「加藤さんの本日の治療費は2430円になります」
「はいはい」
 包丁で手を切ったという主婦は、処置を施された指を庇いながら財布からお金を取り出して、カウンターの上のトレーに置いた。
 それをまだ少女のようなあどけなさの抜けない受付嬢が受け取り、すぐにおつりと紙を一枚差し出してきた。
「70円のおつりですね。それとこれは処方箋ですので、薬局でお薬を頂いて帰ってください」
「薬局は、ここの前にある薬局じゃなくてもいいのかしら?」
 主婦の素朴な質問に、可愛らしい受付嬢がにっこりと頷いた。
「はい、かまいませんよ。処方箋を受け付けているところなら、ご都合の良いところへお持ち下さい」
 意外と知られていないようだが、処方箋はどこへ持って行ってもいいのである。そして医療機関も特定の薬局へ誘導してはいけないのだ。
 せいぜい「この薬局が一番近いです」くらいしか患者には案内できない。「この薬局に行ってください」とは言えないのだった。
 主婦は財布をバックに入れ、差し出された処方箋を受け取った。
「だったら、家の近くでもいいわね・・・。じゃあ、お世話になりました」
「お大事に〜」
 処方箋を手に、ペコリと頭を下げた主婦を受付嬢が笑顔で見送った。
 そして自動扉が閉まったとたん・・・。
「やったー!!お昼だー!!!」
 あくまで小声で、でも人が居ないのをいいことに、彼女は両手は高々と上げて全身で喜びを表したのだった。






 高倉花梨がこの診療所に勤め始めたのは、一ヶ月半前からだ。
 医療事務の資格を取り、初めて就職したのがここである。
 この医院の事務員が、出産の為に辞めるとかで空きが出来たところに運良く就職できた。
 前任者は、つい先日まで花梨に仕事を引き継ぐついでに一緒に働いていたのだが、今は花梨一人になってしまった。
 でもこの医院の看護士達も、慣れない花梨に優しく、ひとりでもなんとかやっていけそうな気がしていた。
 ただひとつの難点をのぞけば・・・・・・。






 Staff onlyの扉をくぐると、左手に2部屋休憩室がある。男女に分かれた部屋だ。そして右手には小さい給湯室。
 ここにレンジや冷蔵庫もある。
 そして突き当たりに、もうひとつ扉があった。
 その扉の向こうは、院長のプライベートゾーン、つまり自宅に繋がっている。花梨たちスタッフが、どんな緊急時にも開けることを許されていない扉だ。
 この扉を開けて向こうへ足を踏み入れることは、絶対にしてはいけない。そのことを花梨は初めて出勤した日に、前任者と看護士長から、しつこいほど言って聞かされた。
 とにかく院長を怒らせてはいけないと・・・・。以前、好奇心に負けて扉を開けたスタッフもいたらしいが・・・・、その末路を知る者は誰も居なかった。
 そう、勇気あるスタッフは、もうここにいない。
 そしてひっそりと、嘘か真か分からぬ伝説だけが、現在のスタッフに語り継がれていくのだ。
 花梨はその伝説を教えてもらった瞬間、この扉のドアノブにも触らぬことを心に誓ったのだった。






「おっべんと、おっべんと♪」
 午前のカルテの整理をして、午後の仕事の用意を終えた花梨は、給湯室のレンジで作ってきたお弁当を温めていた。
 オレンジ色の光の中で、くるくると回る容器。それを見つめながら花梨が両手で握った箸箱を、小さく歌いつつ胸の前で左右に振る。
 看護士達も、お茶を入れたりお昼を買いに行ったりとバタバタしている。
 やがて軽い音がして、弁当が温まった事をレンジが知らせてくれる。
 花梨はニコニコとうれしそうに、レンジから容器を取り出した。そしてそれを抱えて、休憩室に行くべく弾むように廊下へ出た。
 その瞬間、腕にあった温かい重みが、ふっと消える。ふわりと浮かぶお弁当。
「あー!!!」
「ごちそうさま」
 そんな言葉を残し、花梨の視界を横切っていった長身の影。
 我に返った花梨がお弁当を追って、もとい、お弁当を奪った犯人を追って必死に手を伸ばした。
 しかし・・・。花梨の手はすばやく身を翻した犯人の白衣にも、長い髪にもあと数ミリ届かなかった。
 バタン!
 伸ばした指の先で、無常にもその扉は固く閉じてしまったのだった。
「あぁぁぁぁぁ・・・、私のおべんと〜!」
 絶対に近づかないと誓ったはずの扉の前で、花梨はヘナヘナと崩れ落ち膝をついた。
「ドロボー!!返してよー!!私のお弁当−−−!!」
 ドンドンを扉を叩いたって、ここは2時になるまで開きはしない。
 そして盗まれたお弁当が、2時まで無事なはずはなかった。
「うえ〜ん、返せ〜、私の春巻き〜!!」
「またやられたの?」
 上から降ってきた、あきれ返ったような声。
 花梨は半泣きで、喉を反らして声の主を仰ぎ見た。
「千歳〜」
 花梨に声を掛けたのは、ここの看護士の中で一番若い千歳だった。
 女の花梨でも、うっとりとしてしまうほどの美少女である。
 床に座り込みうるうると自分に助けを求める花梨に、千歳は深く溜息をついた。
「あれほど気をつけなさいよって言ってるのに・・・・。学習能力ないんじゃないの?」
「だってだってだって〜」
「これで何回目?お弁当盗られたの」
「うぅぅ・・・、8回目です・・・」
「まったく、もう少し気をつけなさいよ。でも院長も大人気ないわね。よほど花梨のお弁当が気に入ったのかしら?」
「昨日の夕飯の残りなのに〜」
「それでもよ。差し入れとか絶対食べない人なんだけど、花梨のお弁当だけは盗っていくのよね。しかもちゃんと花梨が温め終わったのを見澄まして盗っていくのが、なかなか・・・」
「感心しないでよ!私のお昼〜」
 お弁当を盗られたショックと、空腹で花梨はそこから立ち上がれない。
 すでに何度もこの状況に遭遇しているスタッフ達は、クスクスと笑いながら休憩室に入っていった。
 千歳は自分が買ったものが入っているコンビニの袋を、軽く掲げて見せた。
「勘が当たってよかったわ。今日も花梨がやられそうな気がしたから、サンドウィッチ買って来たの」
「えっ!!」
 サンドウィッチという言葉に、花梨の瞳がキラキラと驚喜に輝き始めた。千歳が花梨に向って、悪戯っぽくウインクする。
「さすがでしょ?花梨の好きなツナサンドだよ」
「千歳ー!!愛してる!!」
「はいはい、ほら立って!一緒に食べよ?」
「ありがと〜」
 花梨は千歳の腕にぶら下がるようにして、休憩室へと入っていったのだった。






