「助けてって言われても……」
望美はロビーに設えられたインターフォンの前で、弱りきって佇んでいた。
電話が切れたあと、明るい着メロと共にメールで届いたヒノエの住所。
望美の都合も予定もお構い無しだ。
望美は一瞬、無視しようかと思ったけれど、電話の向こうのヒノエの声があまりに具合が悪そうで……。
携帯に届いた住所とにらめっこしながら悩んだ結果、望美はショッピングと映画の約束をしていた友人に、時間変更の電話を入れたのだった。
詳しいことは話さず、ただ急用が出来たからとだけ伝えると、友人は優しく望美の我侭を受け入れてくれた。
夕方、今日までしか上映していない映画だけを観ようと……。
そしてヒノエが送ってきた住所から、慌てて地図を調べ、今、ここにいるわけだけれど……。
ヒノエの部屋のベルを鳴らすには、かなり勇気がいるものだ。
望美は何度かボタンに手を伸ばすものの、押すまでには至っていない。
しかし……。
「いつまでもここにいるわけにいかないし……。仕方ないっ!」
望美は自分に気合を入れて、教えてもらっていた部屋番号を入力した。
ドキドキと脈打つ鼓動。
望美は緊張して、インターフォンから流れてくるはずの声を待った。
「…………あれ?」
しかし数秒たっても、返事がない。
望美は首を傾げながら、もう一度呼び出しをかけた。
『………はい?』
「あ、えっと…」
インターフォンから聴こえたのは、不機嫌極まりないヒノエの低い声。
今まで聴いたことの無いヒノエの声に、望美は一瞬たじろいてしまい、続く言葉が出てこない。
しかしモニターで望美の姿を確認したらしいヒノエが、一つ苦しげな息を吐く。
『上がってきて』
ヒノエの掠れた声は、短くそれだけ言って切れてしまった。
「あ…」
望美が答える暇もないくらいだった。
そしてすぐに、インターフォンの横にある自動ドアが、望美を迎え入れるために開いた。
「えっと…」
悪いことをするわけではないのに、何故か望美はきょろきょろと辺りを窺いながら、おどおどとドアをくぐった。
セキュリティーマンションなんて初めてだ。
しかも見た目から高級マンションとわかる。
望美は花が飾られたロビーを横切り、エレベーターのボタンを押した。
揺れの少ないエレベーターは、途中で止まることなく望美を希望階まで運んでくれた。
エレベーターから足を踏み出したとたん、固いタイルに響く自分の靴音。
誰も居ない通路に、少しの淋しさとを冷たさを感じながら、望美はたった一つのドアを目指した。
「1フロア1ルームのマンションなんてあるんだ……」
いったいいくらなんたろう?と考えてしまうのは、人の性だと許して欲しい。
望美は片手に持った荷物を一回しっかりと持ちなおすと、早鐘を打つ心臓を落ち着かせるためにゆっくりと息を吸った。
ヒノエの、しかも一人暮らしの男の部屋を尋ねるなんて初めてなのだ。
同年代の男の部屋に入ったことは、数え切れないほどある。
対象は、ご近所の幼馴染みの兄弟の部屋と限定されるけれど。
気心の知れた彼ら以外の男の部屋に来るなんて、いくらなんでも軽率だっただろうかと、今更ながら考えてしまう。
でも、ここまで来たら引き返せない。
「相手は病人。病人なの……」
望美は呟くように自分に言い聞かせてから、微かに震える指先で、インターフォンを押した。
少しだけもどかしいような時間が流れ、ドアがゆっくり薄く開く。
「ヒノエくん?」
室内は少し暗くて、奥にいるヒノエの姿がよく見えない。
望美が不安そうに声をかけると、ようやくドアが大きく開いた。
「急にごめん…。入って」
いつも、隙のないヒノエとは違う様子に望美は戸惑ってしまう。
寝乱れたままの髪、白い貌、色を失い乾いた唇。
身体がきついのか、肩を壁に預けて立っている。
いつもとの落差に、望美の顔が心配そうに曇る。
「大丈夫なの?ヒノエくん?」
「……大丈夫って言いたいけど、ちょっと限界」
ふっと苦く笑って見せたヒノエに、いつもの力強さはない…。
「ご飯は?食べたの?薬は?熱は?」
ふらふらしながら歩くヒノエの後をついて行きつつ、望美が畳み掛けるように様子を尋ねる。
「……食べるも作る気力もなし。熱は薬でマシなほう」
かなり身体がだるいのか、望美の問いかけにゆっくりと答えながら、ヒノエはリビングにあるソファに倒れこむようにして身を投げ出した。
「ちょっと、大丈夫なの?寝てたほうがいいんじゃない?」
「身体が痛い…」
そうつぶやいて、ヒノエは長く深い息を吐いた。
「ねぇ、病院は?家族は?」
苦しげな息遣い、熱で潤んだ瞳、血の気のない白い貌……。
ヒノエがかなり悪いことは、一目瞭然だ。
望美は、ヒノエが横になったソファの脇に膝をついて、ヒノエを覗き込んだ。
いつもより近い距離感。
望美は意識していないようだが、ヒノエの体調が悪くてダウンしているから、いつもよりも警戒心が薄れているのだろう。
自分の目の前で、心配そうに顔を顰める望美に、ヒノエは大丈夫だよとうっすら微笑んで見せた。
「医者には診てもらった。近くにいる親戚は知ってるよ。『自己管理がなってない』ってお小言食らった」
「何それ!?」
ヒノエがこんなに辛そうなのに、お小言だけで放り出すなんてありだろうか?
