「はい、どうぞ」
 テーブルの上に置かれたのは、あつあつのうどん。
 望美が家からこっそり持ってきていた玉子やねぎを入れたごく普通のうどん。
 ヒノエはゆっくり辛そうにソファから身体を起こした。
 望美は味は保証しないよ?なんて、つっけんどんに言いながら、ミネラルウォーターをグラスに注いだ。
「ありがとう…」
 ヒノエの口元に、柔らかい笑みが浮かぶ。
 望美は照れくさそうにヒノエの礼を受け、彼が箸を手に取るのを待って口を開いた。
「ゆっくり食べてて。私、ちょっと買い物行って来るね」
「買い物?」
 何故?とヒノエが首を傾げる。
 すると望美が、呆れきった顔で溜息を吐いてみせた。
「ヒノエくんの部屋、何も無いじゃない。お水以外、食べるものなんてまともにないし。だからちょっとした食料とスポーツドリンク。熱高いみたいだし、お水よりいいらしいから」
 望美の指摘で思い当たったのか、ヒノエが申し訳なさそうに顔を顰めた。
「日頃、ここは寝に帰るだけだからさ。……ごめん、望美に甘えすぎだね」
「いいよ、困った時はお互い様。ちゃんと食べてお薬飲んでね。行ってきます」
「ああ、ちょっと待って…」
 立ち上がろうとした望美を、ヒノエが引き止める。
 望美は膝立ちの姿勢で、ヒノエを見返した。
「何?」
「そこのキャビネットの引き出し」
「引き出し?これ?」
 ヒノエが指し示したと思われる場所に、望美が手をかける。
「違う、右の…。そこそこ、開けて」
 ヒノエの指示を追いかけて彷徨った手が、一つの引き出しを恐る恐る引っ張る。
 そこには少し乱雑に、生活に必要な電池などの小物が入れられていた。
「その中、探して鍵持って行って」
「は?」
「この部屋の鍵。ちょっと玄関まで行くの無理だからさ。それに薬飲んだら、たぶんオレ寝ると思う。ごめん…」
「あ、うん。そうだね。え〜っと、これかな?」
 望美が摘み上げた銀色の光。
 ヒノエがそれだよ、と笑ったので、望美はそれを借りて買い物に出た。
  






 慣れない土地で、ヒノエの部屋の近くにあるお店が分からないから、望美は来る時に通った駅の傍の店に足を運んだ。
 その店で飲み物とフルーツ、そして保存が効いて簡単に出来るレトルト食品を何品か買って往復したら、1時間近くかかってしまった。
 





 きっとヒノエはもう寝ているだろうと、望美はインターフォンを使わずに、さっき借りた鍵でそっと部屋のドアを開けた。






 けれど部屋に入ると予想に反して、人の動く気配がリビングから感じられた。
 ヒノエはまだ起きていて寝室に行ってないのだろうか?それともあのままソファで寝てしまったのだろうか?
 望美はスリッパを履くと、ぱたぱたと急ぎ足でリビングに向かった。
「ヒノエくん?寝なかったの?」
 そう声を掛けながらリビングのドアを開けた望美は、荷物を持ったままぴたりと固まってしまった。
 





