「やべぇな…」
 窓の外を流れていく対向車のヘッドライトを眺めながら、バンの後部座席に乗っていたヒノエがポツリと呟いた。   






「どうしました?」
 隣で静かに目を閉じていた弁慶が、ちらりとヒノエへ視線を向ける。
 ヒノエは厳しい顔をして、左手で自分の右肩を掴んだ。
「寒気がする」
 ぴくりと弁慶の眉が、不快気に動く。
「………風邪ですか?」
「わかんねぇ…。でも、やばい気がする」
 背筋に走る悪寒。
 これまでの経験から考えると、十中八九、熱がでる前兆だ。
 朝、目覚めた時から身体がだるいと思っていたが、分刻みのスケジュールをこなしている間に悪化したようだ。
 仕事中は集中していて気づかなかったが、帰る段になって気が抜けたらしい。
 弁慶は、組んでいた足をもてあまし気味に組み替えて、呆れたような溜息を零した。
「少し前に、喉がおかしいと言ってましたね?」
「ああ……。気をつけていたんだけど、この気温差にやられたかな?」
 素直に具合の悪いことを認めたヒノエへ、弁慶はもう一つ大きな溜息。
 どうやらかなり悪いらしい。
「君は昔から熱を出すと長引く。……もう少し気をつけなさい」
 穏やかだけれど、強く言い聞かす力を持った言葉に、ヒノエが顔を顰めた。
「……うるせぇよ」
 いつもの減らず口も、今夜は力がない。
 弁慶は、鋭い眼差しでヒノエを見返した。
「体調管理も出来ない君に、大きな口を叩く資格はありません」
「………」
 正論だ。
 正論すぎて、ヒノエは口を開くことが出来なかった。
 その間にも、ヒノエを襲う悪寒は徐々に酷くなっている。
 ヒノエは苛立たしげに舌打ちすると、冷たい窓ガラスに額をつけて瞼を落とした。








「ちくしょう……」
 はぁ…と深く息を吐けば、喉に不愉快な熱さを感じる。
 スムーズに動かない身体。痛む節々。
 霞がかかったようにはっきりしない頭を抱え、ヒノエはゆっくりとベッドから身体を起こした。
「……オフで助かった」
 気だるげに呟いて、立てた片膝に顔を埋める。
 一晩寝ればなんとかなると思ったヒノエの体調は、朝、目覚めた時には最悪の状態になっていた。
 熱を測らなくても、高くなっているのは分かる。
 呼気がどうしようもない熱をはらんでいるからだ。
 しかし明日からは、またスケジュールがつまっている。
 今日中になんとかしなければいけないと思うのに、発熱した体は自分の思うように動かない。
 ヒノエは小さく悪態をつきながら、ベッドから足を下ろした。






 とにかく、最低限の連絡を入れなければと考えながら……。







「医者を呼びましょう。薬を処方してもらったほうがいい」
 ソファの上で、無防備に体を投げ出したヒノエを見下ろして、グリフォンの片割れである弁慶は冷静に診断を下した。
「……じゃあ、頼む」
 自分で連絡する気力も無いのか、ヒノエは目を閉じたまま弁慶に言った。
 ヒノエからの電話を受けた弁慶は、少し早めに自分の家を出てヒノエが暮らす部屋に寄ったのだ。
「君にしては素直ですね?よほど悪いのかな?」
 軽口をたたきながら、ジャケットの内ポケットに入れていた携帯を取り出し、弁慶は自分の言葉に従うヒノエを物珍しそうに見た。
 ヒノエが、ゆっくりと寝返りを打つ。
 だが、楽な体勢を探して身体を動かしても、全身を苛む倦怠感と痛みはなくならなかった。
「きついのもあるけど、明日までには何とかしたいだけだよ。気にくわないけど、あんたの診立ての方がオレより正確だろ?医学部出身なんだからな」
「知識だけですよ。臨床はあまり知らない」
 弁慶は迷いながら進んだ医学の道より、もともと好きだった音楽を諦めきれなかった。
 医学を究めるのも興味はあった。
 けれど、音楽はそれ以上に弁慶を虜にした。
 






