「大丈夫かい?」
ゴンドラの椅子に手を付いて、へたり込むように座った望美は、胸元をぎゅっと握り締め、激しくあがった息を整えようとしていた。
ヒノエは下界から姿が見えないよう僅かに身を屈め、苦しげな呼吸を繰り返す望美を心配そうに覗き込んだ。
「大、丈夫…」
走ったからだろうか?望美の頬が紅潮している。
ヒノエはといえば、確かに息は弾んでいるが、望美ほど酷くはなかった。
ヒノエは望美と下界を気にしながら、幾度か深呼吸をして、自分の息を整えていく。
そんなヒノエを見ながら、望美は彼と自分との差を認識した。
綺麗で、細く見えても、やっぱりヒノエは男だと……。
同じ距離を走ったはずなのに、ヒノエの息はそれほど乱れてなく整うのも早い。
それに望美を引っ張る手の力は、驚くほど強くて。
ヒノエに掴まれていた手首が、まだ少しだけ熱く痺れている感じがしていた。
「ごめんな…。女の子は集団になると、たまに加減が分からなくなるから怖くってさ。それだけオレを気にしてくれるのは、ありがたいんだけどね……」
申し訳なさそうに謝るヒノエへ、望美が顔を向ける。
そして軽く首を振って、乱れる呼吸を抑えながら口を開いた。
「謝らなくて、いいよ。…ヒノエくんの事情は、わかるつもり」
憧れの人に少しでも近づきたい。そんな想いは望美の中にもあるから……。
彼女達の気持ちもとてもわかるし、パワフルな彼女達に囲まれた後の騒動を考えるヒノエの気持ちも分かる。
だからまだ少し荒く肩で息を吐きながらも、望美は顔を覗き込んでくるヒノエを安心させるように笑って見せた。
ふわりと望美が浮かべた笑みに、ヒノエの視線が奪われる。
それは出会ってから初めてヒノエだけに向けてくれた、咲き初めの花のような可憐な微笑み。
今までは笑っていても、戸惑いや緊張が混じった、どこかぎこちない笑みだったのに。
でも今は……。
「ヒノエくん?」
望美を見つめたまま何も言わなくなったヒノエに不安を覚え、望美が眉を顰めて笑みを消してしまう。
ヒノエの眼差しを釘付けにしたそれは、幻のようにあっさりと消え去ってしまった。
それを至極残念と思う自分自身の心に、ヒノエは驚いた。
(マジ、やべぇ…。ここでやられるとは思わなかったぜ)
ヒノエは些細な望美の表情の変化に、思わず気を奪われたことに苦笑する。
これまで、どんなに美しい女にも目を奪われることなどなかったのに。
けれど望美の飾らない笑顔は、ヒノエの心をあっさりと捕らえてしまった。
心地よいほどの魅力で……。
「…追いかけてくれた女の子達に感謝かな?」
すこしおどけて呟きながら、ヒノエは身を起こした。
「え?」
あれだけ必死に逃げておいて、なぜ感謝?
こんなに息が上がって苦しいのは、追いかけてきた子達が原因なのに……。
不思議そうな目を向ける望美へ、ヒノエは悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。
「望美とふたりっきりになれた」
「え?え?ええー!?」
ヒノエの一言でやっと自分が置かれた状況に気づいた望美が、慌ててガラスにへばりつく。
しかしすでに地面は遙か下。
ゴンドラはふたりを乗せたまま、ゆったりとしたスピードで上昇を続けていた。
(ど、どうしよう〜)
望美はヒノエと二人っきりの密室、ゴンドラの中で静かにパニックになっていた。
向かい合わせで椅子に座ったヒノエは、長い足を持て余し気味に組み、笑みをたたえて望美を見つめている。
(……間がもたない)
さっきまで雄弁だったヒノエが、今は何をしゃべるでもなく、ただ僅かに目を細め望美だけを見ているのだ。
その視線は強さの中にどこか熱っぽい甘さを感じさせて、望美はどうしていいか分からなくなる。
せめて会話があれば、こんな奇妙な緊張感はないのだろうが、ヒノエが口を開く気配はない。
それどころか、どうも望美の様子を見て楽しんでいる気がする。
望美から話を振ればいいのだが、ヒノエの深い眼差しに言葉を失ってしまう。
(ヒノエくんに見つめられたら、話どころか緊張して景色も何もあったもんじゃ…)
そこまで考えて、望美がはっと何かを思いつく。
いいことを思いついたと、望美はいきなりバッグの中をごそごそと漁り出した。
「望美?どうした?」
今まで緊張で戸惑っていた望美が、あからさまにほっとした顔をみせたから、ヒノエが面白そうに問いかける。
「じゃん!」
望美がおどけながらバッグから取り出して見せたのは、自分の携帯電話だった。
「?」
望美の意図するところが分からなくて、ヒノエが少しだけ頭を傾ける。
「景色を撮りたくって…」
望美はそう笑ってから、ヒノエに背を向け携帯カメラを構えたのだった。
携帯を使って、間を持たせる。
いいアイディアだと思ったのに…。
(……一周、何分なのよー!?)
