ヒノエは望美の前に立つと、口を開かぬままその細い手首を掴んだ。
「あの…」
 ヒノエの唐突な行動が分からない。
 彼が何をしたいのか、何が目的なのか。
 そしてどうしてここにいるのか……。






 
 望美は戸惑いながらも掴まれた手を振り解こうとして、僅かな抵抗を見せた。
 しかしヒノエは黙ったまま、その抵抗をものともせず足早に歩きだした。
「きゃっ」
 いきなり強く引っ張られて、望美がたたらを踏む。
 だがヒノエはちらりと望美を流し見て、すぐに体勢を立て直したのを確認すると、そのままかまわず歩を進めた。
 躊躇う望美の小さな抵抗など許さず、階段を昇り通路を渡り階段を降りる。
 望美の降車したホームと反対側のホーム。
 ヒノエは何を考えているのだろう。
 望美はなす術も無くヒノエの強い力に引きずられるだけだ。
 そんな二人の横に、電車が滑り込んでくる。
 望美とヒノエ、それぞれの学校のある駅へと向かう電車だ。
 






 ヒノエは軽い空気音と共に開いたドアから、降車客が吐き出されるのを待って電車に乗り込んだ。
 そして望美も手を引かれるまま連れて入られそうになったのだが……。
「離して下さい!藤原先輩!!」
 望美は声を荒げて、力一杯ヒノエを手を振り解いた。
 ヒノエに掴まれていた手首に残る、彼の体温。
 望美はその手を胸の前で握り、望美を振り返ったヒノエを睨み付けた。
 戸惑いと恐れと苛立ち。
 それらを混ぜた強い視線を受け、ヒノエは皮肉めいた笑みを浮かべた。
「へぇ……。オレの名前、知ってるんだ?」
 咄嗟に望美の口をついた自分の名を拾って、ヒノエが初めて口を開いた。
 揶揄するような言い方が気に障って、望美はぱっと目を逸らした。
「この路線を使う女子で、先輩を知らない人なんていません」
「……あ、っそ」
 何が気に食わないのか、ヒノエが面白くなさそうに吐き捨てる。
 ホームに発車ベルが鳴り響いた。
「あんたって、いつもこのドアから乗ってたよな」
「え?」
 ベルに掻き消された言葉。
 それを拾おうと顔を上げた瞬間、ヒノエに二の腕を引かれた。
「あ……」
 電車に引き込まれた望美は、勢いでヒノエの胸にぶつかる。
 その後ろで無情にもドアが閉まった。








 かたん……と電車が揺れて、ゆっくりと動き出す。
 ぶつかった勢いのままヒノエの胸に縋るつくような格好になっていた望美は、慌てふためいてヒノエから離れた。
「どういうつもりですか!?」
 まわりに気を遣い声を潜めて、望美はヒノエへ抗議した。
 だがヒノエは外を見たまま、望美に視線を向けない。
 それでも望美の二の腕はヒノエに掴まれたままだった。
「藤原先輩!」
「……最近はいつもこのドアの傍に立っていたよな。でも春はもう少し奥にいた」
「え?」
 ヒノエは何を言っているのだろう?
 そっとヒノエの表情を窺っても、彼の綺麗な横顔からは何もわからなかった。
 それっきり口を閉じたヒノエは、流れていく景色を涼やかな瞳で見つめていた。

 望美はしばらくヒノエの言葉を待っていたが、彼が何かを言う気配を見せないので、諦めの息を吐いて視線を外に向けた。
 残照が空を美しく染め上げている。
 こんな時間に学校へ向かうのは初めてだった。
 隣には望美が想いを寄せているヒノエがいて…。
 まだ彼に掴まれたままの腕が熱い。
 電車はいくつかの駅を通り過ぎ、望美の学校がある駅へと滑り込んだ。
 ヒノエは降りるのだろうか?
 そっと綺麗な横顔をうかがい見ても、ヒノエが動く気配はない。
 静かな表情のその下で、彼はいったい何を考えているのだろう?

 ドアが閉まる。
 この先の駅にはあまり行ったことがなかった。
 望美の通常の行動範囲内には入っていないからだ。
 降りたのは乗り過ごした時ぐらい…。
 見慣れぬ風景を黙って見つめる望美の頬に、不意にヒノエの指先が触れた。
「っ…」
 望美はびくりと体を揺らして、ヒノエを仰ぎ見た。
 電車が駅に停止するため、スピードを緩めていく。
 この駅は、ヒノエが通う学校がある駅のひとつ手前。
 望美の頬に触れ、彼女の意識と視線を自分に向けることに成功した男は、ドアが開くと同時にホームへ飛び降りた。
「藤原先輩!?」
 ヒノエの行動の意図するところがわからない。
 望美はただ戸惑いながら、ヒノエの腕に引きずられていくだけだ。