 色々な道を探り、何度も迷って行きつ戻りつしたあの日々。
 その時間が無駄だったとは思っていない。
 悩んで迷った時があったから、今の弁慶がいるのだ。
 






 結局、弁慶は周囲の反対を押し切って、最終的に音楽を選んだ。
 最初は、がむしゃらに。
 身体から溢れていく音を、ただ思うまま描いていった。
 






 夢を一緒にみる、頼りになるメンバーと共に、音楽について語った日々。
 自分の想いを譲れなくて、喧嘩になった日もある。







 天才ギタリストと呼ばれるようになったのは、いつのことだっただろう?







 やがて色々な曲を作っていくにつれ、バンドメンバーそれぞれが、自分のやりたい音楽やスタイルを漠然と考えるようになった。
 バンドでなければ表現できないものも確かにあった。
 けれど、それ以上に弁慶は自分自身が作りたいものを見つけてしまったのだ。
 それはバンドメンバーも同じだった。
 メンバーそれそれの目指す道は、みな微妙に違う方向を向いていた。
 







 だから、メンバーは各々の道を歩くことを選んだ。








 すべては、自分の音楽のために。








 人気絶頂期の解散。
 弁慶はその後、しばらくプロデューサー活動を行い、満を持してヒノエと「グリフォン」を結成したのだった。







 天才ギタリストと不世出のボーカリストと謳われ、アジアの音楽シーンを走るグリフォン。
 






 そんな彼らには、ほとんど休みなどなかった。
 特に今は、新曲リリース後なのだ。
 そして、一年半ぶりのアルバムリリースも控えている。
 






 あまりに過密スケジュールだったため、一日だけヒノエに与えられたオフ。
 それにヒノエの体調不良が重なったのは、不幸中の幸いといえるだろう。








「とりあえず、医者に診てもらいなさい。景時を呼びます、いいですね?」
「ああ」
 医学部時代に弁慶と知り合った内科医は、今ではすっかりグリフォンの主治医だ。
 いつでもどこでも、文句をいいながらも診察してくれる、人のいい男である。
「事務所には?」
「まだ言ってない」
「では、午後にでもマネージャーに、君の様子を見に来るように言っておきましょう……」
「別に平気だ」
「自己管理の出来てない君に、拒否する権利はありません。何かあってからでは遅いんですよ。明日から、また仕事ですからね」
 仕事を持ち出されては、ヒノエも逆らえない。
「……わかったよ」
 嫌々ながらも、仕方ないと頷いた。
「食事は?」
「いちいちうるせーよ。ガキじゃねぇ」
 ヒノエが弁慶を睨む。
 しかし熱で潤んだ瞳は、いつもの刺すような力を持っていなかった。
 弁慶は苦笑を浮かべて、おどけるように肩をすくめて見せる。
「……そうでした。つい、熱を出してよく寝込んでいた、君の子供の頃を思い出してねぇ…」
「よけいなこと思い出すんじゃねぇよ。さっさと行きやがれ」
 これ以上余計なことを言うなと、ヒノエが手を振って弁慶を追い払うが、当の本人はたた微笑むだけだった。
「やれやれ。心配してわざわざ来たのにご挨拶ですね」
「お前がよけいなこと言うからだ」
 顰めた表情は、心底嫌がっているのが分かる。
 弁慶は笑いながら、携帯のメモリを探す。
 景時はすぐに捕まるだろうか?
 コールを聞きながら、弁慶は玄関へと足を向けた。
「文句のひとつやふたつが出るなら、いいでしょう。明日までには、なんとかしておきなさい。体調管理も実力のうちです」
「……分かってるよ」
 もう相手にしてられるかと、ヒノエは上げた腕で熱で赤味がさした目元を隠してしまった。










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