ゆっくりゆっくり上昇していくゴンドラから、時間をかけて景色を撮りながら望美が心の中で悲鳴を上げた。
自分の背後を撮り、左側を撮り、今、まさに右側を撮り終わろうとしている。
あと残すは、望美の正面だが、そこにはヒノエが座っている。
そしてゴンドラはまだまだ上昇中で、地上から離れていくばかりであった。
(どうしたらいいのよー!!)
ヒノエに見つめられるのが恥ずかしくて、どうしていいのかわからなくなる。
ヒノエは面白そうに、ただ望美を見つめているだけ…。
望美は心の中で泣きそうになりながら、シャッターを切った。
カシャリ…
ゴンドラの中に流れているBGMに重なって、シャッター音が響く。
「いいのが撮れてるかい?」
望美のあからさまな動揺を静かに楽しんでいたヒノエが、望美に微笑みかけてくる。
望美は努めて冷静な顔をして、頷いて見せた。
といっても、ヒノエには望美の緊張が手に取るようにわかっていたが。
「うん。結構いいよ。小さくなっちゃうけど」
「こっちも撮る?」
ヒノエが指したのは望美の正面、ヒノエが背を向けている方角だ。
「う〜ん…」
しかしこのまま景色を撮ろうとすると、ヒノエが画面に入ってしまう。
ヒノエを写そうとカメラを構えた女の子たちから逃げてきたばかりなので、望美は少し躊躇ってしまった。
そんな望美の躊躇をどう受け取ったのか、ヒノエは軽く笑って組んでいた足を解いた。
「ヒノエくん?」
「オレが邪魔だね」
そう言うと、望美が止める間もなく、ヒノエは立ち上がって望美の横に移動したのだ。
「ヒ、ヒノエくん!?」
4人が定員の狭いゴンドラの中だ。
二人で一つの席に座れば、それだけで密着状態。
望美は跳ね上がる鼓動と同じくらい、わたわたと焦った。
「ヒ、ヒノエくん!?」
隣に座られただけでも慌てるのに、何の予告もなしに手首を掴まれ、望美の声が思わず裏返ってしまう。
(やだっ、焦ってるのがばればれだよ)
望美は自分の過剰な反応が恥ずかしくて、顔を赤く染めた。
しかしヒノエは、そんな望美をからかうわけでなく、望美の持っている携帯を、彼女の手ごと少しだけ自分に引き寄せた。
「見せてよ」
「え?あ…」
わずかに望美の方へ頭を倒し、携帯を覗き込む。
そのせいでヒノエとの距離がほとんどなくなり、彼のシルバーペンダントがチャラリ…と鳴る音が望美の耳に届いた。
「へぇ…。結構綺麗に入るじゃん」
「う、うん…」
ヒノエの吐息がかかるほどの近さに、望美が少しでも距離を取ろうとするのだが、狭いゴンドラがそれを阻む。
「オレもそろそろ機種変するかなぁ…」
「ヒノエくんは何を使ってるの?」
「オレ?…オレはこれだよ」
ヒノエがポケットから無造作に取り出したのは、飾りっ気のないシルバーの携帯。
ストラップさえついていない。
しかも開いて見せてくれた待受画面は、デフォルトのまま…。
「……意外」
ヒノエの携帯を凝視したまま、望美がぽつりと呟いた。
「何が?」
パチンと閉じた携帯は、長く使っている分少し傷が入っていた。
「ヒノエくんって、最新機種を持ってそうなイメージだから…」
スタイリッシュなヒノエは、漠然と身に着けるものも最先端な気がしていた。
けれど実際にヒノエが持っていたのは、現在出ている機種より3モデル前のものだった。
「使い慣れてるからね。これはプライベート用だし」
「ふたつ持ってるの?」
「ああ。今日はデートの邪魔をされたくないから置いてきたけど、仕事用のがある。もちろん望美はこっち」
ヒノエはそう言って、自分の携帯を振ってみせた。
すぐ隣で微笑むヒノエが近すぎて、それが恥ずかしくなった望美が席を移ろうと隙をうかがうのだが、ヒノエが手を離してくれない。
それどころか、望美の携帯に興味を惹かれたのか、ますます顔を近づけてくる。
この状況をどう対処していいのか分からなくなった望美は、とにかく立ち上がろうとした。
その瞬間。
二人で見ていた望美の携帯が、着信を知らせて震えだした。
(た、助かった〜)
着信に気づいたヒノエが、望美の手を離したので、ほっと安堵の息を吐く。
ヒノエは軽く手を差し延べ、望美に電話に出るよう促した。
望美はそれに甘えて、ヒノエとの緊張する時間から助けてくれた携帯の通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『よう。お前、家か?』
「将臣くん?」
ディスプレイを見ないまま電話に出たので、望美は声を聞くまで相手が誰だかわからなかった。
