「すみません、先に上がらせてもらいます」
腕時計で時間をを確認しつつ今日の打ち合わせが終わったとたん心持ち焦り気味で椅子から立ち上がったヒノエを、机を挟んで正面に座っていたプロデューサーが微笑ましそうに見上げた。
「ヒノエでも焦ることがあるんだな」
「そりゃね、時と場合によりますよ」
ヒノエのソロ活動を支えてくれる彼とは、気の置けない仲だ。
ヒノエが早く帰りたがっている理由を知っているプロデューサーは、彼を必要以上に引き止めることなく軽く手を上げてヒノエを促した。
ただしおまけつきで。
「出来れば明日までに一曲か二曲、俺に持ってきてくれ」
「鬼かよ!あんたは。オレのこれからの予定を知っていてそれを言うか!?」
「仕事とプライベートは別だ。頑張れよ」
がっくりと項垂れて溜息を吐くヒノエを見て、彼はにやりと笑った。
人気ロックユニット『グリフォン』のボーカリストであるヒノエは、現在ソロ活動中だ。
もちろん相方のギタリスト弁慶もソロ活動の真っ最中。
『グリフォン』としての人気に甘えることなく彼らは常に新しい挑戦として、定期的にソロ活動等を行う。
ヒノエはソロとして出す次回のシングルと、その後に発売されるアルバムの打ち合わせをしていたのだ。
アルバム曲については、まだすべて出揃っていない。
今はデモを何曲かずつ出している状態だ。
ヒノエはプロデューサーに出された課題をクリアすべく、マネージャーの運転する車の中で思いつくままメロディーを口ずさんでいた。
「ヒノエ、本当にここでいいの?」
ヒノエが言った場所で車を停めると、マネージャー女史が心配そうに後部座席を振り返った。
そこは幹線道路沿いの住宅街。
ヒノエが暮らす場所とはかなり離れたところだった。
「ああ。明日は、スタジオに直接行くから気にしなくていいぜ」
「寝坊して遅刻しないでよ?」
ちゃんと来るのかと疑いの眼差しを向けられたヒノエは、苦く笑いながら自分の荷物の入ったバッグを肩に掛けた。
「起こしてもらうから大丈夫」
「……週刊誌にすっぱ抜かれるのだけはやめてよ?私の仕事が増えるんだから」
誰かと外泊するんだと堂々と宣言するヒノエに、マネージャーはしかめっ面。
ヒノエがこう言う顔をする時、相手が同性の友人ではない。
確実に女性なのは、マネージャーとしてのこれまでの経験で嫌というほどわかっていた。
ヒノエはそんなマネージャーの控えめな抗議を聞きながら、さっさとドアを開いて身軽に歩道へと飛び降りた。
「大丈夫さ。そんなヘマはしない。じゃあ、おやすみ」
「おやすみ、ヒノエ。くれぐれも遅刻はしないでね!」
「はいはい」
ヒノエは軽く手を上げて、小走りに住宅街の中へと消えていった。
ヒノエの携帯にその電話が入ったのは、昨夜の23時前だった。
まだ仕事先にいたヒノエはその電話に出られず、折り返し連絡を取ることが出来たのは日付が変わってからだった。
いつでもいいから電話をお願いと言われていたからなのだが、ヒノエの電話に出た彼女は寝起きの声で返事をした。
「……ごめん、望美。起こしちゃったかな?」
『ううん、大丈夫だよ。電話してって言ったのは私だし。仕事終わったの?』
電話の向こうで、微かな衣擦れの音がする。
きっとベッドの上で身体を起こしたのだろう。
「どうした?何かあった?」
望美がいつでもいいから連絡をくれと言うのは珍しい。
ヒノエは少し心配そうにそう問いかけた。
『うん……』
あのね、実はね…、と望美はなんだか言いにくそうにもごもごと何かを呟いている。
しばらく相槌をうっていたヒノエだが、望美はなかなか本題を切り出そうとしない。
ヒノエは時計を見上げて、夜の深さに眉根を寄せた。
このままだと、望美は用件を言えないまま話を終わらせてしまうかもしれない。
だからヒノエは望美を促すように、わざと軽い溜息を吐いた。
「望美。用件はなんだい?お前、今日も学校行くんだろ?そのままじゃ寝る時間なくなるぜ?」
『うん…。えっと…。我侭言ってもいい?』
ヒノエに問われ、やっと望美が小さな声で本題を切り出した。
「姫君の我侭なら大歓迎さ」
『もう、ヒノエくんったら……』
茶化すように言ったヒノエに、望美がくすくすと笑ってる。
「オレは本気だぜ?」
『ありがと、ヒノエくん。……実はね、明日なんだけど…』
望美が言った我侭。
それはヒノエが予想もしないものだった。
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