玄関ポーチに立ったヒノエが呼び鈴と押すと、すぐにパタパタと足音がしてワンテンポおいてからドアチェーンとロックが外された。
温かい光を漏らしながら、そっとドアが開く。
開いたドアの隙間からさらりと零れる長い髪。そして訪問者を窺うようなつぶらな瞳が覗いた。
少しだけ不安そうな光を宿すその瞳に、ヒノエは優しく微笑みかけた。
「こんばんは、望美」
「いらっしゃいませ、ヒノエくん」
夜の闇の中で外灯に照らされたヒノエを認めた望美は、零れるような笑顔を見せ、大きくドアを開いてヒノエを中へ招き入れた。
「我侭言っちゃってごめんね」
金曜の夜。もうすぐ日付変更線という時間に望美の家を訪ねたヒノエは、望美に促されるままリビングのソファに腰を下ろした。
「いや、頼りにしてもらえてオレはすごくうれしいぜ?」
「そう言ってもらえると少しは気が楽だよ。一人で留守番って初めてだからちょっと怖かったの」
ヒノエの前に温かいお茶を出した望美は、ほっとしたように微笑んだ。
昨夜の望美の電話は、所用で両親が家を留守にするから一晩だけ一緒にいてほしいというものだった。
ダメだったら、隣の家にお世話になるから…と言った望美の言葉に反応し、スケジュールも何も確認しないうちにOKしてしまったのは自分でも笑うしかない。
隣の家=望美の幼馴染みがいる家だ。
たとえ幼馴染みであっても、自分以外の男が望美と同じ屋根の下で夜を過ごすなんて許せるはずが無い。
彼ら兄弟の両親がいるとしてもだ。
だからヒノエは、遅くなるけれど絶対に行くからと返事をしたのだ。
幸い明日は土曜で望美の学校が休みだから、遅くてもいいと望美はすまなそうにヒノエの来訪を願ったのだった。
ヒノエの前で照れくさそうに笑う望美は、いつもと違って寛いだ姿だ。
ゆったりとしたルームパンツと柔らかいカットーソー、そして羽織ったカーディガン。
洗った後のまっすぐな長い髪は少し水分が残っていて、しっとりとした輝きを見せている。
そしていつもはヘアピンで留めてある前髪を、ヘアーバンドで押さえているためかわいい額が全開だ。
付き合う前には考えられなかった望美の姿。
あの頃は、ヒノエが側に寄るたびにどこか身体を固くして緊張していたから……。
「私、お風呂の用意してくるからちょっと待っててね」
「ああ、ありがと」
ヒノエは望美が淹れてくれたお茶を口に運ぶ。
温かい緑茶は、独特の甘味でヒノエの疲れを癒してくれる。
ヒノエはソファーに身を預けて、喉の奥で微かに歌を紡いでいた。
望美はヒノエが風呂を使っている間、自室で就寝の用意をしていた。
友達が来る時より、もっと気合を入れて綺麗に片付けた部屋。
望美が考えていたより少し早くヒノエが尋ねてきてくれたため、まだ布団の準備ができていなかった。
ごそごそと客用寝具の用意をしていると、ノックの音がしてドアが開いた。
「風呂、サンキュ。………って、何してんの?」
「ん?お布団の用意。あ、ヒノエくんはベッドで寝てね。私がお布団で寝るから」
ヒノエのほうを見ないまま、望美はシーツの皺を丁寧に伸ばしている。
ヒノエは入り口に立ったまま、不思議そうに首を傾げた。
「……何で?」
「え?いつもそうしてるから。友達が来た時はベッド使ってもらってるの。ちゃんとシーツとか換えてるから大丈夫だよ」
望美の返答に、ヒノエが額に手を当てて天を仰ぐ。
まったくこの女は…。
わざとなのか天然なのか…。
どちらにしても、許せるものじゃないけれど…。
ヒノエは、小さく舌打ちして不機嫌もあらわに腕を組んだ。
「じゃなくって、一緒でいいじゃん」
「……はい?」
ヒノエが言った意味が一瞬分からなくて、望美はピローケースを手にしたままヒノエを振り返った。
