好きになる前に離れてしまおう……。
自惚れたらダメだから、勘違いしたらダメだから、まだ憧れだった頃の距離を保とう。
好きになって振られたら、きっとショックで立ち直れないから……。
その前に、離れてしまおう……。
あの朝、ヒノエと楽しげに話す彼と同じ高校の女生徒を目にした時、望美は夢から覚める思いをした。
甘い甘い優しい夢……。
助けてもらったあの日から、電車の中でヒノエが望美の傍にいるのは当たり前になった。
まるで騎士に守られているお姫様のように、ヒノエは望美が嫌な思いをしないように注意を払ってくれていた。
そんなヒノエが望美にとって特別な存在になるのには時間はかからなかった。
でもヒノエは望美の名前さえ知らない。
一緒に電車に乗り合わせるけれど、ヒノエから名前を聞かれたことも、ましてや呼ばれたこともなかった。
それに気づいたのは、ヒノエが女生徒の名を呼んだ瞬間だった。
その時、望美は夢から覚めた。
ヒノエと自分は別に何の関係も無い。
ヒノエは優しいから、一度助けた女の子を無碍に出来ないだけだ。
それを特別だと勘違いしていたのは自分。
やっとその自惚れに気がついた。
望美はヒノエの名前を知ってた。
だから聞く必要はなかった。
当たり前のように、ヒノエと挨拶を交わしてただ黙って傍にいる。
でも望美にとってその時間は特別で大切なものだった。
しかしヒノエには、きっと望美はただ一緒の電車に乗り合わせた他校の女生徒に過ぎなかった。
ヒノエが望美に声をかけるのは、挨拶だけ。
それが特別だと思っていた。
あの日、ヒノエと同じ学校の生徒が現れるまでは。
望美は次の日から、朝乗る電車を変えた。
二本前の電車に乗ることにしたのだ。
隣の家の年下の幼馴染と同じくらいの時間に家を出て、同じ電車に乗る。
30分ほど学校に着くのは早くなるけれど、教室でゆっくり出来る。友達とのおしゃべりも…。
何も無い平穏な日々。
毎朝心臓が破裂しそうなほど、どきどきしていたのが嘘みたいだ。
望美はヒノエと言葉を交わす前の、穏やかな日常を取り戻していた。
電車を変えて二週間。
望美はヒノエと過ごした日々を忘れようとしていた。
過ごした日々なんてヒノエからしたら大げさだろう。
ほんのちょっと、二週間くらい電車の中で傍にいただけなのだから。
でも望美にはきらめき輝く特別な二週間だった。
望美は夕日に染まる空を電車の窓越しに見上げ、淡く切なく笑った。
初恋は実らないものだと、自分自身に言い聞かせながら……。
「望美?最近、元気ないね。どうしたの?」
休み時間、机に頬杖をついてぼんやりと外を見ていた望美の顔を覗きこむようにして、クラスメイトの一人が声を掛けてきた。
望美はゆっくりと室内へ目を向ける。
「そんなことないよ」
そう言って微笑む顔は憂いに満ちていて、声を掛けた少女はふう…と溜息を零した。
「そんなことあるよ。なんか心ここにあらずってカンジ。ねぇ、もしかして恋わずらい?」
鋭い指摘に、望美の息が一瞬詰まる。
その僅かな動揺を見逃さなかった少女は、悪戯っぽい笑みを見せた。
「やっぱり。ねぇねぇ、どんな人なの?」
「そんなんじゃないって」
「ちっちっちっ。この私に嘘をつこうなんて百万年早いわ。特に恋愛に関するものはね」
おどけて顔の前で人差し指を振ってみせる友達に、望美が思わず苦笑する。
「するどいなぁ」
「で?どんな人なの?告白は?」
「告白なんて出来るわけ無いよ。向こうは私を知らないんだし」
「え?もしかして一目惚れとか?」
「違うって。でもモテる人だから……」
「だから諦めちゃうんだ?」
「だって、元カノとか告白してる子とか一杯いるみたいなんだもん。私の入り込む余地なんて無いの」
どう足掻いたって無理なのよと、心の中で呟いて溜息一つ。
でもそれを聞いた彼女は、何言ってるのよ!と望美の肩を指先で押した。
「もったいない!」
「え?」
「勿体無いよ、望美!絶対告白するべき!」
彼女は望美の目を見つめ、言い聞かせるように力を込めた。
「勿体無い?」