 ヒノエは黙ったまま、向かい側のホームに停まっていた逆方向の電車に乗り込んだ。
 これは今来た路線を戻るもの。
 ヒノエの行動に何の意味があるのか…。
 車内アナウンスの後、ドアが閉まり電車が動きだす。
「…あの…、先輩?」
 おずおずと問い掛けたら、やっとヒノエが視線をおろしてくれた。
「まだ電車通学に慣れない頃、一度だけ駅で降りられなくて乗り過ごした」
「…え?」
 ヒノエの指摘に望美は瞠目した。
 確かにヒノエが言ったとおり、電車の中の混みように負けて、ひとつだけ駅を乗り過ごしてしまったことがあった。
 でもなぜそれをヒノエが知っている?
 ヒノエは望美の驚きをよそに語り続けた。
「半泣きになってこの駅で駆け降りていったね。そして乗り過ごしてしまった次の日から、あんたは降りやすいこの位置に立つようになった」
「…どう、して…?」
 それはほんの些細な出来事。
 望美には大事件でも、まわりの人にすればただの遅刻だ。
 なのに、どうして……?
「帰りには、ホームで落し物をした人を追いかけて電車に乗れなかったこともある」
「……なんで?」
 驚きに目を瞠り自分を見上げる望美へ、ヒノエは僅かに目を細めた。
「……ずっと見てた。あんたが入学したばかりの頃から。春日望美さん?」
「名前っ…」
 不意に呼ばれた自分の名前。
 望美は驚きすぎて声を失った。
「知ってたよ。……あの日より前から」
 そういって、ヒノエは優しく優しく笑った。















「……どうして…?」
 望美は震える声で、やっと小さく問い返した。
 ヒノエに対して名乗ったことはなかったし、彼から尋ねられたこともなかった。
 それなのに、ヒノエは当たり前のように望美の名を呼んだのだ。
 どこで、何故、望美の名前を知っていたのか……。
 望美が見つめる先で、ヒノエは穏やかに微笑むだけ。








「見ていたからわかったんだ。……あの日、あんたが嫌な思いをしてること」
 それが痴漢にあった時のことを指していると判り、望美の顔が羞恥と忘れたはずの恐怖で強張った。
「あの日から、少しずつオレに近づいてこようとするあんたがかわいくて、毎朝がすごく楽しかった」
「……」
 好きだと自覚した相手から、かわいいなんてストレートに言われ、望美は恥ずかしそうに俯いた。
 さらりと流れ落ちた長い髪から覗く白いうなじを見下ろすヒノエの瞳は、深く優しい光を湛えている。
「だけど、あんたは急にいつもの電車から消えた。……どうして?」
 静かに問われただけだけれど、それには何故か拒否することを許さない響きが含まれているようだった。
 望美は緊張で乾いた唇をきゅっと噛み締めてから、電車の音に掻き消されるような小さな声を発した。
「それは…」
「それは?」
 望美に先を促す声は、どこまでも優しくて容赦が無い。
 望美は無意識に自分の胸元に手をやり、きゅっと制服を握りこんだ。
「よ、用事があったから少し早い電車に乗ったんです…」
「へぇ…。用事?…男と一緒に登校するのが?」
「譲君は幼馴染みで……」
 言い訳じみた答えを返す途中、望美がはっと気づく。
 どうしてヒノエは、望美が譲と一緒にいたことを知っているのだろう?
 望美がヒノエを見上げると、彼は片方の唇を上げて笑った。
「偶然さ。オレも生徒会の用事でこの二三日早く登校し始めたんでね。ホームであんた達を見かけた。この為に今までの電車に乗らなくなったんだと思った」
「ち、違います。明日からはいつもの電車に乗るつもりだったし」
 言いながら、どうして明日にはヒノエが乗っているはずのいつもの電車に戻ろうとしていたか思い出して、再び頬を薄紅に染める。
 こんなに一生懸命言い募っても、ヒノエにはあまり関係ないことなのに。
 でもこうやってヒノエが自ら行動を起こしてくれたのなら、もしかして望美だって少しは期待してもいいのかもしれない。
 望美は見上げていた視線を少し落とし、ヒノエの胸元で揺れるシルバーのアクセサリーを見つめた。







「明日からか……。そりゃ残念」
「え?」
 ぽつりと落とされた呟きを拾って、望美が顔を跳ね上げる。
 ヒノエは吐息で苦笑して肩を竦めた。
「オレ、まだ早く登校しなきゃならないんだよね。いつもの時間に戻れるのは来週くらいかな?」
「……そうなんですか…」
「だからさ、また来週会おう。いつもの時間に…」
「え…?それって?」
「ほら、駅に着いたよ」
 ヒノエに言われて外に顔を向ければ、見慣れた駅構内の風景。
 さっき一度降りた時よりも、夕闇の気配が近づいて来ている。
 少々大きな音と共に開いたドアから、望美はゆっくりと名残惜しげにホームへ降り立った。
 電車の中と外。
 距離的には近いのに、電車内で話していた時よりも遠く感じるのは何故だろう?
 ヒノエを見上げれば、彼はただ優しく微笑むだけ。
 何故、彼はこの駅にいたのか。
 どうして、望美を電車に引っ張り込んだのか。
 話がしたいだけなら、この場でよかったはず。
 それなのにどうして?
 





 問いかけたいけれど、望美に向けられた柔らかな笑みに何も聞けなくなる。
 




 何も言えないまま、二人を隔てるドアが閉まる。
 電車が動き出す瞬間、ガラス越しのヒノエが望美を指差し、ゆっくり唇を一音一音区切るように動かした。
 





「っ!?」
 望美の呼吸が止まる。
 ヒノエはそんな望美へ鮮やかに微笑んで手を振った。







 ヒノエが望美に向けた言葉の真実はわからない。
 ただ、望美の目に聞こえた言葉はひとつだけ。
 それは望美の恋心が見せた悪戯?
 






 あなたが残した本当の言葉は何ですか?







 望美は激しく高鳴る胸をぎゅっと押さえた。








 ……手紙を書こう。
 来週会えるその時までに。
 自分自身の気持ちを込めて。







 彼への想いを手紙に綴ろう……。











<終>










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