「別々に寝る必要なんてないと思うけど?」
何が言いたいのかはっきりと告げられて、それを理解したとたん望美の頬が赤く染まる。
そして面白いくらいあたふたとして、手に持っていたピローケースを畳み始めた。
「え、えーっと、ほらベッド狭いしっ!」
「望美のベッド、セミダブルじゃん」
「ほら、ヒノエくん仕事だったしゆっくり寝たいかな〜なんて」
「オレは、望美を抱いて寝たほうが落ち着けるんだけど?」
望美の言い訳を即座に切って捨てるヒノエは、どこか面白がっている。
望美はヒノエを言い負かすことが出来なくて、むっと唇を尖らせた。
「ねえ、ダメ?」
腰を折ったヒノエが、いつもより少し低くて甘い声で望美の耳元に囁く。
望美は顔を赤くして、ぱくぱくと口を動かすだけだ。
「望美?答えないとOKって思うぜ?」
「……ダメ」
そのまま押し切られそうになった望美は、上目遣いでヒノエを睨みながら小さく呟いた。
「あ、そう」
「ヒノエくん?」
まだ粘ると思ったヒノエが、あっさりと望美から離れたので、かえって望美が不安そうな声を出す。
ヒノエは笑いたくなるのを堪えながら、わざとつまらなさそうに呟いた。
「帰ろっかなー?」
「はい?」
「そんなに他人行儀なら、オレ、帰ろうかな?」
実際、他人ですから!という突っ込みは、辛うじて口にすることを止まった。
「えーっと、ヒノエくん?」
「……帰ろう」
「きゃー!待って、待って!!」
くるりと背を向けたヒノエのシャツの裾を、望美は膝立ちになって慌てて掴んだ。
「意地悪言わないでよ!」
「意地悪なのは望美だろ?」
「わ、私のどこが!!」
「無意識なのが、たち悪いよな」
溜息と共に呟くと、ヒノエは手を伸ばして望美の頬を包み込むように撫でた。
「ヒノエく……んっ」
「友達と恋人を同じように扱うなんて、あんまりだろ?」
「ん…」
何度もついばむように重ねられる唇の間から、ヒノエが甘く囁くように望美を責める。
「大体、オレが大人しくしてると思った?」
「ヒ、ヒノエくん!?」
ヒノエの手が、怪しく望美の身体のラインを辿る。
「据え膳食わなきゃ男の恥って言うだろ?」
「恥じゃないし、据えてなーーい!!」
身体を捩って逃げようとするが、ヒノエの力には叶わない。
ヒノエはくすくすと笑いながら、仰け反る望美の顎先にキスを落とした。
「好きだよ、望美……」
トーンを落としてそっと囁けば、望美の抵抗がふっとやむ。
「ずるいよ、ヒノエくん…」
首筋まで赤く染めて、拗ねたようにヒノエを睨む望美はどこまでも甘やかで…。
「久しぶりに二人で過ごすんだ。もっと望美を感じさせてよ……」
寄せられる唇に、望美はそっと瞼を下ろした。
(……喉が乾いた…)
喉の渇きでふと目を覚ました望美は、よく開かない目をこすりながら身体を起こした。
素肌を滑り落ちる毛布の感触に、はっと気づいた望美が慌てて毛布を引き上げる。
そして気づく。
「…ヒノエくん?」
隣で寝ているはずのヒノエの姿がなく、望美は部屋を見渡した。
望美が用意をしかけて放り出したままの、客用布団はそのまま。
ヒノエだけがいない…。
どうしたんだろう?と望美は不安そうに立ち上がって、手早く脱ぎ散らかされた服を身に着けた。
部屋から出て階下を覗くが、そこは闇。
望美は恐る恐る足音を忍ばせ、階段を下りていく。
すると望美の耳に、一つのメロディーが聴こえてきた。
低く呟くようなヒノエの声。
言葉になっているわけではない。
喉で歌うようにして、メロディーを探っていると言った方が正しいかもしれない。
望美は少しだけ開いたドアの隙間から、声が聞こえてくるリビングをそっと覗いた。
ヒノエは蛍光灯をつけないままのリビングの窓際で、カーテンを少しだけ開けて蒼い月明かりの中に立っていた。
