面白くない。






 ヒノエは憮然とした面持ちで外に顔を向けながら、ちらりと望美の背を流し見た。





 狭いゴンドラの中、ヒノエに背を向け、気を遣って極力声を抑えようとしている望美だが、会話は否が応でも聞こえてくる。
 聞こうと思わなくても耳に入ってくるのだ。
 <将臣>という名前は、さっき望美から聞いた名前だ。
 幼馴染みだと笑っていた。






 望美はヒノエが見たことも無い、無防備な表情を電話の向こうの男に見せる。
 怒ったり拗ねたり。ふわりと笑って見せたり。
 ほんの少しの時間なのに、望美はくるくると豊かに表情を変えた。
 そこにはヒノエへ向けていた緊張の欠片なんて、一切無かった。






 それだけで分かる。
 望美がどれだけ<将臣>に心を許しているかを…。
 




 幼馴染みと出逢ったばかりの自分と…。
 望美にとって、気持ちの距離感が違うのは分かっている。
 でも何故か気に入らない。






 ヒノエの存在自体を忘れたような、親しげな会話がヒノエの気持ちを逆撫でていく。





 ヒノエはそっと手を伸ばして、望美の背に流れる長い髪に指を絡ませた。 






「っ!?」
 毛先に口付けられただけなのに、望美は恥ずかしさで声を失ってしまう。
 一瞬にして真っ赤に顔を染めた望美は、慌てて体を思いっきり後ろに引いた。
 同時に鈍い音がゴンドラ内に響く。
「痛っ!」
「望美っ!」
 狭いゴンドラの中、力いっぱい後ずさった望美が、背中をガラスにぶつけてしまったのだ。
 その衝撃でゴンドラがゆらゆらと揺れた。
「やだっ!揺れるっ!」
「大丈夫だって」
 ゴンドラの揺れを怖がって青くなる望美を、ヒノエはくすくすと笑いながら望美の肩に手を回した。
「ひゃっ!」
「っと、動くともっと揺れるよ?」
 ヒノエが望美の肩を抱き寄せると、彼女は驚いて再び身体を退いて逃げようとする。
 しかしヒノエは「揺れる」の一言で黙らせ、まんまと腕の中に捕まえた望美の頭にキスを落とした。
 望美はといえば、ヒノエの腕の中でどうしていいかわからず、羞恥と緊張でぎゅっと目を瞑って身体を固くするばかりだ。
 手馴れたヒノエの行動が悔しくて、でもそれをあしらうだけの経験値もなくて、望美はただじっとしているしかない。
 そんな初心な望美が可愛くて仕方ないのか、ヒノエは上機嫌に笑いながら望美の顔を覗き込んできた。
「…望美」
「っ!」
 名前を呼ばれて、目を開けた瞬間に飛び込んできた綺麗な顔。
 鮮やかな赤の色彩に、望美は恥ずかしさを忘れて目を奪われた。
 そんな望美の目の前で、ヒノエがにやりと笑った。
「誰のライブに行くんだい?」
「…え?」
 ヒノエに意識が集中していた望美は、一瞬質問の意味が分からなくて、きょとんと聞き返す。
 それに嫌な顔ひとつせず、ヒノエはもう一度望美に問いかけた。
「さっき話してただろ?ライブに行くってさ。誰の?」
 笑ってない。
 表情はにこやかなのに、その目が笑っていない。
 望美はヒノエを見つめながら、背筋に嫌な汗が流れるのを感じた。






「え…っと…」
 どう答えるべきなのか?
 グリフォンのボーカリストであるヒノエに、正直にグリフォンのライブと教えるのは、なんとなく嫌だ。
 ついつい望美の天邪鬼が顔を出す。
 かといって、別のアーティストの名を出すのも失礼だと思った。
 それに、次に会った時ライブの感想を求められても困る。







 そこまで考えて、望美は自分の思考に苦笑を零した。
 ヒノエとの次の時間を考えている自分が滑稽で…。
 次なんてあるわけ無いのに…。
 ヒノエの気まぐれが、なぜ自分に向いたのかはわからない。
 でも、気の利いた言葉一つ言えない自分に、ヒノエの気まぐれがずっと続くとは思えなかった。






 視線を彷徨わせ、答えに窮する望美をどう思ったのか、ヒノエは軽く肩をすくめると望美の顔を覗き込んでいた身体を起こした。
「ま、オレには言いにくいよな。答えなくていいぜ、ちょっと妬けただけだから」
 あっさり身を引いたヒノエを、望美が意外そうに見上げる。
 するとヒノエは僅かに照れくさそうに笑って見せた。
「望美が幼馴染とすっげー仲が良さそうだからさ。それにライブにも行くっていうし…」
「ライブは友達とだよ?彼女が入ってるFCでチケット取ってくれたんだ」
「へぇ…。誰の?」
「秘密!!」
 言わなくていいと言ったばかりなのに、わざとらしく問いかけてくるヒノエに望美はつんっと顔を逸らした。
 ちょっと強気な可愛らしい仕草に、ヒノエは思わず笑みを零した。
「聞かないよ。…ああ…、タイムリミットか…」
「え?」
 望美が外へ目を向けると、地上がすぐ近くに迫っていた。