「おや?」
 リビングの真ん中で、携帯電話を片手に振り向いたのはこの部屋の主ではなかったからだった。






 金に近い茶色の長い髪を背中でゆるりと束ねた長身の男が、望美の姿を認めてゆっくりと体ごと振り返る。
 そしてリビングの入り口に立つ望美の姿を認めたとたん、彼は少し驚いて眉を上げたが、次の瞬間には面白そうに目を細めた。
「…弁慶さん…」
 リビングでしていた人の気配は、グリフォンの片割れである弁慶のものだった。
 予想外の人物の登場に、望美は荷物を持ったまま呆然と彼を見つめた。
 望美と弁慶はお互い驚いて言葉を失っていたが、先にいつもの調子を取り戻したのは弁慶だった。
「望美さん、どうして君がここに?」
 ぱちりと音をさせて携帯を閉じたその男は、探るような視線を望美に向けながら微笑んだ。
「え、あ、ヒノエくんから連絡が……」
 望美が動揺しながら答えた短い言葉だけですべてを理解したのだろう。
 弁慶はその柳眉を僅かに寄せた。
「そうですか……。油断も隙もない…」
「え?」
 独り言に近い最後の言葉は、弁慶の声が小さすぎて望美の耳には届かなかった。
 彼が何を言ったのか訝しげに聞き返す望美へ、弁慶は彼独特の柔らかい笑顔を見せた。
「いえ、何でもありません。ところで君がここに居るということは、ヒノエがかなり我侭を言って甘えたようですね…。お世話になりました」
 自分よりもずっと年上の弁慶に頭を下げられ、びっくりした望美が慌てふためき、それを否定するように胸の前で手を振った。
「そんな…。私は別に…。あ、あの、ヒノエくんは?」
「ここで眠りかけていたので、ベッドに追い立てました。あの子は熱を出すと長引くから、世話がかかります…」
 深々と溜息を吐きながら、ヒノエの事をまるで子供のように扱う弁慶がおかしくて、望美はついつい笑ってしまった。
「ふふ、弁慶さん、まるでお兄さんみたい…」
「そうですね……。お兄さんではありませんが、似たようなものかな?」
「え?」
 相方ではなくて、お兄さん?
 意外な答えが返ってきて、望美は不思議そうに首を傾げた。
 すると弁慶は種明かしをするように、悪戯っぽく微笑み声を潜めて告げた。
「実は秘密にしていますが、ヒノエは僕の兄の息子なんですよ」
「え?え?」
 兄の息子?
 にこにこと笑っている弁慶を凝視して、突然与えられた衝撃の情報を頭のなかで整理して…。
 その事実が、ゆっくりと構築されていき……。
 ええ!?と大きな声を上げた。
「じゃ、じゃあ、弁慶さんってヒノエくんのっ!」
 その先は言えなかった。
 弁慶がそっと指先で、望美の唇を封じたからだった。
「その言葉は嫌いなので、口にしないでもらえますか?」
 優しげに微笑んでいるのに、どうしてこんなに迫力があるのだろう。
 綺麗で優しい天上の微笑み。
 でも、絶対、目が笑ってない。
「……知らなかった…」
「当然でしょう。ヒノエと僕の血縁関係は、トップシークレットです。事務所でもほとんど知る者はいない」
「どうして?」
「嫌だからですよ。『叔父さん』なんて呼ばれたら気持ち悪い」
 心底嫌なのか、弁慶が見せたしかめっ面が珍しくて、望美はついつい笑ってしまった。
「私に言っていいんですか?」
「君はしゃべらないでしょう?」
「信頼、してくれてるんですか?」
「僕は、自分の勘を信じているだけですよ。君はそんな子じゃないとね。そうじゃなければ、ヒノエも君をここまで呼び出したりしない」
「………」
 信頼していてる。
 憧れのアーティストの弁慶にそう言い切られ、望美はどう答えていいか分からず沈黙してしまう。
 そんな戸惑いを分かっているのか、弁慶は腕に巻いた時計を見ると、胸元に引っ掛けてあったサングラスを手に取った。
「さて、僕は仕事に戻ります。君は?」
「え?あ、私ももうすぐ帰ります。ヒノエくんも休んだみたいだし、約束もあるから……」
「そうですか…。望美さんには、ずいぶんご迷惑をおかけしたようですね」
「いえ、困った時はお互い様ですから…」
「そんなことを言ったら、ヒノエが付け上がるだけです。また同じようなことがあったら、適当にあしらってかまいませんよ」
 にっこりと微笑む弁慶は、何故か無敵な気がする。
「……適当?」
「放っておいても死にはしませんよ」
「…………」
 優しい笑顔の弁慶から発せられた辛辣な言葉に驚いて、望美はただ大きな瞳で彼を見返すだけだった。

「おい、いつまでいるんだよ」
 突然、苛立たしげな声が響いたかと思うと、仏頂面のヒノエがゆっくりと部屋に入ってきた。
 弁慶が今気づいたとばかりに、大げさな仕草で肩をすくめて見せた。
「おや?まだ起きてましたか?」
「望美が戻ってきた音がしたからな」
「ヒノエくん、大丈夫なの?」
「さっき薬飲んだから、もうすぐ効いてくると思う。……ところであんた、いつまでいる気だよ?」
「……それが、かわいい甥を心配して来た僕に言う言葉ですか?」
 弁慶の言葉に、一瞬目を見開いたヒノエは、すぐに視線をそらして呟いた。
「…………嘘くせえ」
「では、僕はこれで。望美さん、君も早めにお帰りなさい。…危ないですから」
「はい?」
「ヒノエが一番危険ですよ」
「ええ?!」
「早く行けよ!」
 弁慶はヒノエの憎まれ口を背に受け、笑いながら部屋を出て行った。







