「ヒノエくん!ヒノエくん!!」
ヒノエの名を泣きながら叫び、望美は何度も何度もヒノエを拘束する鎖に向かって剣を振り下ろした。
しかし阿波水軍が熊野の頭領を仕留める為に使った頑丈な鎖は、耳障りな金属音を立てるだけで、望美の力ごときではびくともしない。
腕に響く衝撃で、だんだん握力が無くなっていくのが分かる。
それでも望美は、渾身の力を込めて何度も剣を振り下ろした。
「望美…」
木の爆ぜる音、頬を焼くような熱さ。炎が容赦なく二人に迫っているのが分かる。
望美は追い詰められていく恐怖と焦りで震える身体を叱咤して、涙を流しながらヒノエを縛る鎖と闘っていた。
「お願い!切れてっ!」
血を吐くような願いも届かず、鎖は火花を散らすだけ……。
「望美、もういいよ……」
信じられない言葉が静かに振ってきて、望美は顔を跳ね上げた。
「ヒノエくんっ!」
「お前は早く逃げろ」
赤い瞳は迫り来る炎を映しながら、揺らぐことなくひたりと望美を見つめた。
「だめだよ!!ヒノエくんだけ置いていけない!」
「望美。お前は賢い姫君だ。……もう分かっているだろ?」
ふっと柔らかく目元を緩める笑い方はいつもと変わらなくて、それが一層望美の胸を締め付ける。
「でもっ!」
「火が迫ってる。この船はもうすぐ沈む。その前に逃げろ」
「いや!」
望美は半狂乱に首を振り、柱に縛り付けられたヒノエに抱きついた。
「どうしてそんな事を言うの!?私は最後まで諦めたりしない!」
「望美……」
必死に縋り付いてくる、柔らかな体を抱き返せない自分が苛立たしい。
ヒノエは望美の髪を鼻先で掻き分けるようにして、涙で濡れたその目尻に唇を当てた。
「お前のわがままは全部きいてやりたいと思ってた。でもこれだけは譲れない」
「ヒノエくん……」
「逃げろ、望美」
「嫌!嫌!!」
「望美!!」
聞いた事のないヒノエの厳しい一喝に、望美の身体がビクリと震えた。
「お前は生きなきゃいけない。この世界の為に。だから逃げろ」
「でもっ!」
「お前の代わりはどこにもいないんだ。だから行け!」
「ヒノエくんの代わりだっていないよ!」
「俺の代わりはいる。熊野だって楽隠居を決め込んでるクソ親父がなんとかするさ。だがお前の代わりはいない。白龍が選んだのはお前一人だ」
「天の朱雀もヒノエくん一人だよ!」
望美が涙を散らし叫んでも、ヒノエは苦く笑ってかぶりを振った。
「八葉は他にもいる。だけど、怨霊を封印できる神子はお前だけだ」
「嫌!ヒノエくんを見捨ててなんて行けない!」
「ふふ……。共に地獄の果てまでも…か。戯れにしか口に出来ない言葉だと今、初めて分かったよ。お前を道連れには出来ない。望美、頼む、逃げてくれ」
「ヒノエくん…」
「この世界の為じゃなく、オレの為に生きてくれ」
望美の瞳を見つめ、懇願するように告げたヒノエを、望美は信じられない思いで見返した。
「ヒノエくん……」
「心底愛した唯一の女を、オレの所為で死なせるわけにはいかない。頼む、望美。オレの為に……。オレの最後の我儘をきいてくれ」
「最後なんて言わないで!!」
望美は叫んでヒノエの言葉を遮った。
容赦なく二人を包もうとする炎が、望美の涙を赤く煌かせた。
それは血の涙のようで……。
「オレはお前を守りたいんだ……」
静かなヒノエの言葉は、周りの音に掻き消されること無く、まっすぐに望美の胸に届いた。
「それがヒノエくんの望みなの?」
僅かな沈黙の後、ヒノエの瞳を見つめ、望美がポツリと聞いた。
