「よけいなことしちゃったかな?」
 急ぎ足で市から抜け、望美は豊かな森の中に来ていた。
 頭領を名乗る不埒な男に腹が立って、思わず叩きのめしていた。
 昔取ったなんとやら……。
 久々の大立ち回りだったが、勘は鈍ってないらしい。
 おかげでいらぬ悪目立ちをしてしまったが。
 駆けつけた水軍の男に、詐欺男を押し付けて望美は逃げるようにその場から立ち去った。
 いつまでもぐずぐずとしていたら、もしかしてヒノエが来てしまうと思ったからだ。
  






 ヒノエに会いに来たけれど、望美が後先考えずに捕り物をしたところなんて見られたくない。
 『白龍の神子』として一緒に行動していたから、望美の腕を知っているヒノエだが、やっぱり再会は女らしくおしとやかにいきたかった。
 乙女思考と言われようと、女心としてはおてんばな部分は見られたくなかった。
 男を一人叩きのめしておいて『おてんば』で済むかどうかは謎だが。
 







 怒りの鉄槌を喰らわせた男を縄にかけたのは、水軍の男でもまだ若い望美を知らない人だった。
 きっとあの戦に参加していなかったのだろう。
 だからヒノエにこの事件がばれるはずはない。
 望美はそう結論付けて、うんとひとつ頷いた。





 
 夕方になったら何も知らない顔をして本宮に行く。
 それまでは大人しくしておこう。









 望美は日頃馴染みの無い緑溢れる森の中を散策とばかりに歩き始めた。








「森林浴だね」
 時間つぶしにのんびりと森を歩いていた望美だが、大きな木の根元に腰を落ち着けて、うん……と背伸びをした。
 自分でも能天気だな、と思いつつ、久々に感じるこの世界の自然を満喫している。
 ヒノエに会えなかったらとか、ヒノエにとってあの時間が過去になっていたらとか、今は考えない。
 その時はその時だから。
 どんな結末だって、望美はこの世界で生きていくと決心している。
 いろんな人に迷惑をかけるだろうけど、ここはこの世界で神子として頑張ったご褒美を貰うつもりで甘えさせてもらおうと思った。
 子供じみた自己中心的な甘い考えかもしれないけれど。
「ホント、楽天的で自分勝手」
 呟いて苦く笑う。
 皆は今、どうしているだろう?
 鎌倉は?京は?
 気になることはたくさんあるが、今はヒノエのことだ。
 譲が後押ししてくれた、自分が目を背けて眠らせようとしていた本当の気持ち。
 それを大切にしたい。
 先を考えるのはそれからだ。
 望美は緑の香りのする森の空気を思いっきり吸い込んで、そっと目を閉じた。







 すっと頬をくすぐる心地よい風。
 遠くで囀る鳥の声。
 さらさらと葉が揺れる音が耳に優しい。








 望美は目を瞑ったまま、いつの間にか眠りに誘われていた。






























「頭領、それらしき女性の姿は見当たりません」
 そんな報告がもたらされるのは何度目か。
 放った烏も、まだ望美を見つけられない。
 ヒノエは零れ落ちそうになる溜息を堪え瞳を閉じた。
 




(どこへ行った?望美……)
 



 
 左の指先を眉間の辺りに当て、そこへ集中する。
 かつて神子と八葉を繋ぐ宝珠があった場所へ。
 




 感じろ。唯一無二の存在を。
 たとえ宝珠が消えても、ヒノエと望美を繋ぐモノまで消えたとは思わない。
 他の誰もが彼女を視覚で見つけられなくても、天の朱雀であった自分ならその存在を感じることができるはずだと……。






 ちりちりと眉間が熱くなってくる気がする。
 目を閉じた真っ黒な視界が緑に染まる。
 耳をくすぐる優しい音達。頬を通り過ぎる風。






 ヒノエはゆっくりと瞼を上げた。






「頭領?」
 どこか夢うつつのようなヒノエに、側近が声をかける。
 その声にヒノエの瞳が鋭さを取り戻した。
「森へ」
 羽織った上着を翻し、ヒノエは側にいた馬の背へと飛び乗った。
「頭領!?」
「神子姫は森にいる」
 そう言うが早いか、ヒノエは馬の腹を蹴ったのだった。
 






























「無防備なのにも程があるよ……。神子姫様」
 宵闇が迫る頃、ヒノエがやっと見つけたのは、巨木の根元ですやすやと眠る望美の姿だった。






 ヒノエの記憶よりも、少しだけ綺麗に大人びた望美の寝顔。
 穏やかに幸せそうに眠る彼女。
 もう二度と会えないと思っていた。
 無理にでも攫えばよかったと、何度後悔しただろう。
 






 幻ではないのかと、ヒノエは僅かに躊躇いながら手を伸ばす。
 指先に触れた滑らかな頬……。







 彼女が還るまでいったい幾度口付けただろう……。
 愛しい神子姫の頬に……。








「望美?」
 そっと呼びかけると、僅かに瞼が震える。
 けれどまだ望美は夢の中だ。
 そういえば朝が弱かったな、とヒノエが苦笑する。
「お目覚めの時間だよ、神子姫様」
 ヒノエは望美の耳元で囁きかけると、その頬に唇を寄せた。
 懐かしい望美の甘い肌の香りがする……。