「ヒノエくん、起きて大丈夫?」
「ああ……。くそ、あの野郎……」
 再び、ヒノエがソファーに身を投げ出す。
 背もたれに身体を反らせるようにして預け、薄く開いた目で望美を流し見た。






「な、何?」
 物言いたげな視線を受け、思わず望美はたじろいでしまった。
 ヒノエは深く息を吐き、何度か瞬きを繰り返してから口を開いた。
「あいつが言ったの?」
「へ?何を?」
「オレとあいつの関係…」
「え?えっと……、弁慶さんの甥ってこと?」
 弁慶が『叔父さん』という言葉を嫌ったため、あえて望美はヒノエを『甥』と呼んだ。
 すると今度はヒノエがものすごく嫌そうに顔を顰めたのだ。
「オレはオレだ」
「え?」
「オレは『弁慶の甥』じゃない。オレはオレだ」
「………」
 自分に言い聞かせるように呟くヒノエの声を聞きながら、望美は漠然と親戚関係を嫌がっているのは弁慶ではなくヒノエなのではないかと感じた。
『叔父さん』と呼ばれるのが嫌だからと、おどけて見せた弁慶。
 吐き捨てるように『弁慶の甥』じゃないと言うヒノエ。






 彼らの関係を隠したがっているのは、きっとヒノエだ。
 





 唯の『ヒノエ』ではなく、『弁慶の甥』と呼ばれることに嫌悪感と恐れを抱いている…。
 血縁というだけで、天才ギタリスト弁慶の名が付いて回ることをヒノエは嫌がっているのだろうか?
 ヒノエのたった一言。
 でもその一言に、ヒノエの苦悩が込められているようで、望美は何も言えなかった。







「望美…」
 立ちすくんだままの望美へ、ヒノエが手を差し延べる。
 望美はそれに誘われるまま、素直にヒノエの横に腰をおろした。
 ソファーに座ると同時に床へ置いたレジ袋が、ガサリと耳障りな音をたてる。
「今日は、ごめんな…」
 殊勝な態度のヒノエに、望美は思わず苦笑した。
「……どうしたの?私を強引に呼び出したヒノエくんとは思えないよ?」
「…約束」
「ん?」
「今日、約束があったんだろ?」
「…聞いてたんだ?」
「聞こえてきた」
「大丈夫だよ。でも、もうすぐ帰るけどね…」
「待ち合わせ?」
「うん。見たい映画、今日までなんだ。ずっと前から約束したし……。ごめんね」
 病人を置いて行くのは気がひけるが、このままずっとここにいるわけにも行かない。
 ヒノエには悪いが、望美は朔との約束に向かうつもりだった。
「……男?」
「は?」
 望不貞腐れたようなヒノエにぼそぼそと問われたが、内容が聞き取りにくくて再度聞きなおす。
 するとヒノエは深呼吸を一つすると、ちらりと望美を流し見た。
「男と待ち合わせ?」
「まさか!女友達だよ」
「そう…。よかった……」
 ふっとヒノエが安心したように笑うと、そのまま望美の肩にことりと頭を乗せた。
「ヒノエくん?身体、辛いんじゃない?」
 服の布地を通してもヒノエの高い体温が感じられて、望美は心配そうにヒノエの顔を覗きこんだ。
「ん…。大丈夫」
 ヒノエは微笑を浮かべてそう言いながらも、少しだるそうに目を閉じる。
 いつもよりも早くて浅い呼吸。
 望美はそっと手を伸ばして、ヒノエの額に手を置いた。
「熱、下がってないよ。ベッドに横になったほうがいいんじゃない?」
「もうすぐ薬が効くから」







 時間的に、そろそろここを出なければ約束に間に合わないのに。
 望美に甘えかかって無防備な姿を見せるヒノエを置いて行けなくて…。
「ヒノエくん…。ここで寝ちゃダメだよ」
 ヒノエは望美の肩で眠りに落ちようとしてた。
 さらさらのヒノエの髪が、望美の首筋をくすぐる。







 いつも自信に満ち溢れて輝いているヒノエとは違う、弱った姿。
 その姿に愛しさを感じるのは何故だろう?







「ヒノエくん?」
 顔色が悪く、きつそうに眉を顰めてうとうとしているヒノエを無下に起こせなくて、望美は待ち合わせの時間を気にしつつもその場から動くことが出来なかった。










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