「風邪と過労だね…」





 ヒノエを診察した景時は、微苦笑を浮かべながら結果を告げた。
 ここに景時を呼んだ弁慶の姿は、すでにない。
 弁慶は打ち合わせの為、景時が来る前にスケジュールどおり出かけたのだ。
「……過労…」
「ヒノエくん、元々体力あるから、過信しすぎたのかな?無理が続いてたんじゃない?」
 景時に問われ、ヒノエは熱でぼんやりとした頭で、ここ最近の自分の生活を思い出した。
 帰宅は日付変更線を越えてから、睡眠は一日3〜4時間。
 移動時にうとうとしているとはいえ、不規則極まりない生活だった。
「……なさけねぇ」
 景時に指摘されるまでもなく、原因は過密スケジュールだろう。
 けれど、倒れるほどの無理はしていないつもりだった。
 景時は、ヒノエの力ない呟きを耳にして、軽く肩をすくめた。
「自分を過信しちゃだめだよ。もう少し、睡眠もとらないと」
「……気をつけるよ」
 倒れた身とあっては、反論など出来ない。
 ヒノエは景時の忠告を、素直に聞き入れた。
「まあね、『グリフォン』の君に、暇なんてなかなか与えられないだろうけど……」
「いや、助言はありがたく受け取るよ」
「うん、気をつけて。今日は、ゆっくりして栄養のあるものを食べなさい」
「栄養のあるもの……。動けねぇ……」
 確かに熱も高い状態では、食事の用意など出来ないだろう。
 でも景時は、にやにやとからかいの笑みを浮かべ、ベッドに横たわるヒノエを見下ろした。
「君になら、喜んでお料理してくれる娘がいくらでもいるだろうに。呼んで、甘えたら?」
「いないぜ、そんなの」
「え!?」
 ヒノエの答えに、心底驚いた景時が大げさに一歩下がるようにして声を上げた。
 その反応に、ヒノエが嫌そうに眉をひそめた。
「何だよ?」
「いや……。だってヒノエくん、すごくもてるのに…」
「ここに呼ぶ女なんていない。……今は、フリーだしな」
「えぇ!?」
「いちいち、うるせー!」
 またしても、ずざざざざと退く勢いで驚いた景時に、ヒノエは舌打ちして怒鳴った。
 しかし怒鳴ったと言っても、熱で体力が落ちているからいつもの力はないのだが。
 景時は信じられないものでも見るような目を、ヒノエに向けた。
「ヒノエくん……。女の子切らしたことないのに……」
「………人聞き悪いぜ、景時」
「ま、まあ、仕事が忙しいし、それどころじゃないかな?」
 ははは、と引きつった愛想笑いを見せる景時。
 ヒノエは深い溜息を吐いたが、そのコメントに対してはもう何も言わなかった。









 後で、薬を誰かに届けさせると言い残し、景時は勤務先へと向かった。
 気のいい男は、ヒノエの為に出勤前にここへ寄ってくれたのだ。
 景時は食事などの心配までしてくれたが、ヒノエは事務所に頼むから大丈夫だと告げた。
 景時が出て行き、再び部屋はヒノエだけになる。
 静まり返った部屋には、電化製品の僅かな待機音と、ヒノエの荒い息遣いが響く。







「………でも、チャンスかな?」
 ヒノエは重い身体を動かし、サイドテーブルに置いてあった携帯に手を伸ばした。
 






 よく晴れた休日。
 今朝の望美は、子供のようにわくわくして早く目覚めてしまった。
 今日は、仲良しの朔と一緒に映画とショッピングと食事を楽しむ予定なのだ。
 望美は勢いよくベッドから起き上がって、いそいそと用意をし始めた。






「何、着ていこう?」
 店頭には明るい色合いの春の服が並び始めたけれど、外はまだ冷たい風が肌を刺す。
 あと少しの間、厚手の服が必要だけれど、せめて色くらいは春めいたものを選びたい。
 望美はそう思って、クリーム地にサーモンピンクや紫、グリーンの花が描かれたスカートと黄色のニットを選んだ。
 コートは白。
「うん。これでいいかな?」
 ベッドに並べた服を、腕を組みつつバランスを見て、ひとつ頷く。
 そしてそれに着替えようと手を伸ばした時だった。
 机の上のスタンドに置いてあった携帯が、お気に入りの着メロを流し始めた。
「…ヒノエくん?」
 ディスプレイに刻まれた文字は、今現在、望美の一番気になる人物だった。
 望美は跳ね上がった鼓動を落ち着けるため、ひとつ大きな深呼吸をしてから通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『望美?』
 携帯を通して聞こえる声は、なんだかいつもよりくぐもって聞こえる。
 ヒノエらしい歯切れのよさが感じられない。
 望美は違和感に、首を傾げながらそうだよ、と返事をした。
「今日はお休み?」
『……』
「ヒノエくん?」
 いつもなら、テンポのいい返事がくるはずなのに、ヒノエの声が聞こえてこない。
 望美は、訝しげにヒノエを呼んだ。





『望美…。頼みがある』
 ゆっくりとした口調。
 気のせいか、少し苦しそうだ。
 望美は首を傾げながら、電話の向こうのヒノエの様子を窺った。
「? ほんとにどうしたの?珍しいね。何?頼みって」
『助けて』
「は?」
 ヒノエの言った、たった一言。
 単語として望美の耳に入ってきたが、いまいち理解出来なくて、間抜けた声で問い返してしまった。
『頼む…』
「え?何?何のこと!?」
 苦しげなヒノエの声を耳にして、望美が焦る。
『来てよ』
「来てってどこ?何なの?」
 いったいヒノエが何を言いたくて、何を求めているのか。
 望美は両手で携帯を掴んで、身を乗り出すようにしてヒノエを問い質していた。
 ヒノエは一つ大きく息を吐いて……。
『オレん家。熱でて動けねぇ…』
「は?熱?」
『頼む。助けてくれ』
 確かにヒノエの声は、わずかに息があがっている。
 たぶん抑えきれない苦しさなのだろう。
 望美はどうしていいかわからず、うろうろと部屋を歩き回る。
「ヒノエくん?大丈夫なの?」
『望美…。来て…』
 囁くような懇願……。
「ヒノエくん?」
 望美の問いかけには答えないまま、一方的に回線は途切れた。
「ヒノエくん?」
 しかし無音となった携帯は答えないまま……。






「……嘘でしょう?」
 望美は、呆然と携帯を見つめた。











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