痛いですよ、ヒノエ)
(てめぇ……、何で望美のこと知ってやがった)
(『プライベートは持ち込むな』もう忘れましたか?)
(弁慶っ!)
(無駄口叩く暇があったら行きますよ)
(っ!)
ヒノエの脇腹にめり込んだ弁慶の肘鉄。
不意打ちをまともにくらったヒノエの身体が、くの字に折れて離れたと同時に、弁慶がギターを掻き鳴らし始めた。
グリフォンのライブは緩急を自在に操る。
弁慶のアコギをバッグに、ヒノエが切々と歌い上げるバラードや、狂うほど頭を振る激しい曲まで……。
すべてが融合してグリフォンの世界を作り上げる。
オーディエンスは繰り広げられるグリフォンの音楽の世界に酔いしれていた。
セットリストも中盤の終わりにさしかかり、数曲のバラードが続く。
オーディエンスすべての意識を曲の深い世界へと引きずり込んでいく歌声とライティング。
曲のラストにステージ中央で倒れこんだヒノエと、それを傍で静かに見下ろして佇む弁慶に儚く降り続く雪が、胸を締め付けるような切なさをオーディエンスに残した。
そしてすべてが闇に包まれた。
誰もいなくなったステージに流れる映像。
それは今回のアルバムのコンセプトを具現化したものだった。
ヒノエが切々と歌い上げたバラードから続く、切ない物語……。
……それなのに!
それなのに!!!
どうしてオチがつくんですか!?
一瞬にして爆笑の渦につつまれた会場が、眩いばかりの光の渦に包まれた。
ステージ中央に設えられた階段の上に現れたのは、衣装を変えたヒノエと弁慶。
彼らが従えているのはセクシーな女性ダンサー達。
「そろそろ僕たちに君たちの本気を見せてくれますか?」
「まさかこの程度で本気ってんじゃねーだろーな?」
二人の煽りが、オーディエンスに火をつける。
「踊れー!!」
ヒノエの掛け声と共に、会場内にぱっと何かが舞い上がった。
そして躍動感溢れるリズムが刻まれ出す。
ヒノエが階段を飛び降り、弁慶はその場で派手なギタープレイを見せ始めた。
ステージも気になるけれど、それよりも空からひらひらと舞い落ちるものに、観客の目が吸い寄せられていく。
普通であればそれは銀テープなのだが、今回は長細い紙切れ。
いったい何なのかと、皆の興味が惹き付けられる。
望美もそれを掴み取ろうと踵を上げて、手を伸ばした。
「お札だ……」
望美が何とか激戦に打ち勝って手にした紙切れは三枚。
それは弁慶かヒノエの顔がデザインされた、ミリオンのお札だった。
ヒノエが一枚、弁慶が二枚。
(弁慶さんの方が多いとヒノエくんが怒るかな?)
望美はくすりと笑って、ステージ上のヒノエを眩しげに見上げた。
ヒノエの目の端で、望美が楽しそうに踊っているのが見える。
下手に居る弁慶がピックを投げると、その放物線を目で追って残念そうな顔をしていたり。
弁慶に向かって両手を振って、上手にいる自分をまったく見ようとしないのに腹が立つ。
アリーナやドームクラスの会場なら下手と上手にいれば、離れすぎていてこんなにも気になったりしないだろう。
でもここはキャパが2000人ほどのホール。
ちょっと視線を動かせば、どこにいても望美の姿が目に入る。
だから弁慶に向かってはしゃいでみせる望美が見えるわけで……。
望美からしてみれば、目の前に来ている弁慶が笑ってくれるから、嬉しくて楽しくて弾けてるのだけれど……。
ヒノエは官能的に絡んでくる女性ダンサーを軽くあしらいながらオーディエンスを煽り、ゆっくりと下手へと向かって歩いていく。
ヒノエの動きに気づいた弁慶は、望美の前から動かずにヒノエを向かえた。
曲がサビに入ると、ヒノエは弁慶の肩に手を回し、弁慶もヒノエのマイクに口を寄せてコーラスを入れた。
その密着ぶりに、またまた会場から黄色い声が上がった。
そしてコーラス部分が終わると、弁慶がヒノエをからかう様に彼の周りを一周し、ステージ中央へ戻っていく。
ヒノエが弁慶の背を睨みつけたように思ったのは、望美の目の錯覚だろうか?