 耳を擽る低く落とされた柔らかな声。
 頬に触れたのは、涙が出るほど優しい温もり。
 それらに望美の意識は引き上げられる。
 






 目を開けたら、鮮やかな紅に視界が染め上げられていた。







「おはよ、神子姫様?」
「ヒ、ノエくん?」
 目が覚めたら、視界いっぱいにヒノエの整った綺麗な顔があった。
「こんな所で眠るなんて、襲ってくださいと言ってるようなもんだぜ?」
「え?あれ??」
 望美が慌てて周りを見回すと、木漏れ日が落ちていた森は、すでに闇に包まれかけている。
「……寝ちゃってた?」
「寝てたよ。ぐーぐーと」
「さ、最悪……」
 望美は恥ずかしさに顔を赤くして、顔を手で覆ってしまった。
 ヒノエに見られてしまった、間抜けな寝顔を……。
 気合を入れて再会するはずだったのに、これはあまりにも情けない状況じゃないだろうか?
 呆れてしまったのだろうか?
 それとも何とも思っていない?
 指の隙間から、ちらりとヒノエを盗み見ると、ヒノエは僅かに困惑した表情で望美を見ていた。







「ヒノエくん?」
 いつも自信に満ちた笑顔を見せていたヒノエが浮かべている見慣れない表情に、望美が不思議そうに顔を上げた。
「ん?」
「どうしたの?」
「……それはこっちが聞きたい。どうしてお前がここにいるんだい?」
「あ、え〜っと……」
「オレを訪ねて来たと聞いた。お前、還ったんじゃなかったのか?」
「うん、還ったよ。還ったけど、忘れ物に気付いたんだ」
「忘れもの?一年も経ってか?」
「一年……。向こうで過ごしたのと同じくらいの時間に着ちゃったんだね……」
 望美のしみじみとした呟きが聞き取れなくて、ヒノエが眉を寄せる。
「姫君?」
 ヒノエが望美を覗き込むと、彼女はその唇に微苦笑を浮かべた。
「一年経ったから、気付けたのかもしれないね、忘れ物に。譲くんに言われなければそのままだったけど」
 小首をかしげ髪を耳にかける望美の癖は、一年前と変わらない。
 望美はすっと立ち上がり、ぱたぱたと着物を整えてから、ヒノエに両手を差し伸べた。
「立って?」
「姫君?」
 膝を付いていたヒノエが、立ち上がった望美を見上げた。
「ここに。私の前に立って」
 差し出された手を握り締め、ヒノエが望美の示した場所に立つ。
 手を繋いで向かい合うと、望美よりもヒノエの方がずいぶんと高かった。
 望美が顔を上げる角度が大きくなっている。
 以前と変わった身長差に、望美は一年の歳月を感じた。
 体つきも顔つきも、少しだけ残っていた少年の面影はなく、精悍な青年となったヒノエ。
 宵闇に浮かぶ彼の姿は、まるで幻のようで、望美はヒノエの手を握った手に力を入れた。
 すると、しっかり握り返してくれる手が、夢じゃないよと教えてくれて……。








 どうしてこんなに好きなのに、離れてしまったのだろう。
 誰を犠牲にしても助けたかった人。
 私の側で笑っていて欲しかった人……。
 ヒノエを前にして、望美は改めて自分の想いを噛み締める。
 





 自分の世界で、両親や友達と穏やかな時を過ごしていても、何かが足りなくていつも焦燥感に駆られていた。
 それが何なのか、今なら分かる。
 






 ヒノエと再び逢って、やっと気付けた。
 望美はずっとヒノエを求めていたのだ。
 理性で押し殺した心の奥深く。本能で求めていた。








「ヒノエくん……」
「なんだい?神子姫様」
 ヒノエの返事を耳にし、僅かに傷ついた表情を浮かべ望美が顔を伏せる。
 ヒノエはもう、望美の名を呼んでくれない。
 すでにヒノエにとって過去の存在になってしまったのだろうか?
 もう、この想いはヒノエには邪魔にしかならないのだろうか?







 それでも、想いを告白すると決めてここまで来た。
 時空を超えて、ヒノエの元まで。






 
 譲が背中を押してくれたから。
 ヒノエと再会できた。
 だから、どんな結末でも決着はつけなければならない。






 望美は顔を上げて、まっすぐにヒノエを見つめた。
 自分の想いをヒノエに伝える為に。







「私、忘れていたの」
「…何を?」
「ヒノエくんに、私の本当の気持ちを伝えるのを…」
「姫君?」







 手が、震える。
 きっとこの手の震えは、ヒノエにも伝わっている。
 でも、言わなければいけない。
 言わないと先に進めない。







「ヒノエくん……」
「なんだい?」
 優しく微笑むヒノエの顔が困惑に曇るのを見たくないと思う。
 それでも望美は思いっきり頭を下げて、ヒノエに言った。
「私を、ヒノエくんのお嫁さんにしてください!」

















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