「あ〜、落ち着いた〜。あ、お金は後で払うからね」
「いいよ、いつでも。でも花梨、もう少し注意した方がいいわよ、院長には」
「う〜ん、注意してるはずなんだけど、ついついご飯に気持ちが行ってしまって・・・。院長も気配を殺すのが上手いし」
「気配殺すの上手くてどうするのよ、あの医者は!・・・で、このまま泣き寝入りするつもり?」
 千歳の言葉に、花梨がニヤリと口の端を上げた。
「そんなことするもんですか!ふふふ・・・・。打倒!翡翠院長!!」
 グッと握り締めた拳を掲げ、花梨は高らかと宣誓したのだった。






 花梨が「打倒!翡翠院長!!」を誓ってから数日後・・・・。
「わ〜い、おべんと、おべんと♪」
 いつもと変わらず、花梨はレンジの前で手作り弁当が温まるのを、今か今かと待っていた。
 軽やかな音。花梨は中から弁当を取り出した。そして休憩室へ・・・・。
「あっ!」
「いただくよ」
「あー!!!」
 花梨の目の前を、すーっと弁当箱が異動していく。
 その向こうにあるのは、若き院長、翡翠の不敵な笑み。
「待ってー!!」
 しかし今回も花梨の鼻先で、例のドアが閉まってしまう。
 花梨は、翡翠が消えた扉をひとつ叩いて、苛立ちをぶつけた。
「またなの?花梨」
 後から聞こえたのは、いつものごとく千歳の声。
 しかし花梨だけは、いつもと違った。
 花梨は、ふふふ・・・と不気味な笑いを漏らし、ゆっくりと振り返った。
「あっまーい!!」
「花梨?」
 不思議そうに首を傾げる千歳に向って、弁当の入っていた手提げバックから花梨が取り出したもの。
 それは新たなお弁当箱だった。
「あれはダミーだよん♪これが本物〜」
「・・・・ダミー・・・」
「ダミーって言っても食べられるけどね。さ〜て、温めて食べよーっと!」
 スキップしながら給湯室に入っていく花梨を見送りながら、千歳は軽いめまいを覚えた。
「ダミーを別に作るくらいなら、同じお弁当をもうひとつ作った方が早いんじゃないの?」
 しかしその呟きは、嬉々としてお弁当を温めている花梨に届くことはなかった。






「おや?これは・・・」
 いつものごとく、通りがかりに略奪した獲物の蓋を開けた翡翠は、あらわれたものに間抜けな声をだしてしまった。
 女の子らしいお弁当箱の中のものに、翡翠がクスリと笑みを零す。
 毎回、彩りを考えた配置で煮物や揚げ物が入っているお弁当が、今日は黒く染まっている。
 中に入っていたのは、海苔に覆われた3つの爆弾おにぎり。しかもご丁寧におにぎりにはデンブで書いたメッセージ付き。
「ハズレ・・・ねぇ・・・」
 いつもいつも盗られるだけじゃない、ということか。
 小さな少女の思わぬ反撃に、翡翠の顔に滲むように笑みが広がった。
 弁当を取り上げる瞬間の花梨の反応が面白くて、いつもついつい手が出てしまうのだ。そして意外にも花梨の弁当は、味にうるさい翡翠の舌に合うのだ。
 だが今回は、まんまと花梨の策にはまったらしい。
 しかしハズレとしながらも、おにぎりの横にはつけものと玉子焼き、そして小さな鳥のから揚げ。おにぎりを割ってみれば、それぞれに違う具が仕込まれていた。





 
「面白い・・・」
 初めて言葉を交わした時から、あの少女は翡翠の周りにいる女性達とはどこか違うと感じていた。
 翡翠の美貌にも、医者という地位にも媚を売る事無く、そして雇い主の翡翠に食って掛かる気性。
 何もかもが、面白いと思った。
 そして、今回は翡翠を騙すということまでしてくれたのだ。
 それでも、ちゃんと翡翠が食べられるように弁当を作っているところが、またよけいに可愛らしく感じる。





 
 この出来事のせいで、お昼の攻防が激しさを増したことに、花梨はしばらく気付かなかった。
 そしてまた、花梨に対する翡翠の興味が一層深まったのも、このささやかな反抗がきっかけだった・・・・・。







                                 <終>
                                 03.04.13







300hitの譲葉旭さまに捧げます。
って、いつの話だよ!!
ごめんなさい、一年もかかりました(滝汗)
うう〜、まだご訪問くださっているのでしょうか?
お気に召していただけたら幸いです。

お医者様翡翠さんと事務員花梨です。
いかがですか〜?






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打倒!!