ヒノエが口元を和らげ、はっきりと頷く。
「ああ。お前に生きていて欲しい」
「一緒に死にたいって言っても?」
「お前だけは命に代えても守ると誓った。それを破らせないでくれ」
「ヒノエくん……」
「頼む、望美。オレを好きでいてくれるなら、オレの願いを叶えてくれ……」
酷いと、望美は唇を噛んだ。
こんな風に言われてしまったら、望美には頷くほか出来ない。
「ヒノエくん……」
望美はヒノエの頬に手を添えて、彼の瞳を覗き込んだ。
「望美……」
「好きよ、ヒノエくん……。本当はもう離れたくないの」
「……」
望美の瞳から、止め処なく涙が流れ落ちる。
けれど、今のヒノエにはそれを拭ってやることが出来なかった。
「でもヒノエくんが望むのなら……」
「ああ。オレは、オレの体たらくで一番大切な女を死なせる愚か者にはなりたくねぇ……。望美を誰よりも愛してる。……だから生きてくれ」
「ヒノエくん……」
望美はそっと踵を上げ、ヒノエの唇に己のそれを押し付けた。
迫り来る炎の中で交わした最後の口付けは、身を引き千切られるような苦しみと悲しい涙の味がした。
「っ!!」
喉に張り付いた悲鳴。びくっ!と大きく身体が跳ねて、唐突に視界が開けた。
じっとりとした嫌な汗が全身を覆い、不快感を余計に煽る。
自分の置かれた状況を把握しようと瞬いた目から、涙が一筋流れ落ちる。
「……夢?」
見慣れたクリーム色の天井。部屋を満たすのは爽やかな朝の日差しと鳥の声。
枕元では目覚まし時計が、控えめな電子音を繰り返して、望美の目覚めを促していた。
光に慣れない目を瞬かせながら、望美は激しく脈打つ心臓を押さえ、ゆっくり深く息を吸い込んだ。
「ヒノエくん……」
夢で見た人の名を呟くと、また涙が零れ落ちた。
あれはヒノエを二度目に失った時の夢だった。
誰よりも守りたいと思った愛しい人を二度も目の前で失った。
息が出来ないくらいの悲しみで、声が嗄れるほど逆鱗を握り締めて泣き叫んだ。
こんな結末を望んで時空を遡ったわけじゃないと……。
そして望美はもう一度、時空を超えた。
ヒノエの命を失わないために……。
ヒノエの夢を見たのは久しぶりだった。
元の生活に戻って、極力あちらの世界のことは思い出さないようにしていたから。
望美はぐっと涙を拭うと、起きろコールを繰り返す目覚ましをいささか乱暴に止めた。
もう吹っ切ると決めたのだ。こちらに帰ると決意した時に。
だから望美は身体と気持ちを重くする夢の残滓を振り払い、勢いをつけて起き上がった。
涙はまだ止まらなかったけれど……。
もう望美はヒノエのいる世界にはいないのだから。
今はただ、白龍と出会う前と変わらない平和な毎日を過ごすだけ。
望美と譲が戻ってきた時、すでに一年と少しの歳月が流れていた。
犯罪に巻き込まれたか、駆け落ちかとずいぶん騒がれたが、二人とも一貫して「覚えていない」と言い張った。
駆け落ち説はすぐに消えた。
だいたい春日家と有川家が、将臣や譲と望美が付き合うとして反対などするわけがないのだ。
駆け落ちの必要がない。
そして戻らない将臣の行方……。
それはまだ、事あるごとに望美や譲に疑いの目が向けられる。
でも真実を告げる気はなかった。また告げたとしても信じてもらえるとは思わなかった。
たとえ信じてもらえたとしても、将臣が選んだ道を、否定されたくなかった……。
だから二人は口を閉ざしている。
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