回線を通して聞こえてきた、ぶっきらぼうな幼馴染の声に、ふわりと表情を和らげる。
しかし望美とは対照的に、彼女の口から紡がれた男の名と緊張を解いた親しげな話し方に、ヒノエの眼差しがすっと眇められた。
だがヒノエから顔を逸らしている望美は、彼の表情の変化に気づかない。
『家にいるのか?』
そう尋ねてくる将臣は、出先から電話をしてきているのだろう。
将臣のバックに流れる賑やかな音楽が、望美の耳に届いてきた。
「ううん、遊びに出てる。どうしたの?」
『いや。今CDショップに来てるから、お前がこの前欲しいって言ってたアルバム、いるかなと思ってさ』
「あ、グ…、じゃない、あれ、あれだよね?」
口から思わず出そうになったアーティスト名を、寸でのところで飲み込んで望美は誤魔化すように咳払いを混ぜてみた。
『なーに言ってんだ?友達にグリフォンのライブ誘われたから、欲しがってたのお前だろ?』
忘れたのか?と将臣に笑われながら、ちらりとヒノエを窺う。
彼は興味なさ気に頬杖をついて外を見ていたから、ばれていないとほっとして再び将臣との会話に戻る。
しかし視線は外に向けられていても、ヒノエの耳に望美の声は嫌でも届く。
それに気づかない望美は、ヒノエに背を向けて極力声を抑えて電話の向こうの将臣に話しかけた。
「そ、そうだけど……」
『で、いるのか?』
「うん、お願い」
『最新だけでいいか?』
「ライブってやっぱり最新アルバムがメインよね?ツアータイトルだし」
『じゃねーの?もちろん前の曲も使うと思うけどな』
「う〜ん、じゃあ、一つ前のアルバムもついでに買ってきて。あとはライブまでに友達に借りるからさ」
『ああ?グリフォンの一つ前なんてわからねーよ。CD何枚出してると思ってんだ?』
きっとグリフォンのCDが並べられた棚の前にいるのだろう。
将臣がうんざりした声で言う。
「何よ!店員に聞いてくれればいいじゃない!意地悪っ!」
聞いてきたくせに面倒くさそうな将臣の態度に、ちょっとむっとした望美が唇を尖らした。
すると呆れたような大きな溜息。
『たいがいお前って我侭だよな……。間違えても文句いうなよ?』
「間違えないで!私が我侭なのは知ってるでしょ」
開き直る望美に、またもや盛大な溜息。
なんだかんだ言って、望美に甘い将臣はきっと間違わずにアルバムを買ってきてくれるだろう。
『ったく、わかったよ。今度、なんか奢れよ?』
「コーヒーなら奢ってあげる。ちょうど新しいお店見つけたんだ」
『へいへい、どうせケーキがうまそうとか言うんだろ?』
「当たり。今度一緒に行こうね?」
『ああ。……ところでさ、お前』
突然声を潜めた将臣。
望美も彼に釣られて、よりいっそう小声になる。
「何?」
『男と一緒か?』
「ま、将臣くん!?何よ、突然……」
ずばりな指摘に、望美が思わず詰まる。
その慌てぶりが伝わったのか、将臣がやっぱりと呟いた。
『いや、なんかテンションが変だからさ。妙に小声で早口だしよ……』
す、するどい……。
望美は奔放な性格の幼馴染の勘のよさにひやりとした。
しかし図星をつかれた望美も、ここであっさり頷いてからかいのネタを与えるわけにはいかない。
望美は自分の動揺を隠そうと、ひとつ深呼吸してから口を開いた。
「…違うよ?」
望美が否定を口にすると、電話の向こうで微かに笑われた気配がした。
『へぇ…。まあ、そういうことにしておいてやるよ』
「だから違うって!人の話を聞いて!」
『お前って本当のこと言われるとムキなるよな?』
「……」
ぐっと詰まってしまっては、肯定しているも同然。
将臣はしてやったりと笑い声を上げた。
『まあ、お前の男関係なんかどうでもいいけど』
「私だって将臣くんの女関係、どうだっていいもん」
『そりゃ、お互い気が合うな。よかったぜ』
「ほんと、気が合うわね!じゃあ、頼んだから」
『はいはい、じゃあな。……初デートの邪魔して悪かったよ』
「だから、違……。あ、切れた…」
最後まで望美の反論を聞かないまま、ぷっつりと途切れた回線。
味気ない機械音を繰り返すそれを見つめ、望美は溜息とともに携帯を閉じた。
同時に、くんっと軽く髪が引っ張られて、望美は何気なくそちらへと目をやった。
「ヒ、ヒノエくんっ!?」
望美の声が裏返る。
「仲がよさそうで妬けるね…」
望美の長い髪を弄びながら指に絡め、ヒノエはその魅惑の眼差しで望美を見据えたまま、その髪を形いい唇に当てた。
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