「今日はありがとう…。楽しかった」
 ヒノエに家の近くまで送ってもらった望美は、ヘルメットを差し出しながら礼を言った。
 するとシールドから覗くヒノエの瞳が、優しく和らいだ。
「それは何より。オレも望美とデートできて楽しかったよ」
「えっ、と、お金…」
「おごり」
 今日の資金は、望美に財布を取り出す暇を与えなかったヒノエが全部出してくれていたのだ。
 でもそのまま甘えていてはいけないと、思いきって切り出したのに、ヒノエは望美の言葉を全部言わせず、一言で終わらせようとした。
 しかしそれに軽々しく頷くわけにはいかない。
「それはダメだよ!」
 望美は慌てて首を振った。
 だがヒノエは笑って、軽く望美の頬に触れた。
「望美は学生、オレは社会人。OK?」
「でも…」
 たとえヒノエが自分で稼いでいるからといっても、年齢はかわらない。
 そんな彼の好意に、安易に甘えてしまうのはためらわれた。
 ヒノエはきっちりとした金銭感覚を持つ望美を好ましげに見つめた。
「今のうちに甘えておきなよ。お前が給料を貰いだしたらおごってもらうからさ」
「何年先よ!?」
 高校生の望美が給料取りになるのは、まだまだ先だ。
 気の長い話に、望美がすかさず突っ込みを入れる。
 しかしヒノエは飄々とした顔で、軽く肩を竦めた。
「さあ?ま、いいんじゃねぇの?これから長い付き合いだしさ」
「長いって…」
 ヒノエの言葉に戸惑う望美を、彼は溜息混じりに流し見た。
「お前、忘れてんの?オレ、お前を口説いてるんだぜ?」
「……冗談じゃなかったんだ?」
 心底意外そうに呟いた望美に、ヒノエはがっくりと肩を落とした。
「お前な……、このオレが、冗談でデートになんか誘えるかよ」
「………」
 確かにご尤も。
 ただの男の子が同じ事を言ったなら、何をうぬぼれているのと笑うのに、ヒノエは笑えない。
 彼は『グリフォンのヒノエ』だから…。
 プライベートな行動にも、必ず付いて回るその立場。
 言い返す言葉が見つからないまま、困惑を浮かべた眼差しでヒノエを見つめる望美へ、彼はにやりと自信に満ちた笑みを見せた。
「もっとオレを知ってもらって早く望美をオレのモノにしたいね。…てことで、手始めに…」
 すっと望美の胸元に差し出されたヒノエの手。
 その長い指先に挟まれた紙切れ。
 それが何かわからない望美が、不思議そうに首を傾げた。
「何?」
「グリフォンのライブチケ。観に来いよ」
「は?ライブ?」
 受け取ったライブチケットには関係者用の文字…。
「ステージからちょい遠い関係者席だけどさ、スクリーンもあるし観に来てよ、オレを」
「…もらっていいの?」
 グリフォンの公式チケットは手が込んでいる。
 今回のツアーキャラクターがデザインされた賑やかなそれは、ライブへの期待感を高めてくれる。
 望美は両手で受け取ったそれを、大事そうに胸元に引き寄せた。
「ああ、楽屋にも顔出せよ。後で時間は連絡するからさ」
 当たり前のようなヒノエの誘い文句を聞いて、チケットを見ていた望美が弾かれたように顔を上げた。
「楽屋なんて行けないよ!忙しいんじゃないの!?」
 だがヒノエはそれを否定して軽く首を振り、バイクのエンジンを噴かせた。
 楽しかったヒノエとの時間の終わりと告げる、それ。
 望美の心に、ほんの少し寂しさが吹き抜ける。
「時間はとれるさ。…渡すものもあるしさ」
「渡すもの?」
 何だろう?と望美が首を傾げた。
 ヒノエが、ふっと目元だけで笑う。
「ああ、じゃあ、またな」
 そしてヒノエは、望美へ軽く手を上げて合図し、後ろを気にしつつバイクを発進させた。
 望美はその後ろ姿を見送って、家へと足を向けたのだが…。








「…………あっ!!」
 それを思い出して振り返った時はすでに遅し。
 バイクのテールランプは、すでに望美の視界から消え失せていた。
「生徒手帳……。忘れてた!」
 いったい何のために今日ヒノエと会ったのか…。
「渡すものって…、何よ!意地悪!!」
 望美がコロッと生徒手帳の存在を忘れていると知りながら、何も言わなかったヒノエに向かって望美は思いっきり叫んでいた。













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