「おはようございます、先輩」
 いつもの時間に門を出ると、すでに立っていた譲が望美に微笑んで挨拶をした。
 長期休学が響いて一年留年したので、望美は高三、譲は高二だ。
「おはよう、譲くん」
 望美もいつものように挨拶を返した。
 しかし望美の顔を見た眼鏡の向こうの瞳が、心配そうな光を浮かべ僅かに細められる。
「先輩?どうかしました?目が赤いですよ?」
「え?」
 譲に指摘され、望美が慌てて顔を伏せる。
 夢を見て零れた涙はなかなか止まらなくて、望美の目は少しだけ赤く腫れていた。
 それを譲に見透かされ、戸惑いと後ろめたさに揺れた瞳。
 きゅっと辛そうに引き結ばれた唇が、何より雄弁に何があったか物語っている。
 この世界とは違う場所で共に過ごした譲には、わかってしまった。
「……ヒノエ、ですか?」
「譲くん……」
 逸らされた視線で、譲はそれが図星だと悟る。
「久しぶりですね。……ここしばらくはなかったのに」
 あの世界の夢を見る度、ヒノエを思い出す度、望美は人知れず涙を流す。
 それを知っている譲は、望美の泣きはらした顔に気づいては胸を痛めていた。
「譲くんには隠し事できないね。……夢、見たんだ。ヒノエくんを失ったときの夢を……」
 望美は切なげな微笑を浮かべ、そっと一歩を踏み出した。
「……阿波水軍ですか?」
 譲も望美の歩幅に合わせて歩き出す。
「うん…」
 望美はこの世界に戻ってきた時、譲に自分が逆鱗を使って行ってきた事をすべて話した。
 贖罪だったわけではない。
 ただ、聞いて欲しかった。
 この世界でたった一人、望美と同じ時間を過ごしてきた譲に…。
 そしてすべてを話すことで、神子としての自分を終わらせたかったのかもしれない。
 ゆっくりと歩き出したふたりは、しばし無言だった。
 







「先輩?」
 不意に譲るが呼びかけてきた声はいつもの優しい声より緊張を孕んでいて、望美はどうしたの?と譲を見上げた。
「何?」
「先輩はどうして、逆鱗を使ったのですか?」
「え?」
 これまで望美の話を聞いてくれるだけで、深く追求してこなかった譲が初めて問いかけてきた。
 望美は驚いて隣を歩く譲に目を向けた。
 譲の整った横顔は柔らかさを消し、静かな厳しさを湛えていた。
「先輩は二度逆鱗を使ったと話してくれましたね。思い出すのは辛いと分かっていますが、あえて聞きます。どうして二度、逆鱗を使ったのですか?」
 譲の問いかけを拒絶することは簡単だった。
 でも、何故か答えなくてはいけない気がして、望美は歩く足元に視線を落として口を開いた。






「………助けたかったの」
「誰を?」
「皆を。だって譲くんもっ!」
 炎に包まれ崩れ落ちる邸の中で失った存在。
 自分ひとりだけ現代に戻って、望美は逆鱗を握り締めて祈ったのだ。
 絶対に助ける、と。
 譲は一つ頷いて、静かに続けた。
「それは最初の運命の時だけです。……二度目は?」
「……ヒノエくんを助けたかった」
「何の為に?」
「何のって…っ!……生きていて欲しかったから」
 生きていて欲しかった。
 望美を支えて愛してくれたヒノエを失いたくなかった。
「どうしてですか?……運命を変えれば、死ななくていい人が死ぬ。自分が運命を上書きしたから殺してしまった人がいると、先輩は言いましたね?そのことは最初に逆鱗を使った運命で嫌というほど思い知ったはずです。
それなのに何故?」
「……譲くん」
 事実をはっきり突きつける譲に、望美は言葉を失った。
 頭では分かっていた。
 でもそれを譲に言葉にされると、自分が考えているのとは違う重さを感じた。
「禁忌を二度犯した、それは何故なのか。……先輩は考える必要があると思います。そうでなければ、きっと一生あなたは夢に苦しめられます。そして……」
 譲は言葉を切って、まっすぐに望美を見つめた。
「どうして、いまだに逆鱗を持ったままなのか……」
 譲の指摘に、望美は目を見開いて息を飲んだ。
「譲くん、気付いて……」
「ええ。先輩は逆鱗を白龍に返したのなら、きっと俺に教えてくれると思います。でもそれがない。すなわち、手元にあるままだ。……先輩、もう一年経ちました。そろそろ終りにしませんか?」
「譲くん……」
「考えてください。どうして、逆鱗を使ったのか。何故、逆鱗を持ったままなのか……。答えが出たら、夢も見なくなると思いますよ?」
 譲は戸惑う望美に切なげな微笑を向けて、初めてはっきり答えを求めたのだった。



  




 何故、運命を書き変えたのか?







 望美は一人、譲に投げかけられた問いを考えていた。
 





 あれは自分が認めたくない運命だったから。
 皆が、…ヒノエがいなくなるなんて認めたくなかった。
 他の人なんか知らない。大好きな人が生きていてくれればいいと……。






 譲の問いの答えを考えながら、望美は膝に伏せていた頭を抱えた。
 なんてエゴだろう。
 あの人だけが生きていればいいなんて…。
 最初の運命で、白龍が命を賭して望美に渡してくれた逆鱗。
 怨霊を操る平家を倒し、封印するなんて建前。
 本当は、失いたくなかったのだ。 
 仲間を。そして誰よりも好きな人を…。







 運命を変える為に遡った時間。
 誰もが気付かなかった望美のこと。
 それでいいと思った。
 誰も気づかなくても一番最初からやり直して、少しずつ流れを変えていければと。
 でも最初の運命とは違う春の六波羅で出会ったヒノエだけは、何かに気付いていた。







「……なぁ、ホントにオレたちどこかで会わなかったか?なんか、初めて会ったような気がしないぜ」








 少しだけ不思議そうに尋ねられた瞬間、息が止まるかと思った。
 望美がなかったことにした時間を、ヒノエはどこかで覚えていたのだろうか?
 記憶とは違う何かで……。







 いつから好きになっていたかなんてわからない。
 気付いたらヒノエの姿や声を探していた。
 







 妹背山で、ヒノエ自身と熊野別当としての両方の立場で気持ちを告白された時、彼を誰よりも愛していると気付いた。
 その時は、すぐ頷けなかったけれど……。
 恥ずかしかったのか、嬉しすぎたのか……。
 それとも戦いの最中だからと考えた、神子としての立場だったのか……。
 何故頷かなかったか、今となってはわからない。








 でもあの時、ヒノエの言葉に頷いていればきっと今のこの運命を選びはしなかった。







 
 そこまで考えて、望美は呆然と顔を上げた。
 選ばなかった運命?
 それは認めたくない運命?
 認めたくなくて書き変えたのは、ヒノエを失った運命だった。
 






 
 では、今は?
  







 望美のそばにヒノエはいない。
 望美自身が、ヒノエの手を振り切ってしまった。
  







 失ってしまったヒノエ。
 それは恐れていた結末ではなかったのだろうか?











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