手に持っている何かを口元に近づけ、小さな声で歌を紡ぐ。
一音一音大切にゆっくりと、小さい声なのに歌い上げるような広がりを見せるメロディー。
望美はその光景にただ目を奪われてしまった。
静かに視線を落として、何かを想って歌っているヒノエの横顔はどこまでも静謐で。
けれどヒノエから生まれるメロディーは、とてもドラマティックな響きで望美を釘付けにする。
歌詞があるわけではない。
グリフォンの曲のほとんどを聴いている望美にも、聴き覚えの無い曲。
ヒノエが紡ぐのは、身体から零れる感情そのものを音にしたものだった。
優しく少し切なさの混じったバラード。
ヒノエは最後の一音をたっぷりと歌いきると、口元に近づけていた手をだらりと下ろし、こつんと窓ガラスに頭を凭せ掛けて月を見上げた。
月の蒼い光が、ヒノエの顔に陰影をつける。
その姿があまりに綺麗で、月の光に溶け込むようなヒノエの姿がとても遠い存在のような気がした。
ヒノエがそばにいてくれるのは、もしかして夢なんじゃないかと……。
夢の中の長い長い恋物語…。
だから望美は、現実を確かめるために一歩踏み出した。
静寂が包む部屋に響いた、ほんの小さな音。
ヒノエはゆっくりと音がした方向へ視線を向けた。
「……望美?」
「ヒノエくん……」
窓辺に立つヒノエへ歩み寄った望美は、甘えるようにヒノエの胸にぎゅっとしがみついた。
いつもとは違う望美の甘え方にヒノエは柔らかく笑み零し、望美の華奢な肩に腕を回した。
「どうした?」
「……喉が渇いて…。ヒノエくんこそ、寝られないの?」
「いや。さっきうとうとしてたら曲が降りてきたからね、忘れないうちにと思って。勝手に部屋借りてごめんな」
「それはかまわないけど…。邪魔しちゃった?」
「いや。もう終わった」
「終わった?」
「ああ。これに記録すれば終わり。あとはまたじっくりピアノでも弾きながら歌うさ」
軽く振って見せたのは、ヒノエが手に持っていたボイスレコーダーだった。
「喉が渇いて目が覚めたらヒノエくんがいなくてびっくりしたよ」
「ごめん」
「でも、初めて見た…」
「何を?」
「ヒノエくんから曲が生まれるところ…」
「そうだっけ?」
「うん。たまにヒノエくんが口ずさんでる事があるのは知ってたけど……」
「曲作りには色々なパターンがあるからね。今夜は、本当に降りてきたカンジだったんだ」
「どんな歌になるのか、楽しみだね…」
「……戻ろうか?」
望美の曲に対するコメントには微苦笑のみで答えて、ヒノエは細い肩を抱いて望美を促した。
腕の中の温かい存在を感じながら、ヒノエは不思議な気分に包まれていた。
望美を腕に夢と現の間をたゆたっていた時に流れてきた曲は、これまでヒノエが考えていたものとはまったく違うものだった。
何故、そのメロディーが頭に浮かんだのかはわからない。
身体から溢れてくるそのメロディーをすぐに形にしたくて、眠る望美を残しベッドを抜け出した。
こんなことは初めてだった。
眠りに落ちる寸前に、曲が溢れてくるなんて。
まるで映画のようにヒノエの脳裏に浮かんだ情景とメロディ。
もしかしてそれは無条件な幸せを感じている瞬間だったからこそ、生まれた歌なのかもしれない。
自分は恋に左右される性質だとは思っていなかった。
けれど望美と出逢ってから生まれてくる歌は、少しずつ自分の固定観念を崩していく。
それが愛しくて楽しくてたまらない。
自分の腕の中で安心しきった表情で眠そうにちいさなあくびをする望美を、ヒノエは微笑を浮かべ静かに見下ろしていた。
<終>
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