あまりに酷い扱いだと望美が怒ると、ヒノエは苦しそうに眉間に皺を寄せながらも、くすくすと笑った。
「怒るなよ。いつものことだ」
「いつもって……」
それ以上は言うなと、ヒノエが軽く腕を振って望美の言葉を制する。
望美は不満そうに唇を歪めながらも、それ以上は言わなかった。
「で?マネージャーさんとかじゃなくて、私にSOSってどういうこと?」
望美が聞くと、ヒノエが億劫そうに片目を開けた。
「マネージャーは夕方、様子を見に来るよ。親は遠いしな。口うるさい親戚は、どうでもいい。オレには望美しか頭に浮かばなかった」
「っ!?」
ヒノエの言葉に、望美が瞠目して一瞬息を呑む。
しかし仰向けに寝たまま深く息を吐き、苦しそうな表情を隠すため、上げた腕で自分の顔の上半分を覆ったヒノエは、望美の表情の変化に気がつかなかった。
「ごめん、なんか食わせて…。薬飲むのに食べなきゃいけないけど、動けねぇ……」
「……わかった。簡単なものでいい?一応、うどんとか買ってきたんだけど…」
「ありがとう…。さすがだね」
「…期待はしないでね。台所借りるから…」
リビングのソファから起き上がれなくなったヒノエの頼みで、彼の香りが一番残る寝室から毛布を持ってきた望美は、そっとヒノエにそれをかけた。
初めての台所で、ごそごそと調理器具や調味料を探しつつ、冷蔵庫に首を突っ込んだ望美は、その中身を見て呆れた吐息と共に肩を落とした。
「……水しかないの?」
冷蔵庫に入っているのは、ミネラルウォーターと少しのチーズ。
これでは、とりあえずあるものを食べようと思っても無理だろう。
望美は何も取り出さないまま、ぱたんと冷蔵庫を閉じた。
そのまま冷蔵庫のドアにもたれかかって、望美ははぁ……と天を仰いだ。
「……あれは反則だよ…」
小さく口の中で呟いて、望美はそっと目を閉じた。
『オレには望美しか頭に浮かばなかった』
勘違いしてしまいそうだ。
ヒノエが、本当に自分を好きなのだと……。
そんなことがあるはずない。
ヒノエは、望美が珍しいだけなのだ。
普通の高校生の望美が。
ヒノエの甘い言葉に心底困る望美が。
きっと面白いだけなのだ。
彼はゲームのように言う。
「オレを好きになれ」と。
じゃあ、望美がヒノエを好きになった後は?
「オレの女になれ」と言うけれど、ヒノエがどうしてそれを望んでいるのか。
ヒノエが望美を、本当はどう想っているのか…。
彼は何一つ語ろうとはしない。
ただいつも魅力的に笑って、望美の心を奪おうとするだけ。
ヒノエの本心がどこにあるのか。
ヒノエと出逢ってもうすぐ一年。
あの時よりも、ずっと縮まった二人の距離。
けれど、未だに望美はヒノエの真意がわからない…。
そしてそれ以上にわからないのは、自分自身の心……。
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