「そう。そして可哀想だよ、自分の気持ちがね」
「自分の気持ち?……」
望美が不思議そうに問い返すと、友達は真摯な瞳でひとつ頷いた。
「臆病になるのは簡単かもしれないけど、それってきっといつまでも好きだって気持ちが残っちゃうよ。あの時ああしておけばよかったとか後悔しちゃうの」
「後悔なんてしないよ…」
「ホントに?だったら、望美はどうしてそんな物憂げな顔をしてるの?」
「……」
心配そうな顔で覗きこまれれば、望美は苦く笑うしかなかった。
今はまだ、後悔なんかじゃないけれど。
行き場のない恋心は、いつまでも胸の奥で苦しんでいる。
「自分の気持ちをちゃんと言葉に出したほうがいいって。そのほうが望美らしいよ」
「私らしい?」
「うん。望美はいつも前向きじゃない。この前は失恋したあたしを慰めてくれた。あたしは振られちゃったけど、告白してすっきりしたの。想いは通じなくて切なかったけど、告白したことは後悔してないもん」
「告白しなきゃ後悔するのかな?」
「あたしなら後悔する。誰かと一緒にいる好きな人を見た時、『あの時、告白してればもしかしたら』って思っちゃう。黙ってたらうまくいくものも上手くいかないんだよ?」
「ふられちゃったら?」
「その時はその時。思いっきり泣けばいいの。泣くならあたしがちゃんと慰めてあげるから」
「……ケーキと紅茶付で?」
少しだけおどけて見せると、望美にアドバイスをくれた少女は任せといてと胸を叩いた。
「でもうまくいったら、あたしにケーキセット奢ってよ」
「わかった。……勇気、出してみようかな」
「好きなら、バカになっちゃえ」
望美は優しい友人の励ましに、そっと微笑んで深く頷いた。
電車の中から見る風景。
別にいつもと変わりないのに、望美の気持ち一つで色々な表情を見せてくれる。
今朝までの沈み込んだ気分ではなく、今は心が軽い。
優しい友人が教えてくれた自分の気持ちを伝える大切さ。
彼を好きになった気持ちに嘘は無いから。
この気持ちをそっと彼に伝えよう。
届かなくてもいい。
受け止めてもらえなくてもいい。
だた望美の想いを、少しでも知ってほしかった。
明日はまたあの電車に乗ろう。
そして彼を見つけたら笑って挨拶を交わして。
直接告白なんて出来そうに無いから、一言だけでもメッセージを渡せたら。
今夜、帰ったら手紙を書こう。
電車で助けられたお礼と、今の自分の気持ちを。
望美の気持ちはまるで今すぐ告白するかのように高揚している。
帰ったらすぐに手紙を書いて封をしよう。
そしてどんなに恥ずかしくても、挨拶を交わせたら彼に渡そう。
それから後のことは、また考えればいい。
この大きくなった恋心を伝えられればそれで……。
味気ない車内アナウンスが、望美の家のある駅名を告げた。
そして電車が緩やかにスピードを落としていく。
望美は椅子から立ち上がって、ドアが開くと同時にホームへ降り立った。
帰りがけに便箋を買おう。
彼に好まれるような綺麗な便箋を。
望美はいろいろ考えながらいつものごとくバッグから定期を取り出し、改札に目を向けて息を呑んだ。
視線の先にヒノエが、いた。
改札横の壁にもたれて腕を組んだヒノエが、その整った顔を不機嫌に染め、ひたと望美を睨んでいる。
突然、目の前に現れたヒノエに目を奪われ、立ち止まってしまった望美の横を降車した客が迷惑そうに通り過ぎていく。
なぜ彼はここにいるのだろう?
ヒノエが使う駅は、ここよりまだ先のはず……。
だって朝はいつも望美より先に電車の中にいたから。
誰かを待っているの?
でもだったらどうしてその強い眼差しで真っ直ぐ望美を射抜く?
望美はただ呆然と自分を睨む男を見つめていた。
ヒノエはふと視線を落としてゆっくりと瞬きし、もたれていた壁から身体を起こした。
そして再び、鋭く望美を射竦めまっすぐに歩いてくる。
望美は動くことが出来ずに、近づくヒノエを見ていた。
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