ステージ中央へ戻った弁慶は、セクシーダンサーズに囲まれながら、ギターに指を走らせる。
その長い足にしどけなく絡む美女たちが、また様になっていて……。
望美の目の前のヒノエは身体全体を振って、楽しげに踊りながら歌っている。
あれだけ頭を激しく振りながらも、声がぶれないのはさすがとしかいいようがなかった。
「あ……」
しかしその激しい頭の振りの所為か、きらりと何かがヒノエから弾けとんだ。
ヒノエ自身もそれに気づいたのだろう。
苦笑しつつ歌いながら拾い上げたそれは、彼が身につけていた大振りのシルバーのピアスの片方だった。
ヒノエがこれ見よがしにウインクしつつ、顔の横でそれを振って見せると、彼の身につけていたものを欲しがり、声を上げて皆が手を差し出した。
「ヒノエー!!こっちー!!」
「頂戴ー!!」
ピアスの片割れを投げてもらおうと、あちらこちらから声が飛ぶ。
ヒノエは見せびらかすようにそれを掲げ、軽くキスをした。
そして……。
ヒノエが投げたピアスは綺麗な放物線を描いて、まっすぐ誰の手にも触れることなく、望美の胸元に飛んできたのだ。
「きゃっ!」
けっこうな勢いで飛んできたそれを受け止めたのは、我ながらすごいと思った。
まさか飛んでくるとは思っていなかった望美がびっくりしてステージ上のヒノエに目を戻すと……。
彼は望美に指先で投げキッスのおまけまでつけてくれたのだ。
「キャーーーーーー!!」
思わず耳を塞いでしまうような悲鳴が、望美の周りで上がった。
それにも驚いて、望美は受け止めたピアスを握り締めて首をすくめた。
今年のグリフォンのライブはまるでフェスティバルのようだった。
楽しくてかっこよくて。
あっという間の二時間と少し。
望美はツアーパンフと携帯ストラップを買って、ライブでゲットしたお札とピアスを手に帰路についたのだった。
望美がバス停でバスを待っていると、バッグの中の携帯が震えた。
望美は携帯を取り出し、相手を確認するとちょっとうれしそうに微笑んだ。
そしてバス停の隅に寄って、通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『お前、来るなら一言言えよ!』
挨拶も何も無い、ライブのテンションそのままの怒鳴り声。
望美は驚いて思わず携帯を耳から離した。
「もう!びっくりするじゃない!」
ヒノエが望美に対して、こんなに乱暴に話すのは珍しい。
望美は少し怒ってヒノエに文句をつけた。
『それはこっちのセリフだ!……どうしたんだよ』
電話の向こうはがやがやと騒がしい。
時間からみて、まだ楽屋は出ていないはずだ。
望美は周りを気にしながら、口元を手で覆って話しだした。
「おじいちゃんの家に来たついで」
『……ライブがついでか?』
「うん、そうだよ」
きっぱりはっきり迷わず肯定。
『……お前はあいかわらず……』
一瞬絶句した後、はぁ……と脱力しきったヒノエの溜息が聞こえてきて、望美は思わずくすくすと笑った。
「まだ出てないの?」
どこを、なんて言えない。
バス停は気合を入れたお洒落をして、グリフォンのツアーバッグを片手にバスを待ってる子が大勢いるのだ。
まさかこの電話の相手が今の今までステージでライトを浴びていた本人とはばれないだろうけれど……。
でも望美は細心の注意を払っていた。
『もうすぐ出る。車の用意もそろそろ出来るみたいだしね…。ねえ、望美?』
「なに?」
『これから打ち上げに来ないかい?』
「お誘いはうれしいけど、無理かな?」
『……なんだよ、それ?』
「ん〜、おばあちゃんがね、久しぶりに会うからって、ご飯作って待っててくれてるの。だから……」
『そっか…』
苦笑交じりにヒノエが残念そうに呟く。
もともといい返事がもらえるとは思っていなかったが、考える間もなく断られると意外とダメージは大きかった。
「うん。ごめんね?」
『いいよ。ここは望美のばあちゃんに譲るさ。……しかし、<グリフォンのヒノエ>の誘いは、ばあちゃんの手料理より下か…』
「ごめんね?……他の女と違って」
『……棘があるな?何だよ?』
珍しく望美が他の女を気にしている。
ヒノエは訝しげに聞き返した。
でもそれに答える気はさらさらない。
「さあ?胸に手を当てて聞いてみれば?バスが着いたから切るね」
『あ、おい!』
望美は慌てるヒノエの制止を聞かず、さっさと通話を終わらせた。
そしてバス停に入ってきたバスに乗り込んだのだった。
「やっべぇ…」
ツーツーと冷たい音を繰り返す携帯を見つめ、ヒノエは顔を顰めた。
なにがきっかけか知らないが、どうやら望美はヒノエの華々しい過去の所業を気にしているらしい。
「今はお前だけだってのに、信用されて無いとはね…。過去のオレが憎いぜ」
ヒノエは苛立たしげに携帯のフラップを閉じた。
(自分でも馬鹿だなって思うけど……)
吊革につかまってバスに揺られながら、グリフォンのツアーパンフを抱きしめて、そっと溜息を零した。
ヒノエに惹かれる自分の心に気づいた頃から、どうしても意識せずにはいられなくなったヒノエの過去。
ヒノエは年齢を公開してない。
しかし業界内ではヒノエが未成年だと誰もが知ってる。
そのため、スキャンダル報道は成人している弁慶より緩い。
それなのに、ヒノエの恋愛遍歴は望美の耳に入ってくる。
どこまで本当かはわからない。
よく恋愛報道をされる弁慶が、報道は面白おかしくするために呆れ返るくらいデマばかりだと笑って望美に教えてくれていた。
でも、ヒノエはこれまでの噂をはっきり否定しないどころか、多くの女の子と付き合っていたことを望美に隠そうとはしなかった。
『それなりに、恋はしたさ』
そういって、ヒノエは苦く笑うだけ。
詳しい経緯や、過去の恋人の数なんて無粋なことは口にしないけれど…。
彼はどれだけの恋をしたのだろう?
どんな女の子と付き合ってきたのだろう?
恋人だった期間はいったいどれくらい?
女の子のどんなところが好きで、恋に落ちたのか?
どんなところが嫌になって、別れてしまったのか?
聞けなくても聞けない疑問が、望美の中で言い知れぬ不安に変わってしまう。
信じたいのに、信じられない。
望美は腕の中のツアーバンフを、ぎゅっと握った。
バッグの中でマナーモードの携帯がメールを受信して震えている。
ヒノエと出逢ってもうすぐ一年…。
惹かれていく自分を止められない……。
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