ここ最近、毎日キッチンから聞こえるリズミカルな包丁の音。
 お湯が沸く音や、コンロに鍋をセットする音も聞こえてくる。
 これほど部屋のキッチンが賑やかな活気に包まれる事は無かった気がする。
 結婚式用のお金の工面に困っていた事務員に、気まぐれにもちかけたアルバイト話。
 あまり期待はしていなかったが、彼女は仕事が終わると文句も言わずに買い物に行き、雇い主の食事を手際よく作ってテーブルに並べ、さっさと帰っていく。
 基本的に夜は酒を楽しむ雇い主の為、彼女が作るものは酒の肴になるものが多い。
 ご飯は最後に少しだけだ。
 ごく稀に「今日は休肝日にして下さい!」と、彼女が家から作ってきたカレーライスだのご飯物を出される時があるが、彼女が帰った後ツマミ無しで酒だけ飲むので不自由は無い。
 元々、夕食というものをまともに取っていなかったのだから。





 翡翠は自分で、味の好みがうるさいと自覚していた。
 文句を言わずに食べるが、あまり美味しいと思ったことがないのである。
 名だたる料理人の『作品』ならともかく、家庭料理となるとうまいと感じたことは皆無だった。
 まずいわけではないが、可もなく不可もなくどうでもよかった。
 これまで、翡翠に手料理を食べさせた女は数知れず。
 だが、悉くハズレだった。
 世間一般の常識からいえば料理上手な女性でも、翡翠の狭すぎる味の好みには入らなかった。
 眉目秀麗で家事も出来るランクの高い女も多かったが、すべて敗北。
 元々、食事にはそれほど興味の無かった翡翠は、栄養が取れればいいとばかりにモクモクと口に運ぶだけだった。
 それがどうしたことか……。





 
 初めはからかうだけのはずだった。  
 毎回、嬉しそうに手作り弁当をかかえ、はずむように廊下を横切る少女に気まぐれな手が動いただけ。
 宝物のように抱えた弁当を取り上げた瞬間の、少女の表情。
 彼女はまるで大好きなお菓子を取り上げられた幼子のように泣きそうな表情で、次の瞬間には翡翠から弁当を取り戻そうと突進して来たのだ。
 それは翡翠の予想を超える反応だった。
 だが翡翠は恐れを知らない花梨の追捕をあっさりかわし、プライベートゾーンの扉を閉めたらそれが思いっきり大きな音をたて震えた。
 あれは絶対に足蹴りを入れている。それを想像した瞬間、翡翠は思わず失笑してしまった。
 ドアの向こうからは、翡翠に噛み付かんばかりの怒鳴り声と情けない嘆き声が聞こえてくる。
 今まで翡翠が見たことない反応をする花梨。しかもそれを気まぐれに口にした時に初めて感じた翡翠好みの味。
 そのふたつが面白くて、退屈しのぎに何度も花梨の弁当を強奪したものだ。
 そして今は……。






「あ〜っ!またお酒だけ飲んでる!!」
 グラスをゆったりと傾けていた翡翠に、花梨の大きな声が直撃する。
 しかし翡翠は少し唇を上げただけで、かまわずに酒を含んだ。
 すっきりとした辛さが芳醇な香りと共に心地よく喉を喉を滑り落ちる。
「もう!出来上がるまで待って下さいって言ってるのに…」
 すでに聞きなれた小言が今日も繰り返される。
 花梨は翡翠の不健康な飲み方が気に入らないらしい。
 しかしそれは翡翠には大した問題ではないし、花梨の可愛い怒鳴り声も好ましい内のひとつなので、空っぽの腹に酒を流し込むのをやめない。
 だからいつも花梨は雇い主である翡翠を叱っているのだ。
 それが功を奏したことはないけれど……。
「はい、今日のメインは鰈の煮付けです」
 コトリ…と置かれたのは、煮崩れなく綺麗に盛り付けられた鰈。
 そして副菜のお浸しや酢の物が並ぶ。
「ありがとう」
「い〜え、どういたしまして。あ、先生、私この後少し残って保険請求の準備しますから……」
 途切れた花梨の言葉の続きを翡翠が受け継ぐ。
「残業手当を出せ、と?」
「はいっ!よろしくお願いしますねっ!」
 語尾にハートマークが付きそうな程弾んだ声である。
 相変わらずのしっかりぶりに翡翠は苦笑して肩を竦めた。
「どうぞご自由に…」
「は〜いっ!では、これで失礼します。お疲れ様でした〜!!」
 花梨はギャルソンエプロンを取り、クルリと丸めたそれを抱えてペコリと頭を下げた。
「お疲れ」
 翡翠は花梨に労いの言葉を掛けると、いつものようにさっさと部屋を出て行くその背を見送った。






 花梨が帰った後、料理を摘みながらゆっくり時間をかけて酒を飲んでいた翡翠だったが、ふと昼間届いた医学書の事を思い出した。
 気になる事項があって、それを開きたいと思うが見回す限りの場所にはない。
 午後の診療の傍らパラパラと捲っていたのだが、どうやらそのまま診察室に忘れてきたらしい。
 取りに戻るのも面倒だと、そのままグラスを傾けていたのだが、一度気になるとどうにも頭から離れない。
 翡翠はやれやれと溜息を吐きながら腰を上げた。





 病床はあるが入院患者を基本的に受け付けていない医院内の夜は人気がない。
 翡翠はまっすぐに診察室に向かった。
 目的の本は翡翠の記憶どおり、診察室の机の隅にあった。
「やれやれ」
 本を手に取り、パラリとページを捲りながら部屋へ戻ろうと診察室から出たその目の端に、受付から漏れる明かりに気付いた。
(そういえば、レセプト準備をすると言っていたか……)
 翡翠は通りかかるついでと、気まぐれに受付を覗いた。
 そこにはパソコンに向かって仕事をする花梨の後姿があった。
 まだ少女と呼んでもおかしくないくらい幼さの残った彼女。
 ここに雇ってまだそれほど長くはないが、花梨はかなりの出来のよい働き者である。
 そしてこの医院で一番の怖いもの知らずでもあった。
「ん?」
 翡翠の視線の先で、パコパコと必要事項を打ち込んでいた手が止まり、花梨の小さな首が不思議そうに傾く。そしてゆっくりと椅子を回し後を振り返った。
「んんっ!?」
 窓口に立っている翡翠を目にし、花梨のくるくるとした大きな瞳が驚きに見開かれる。
 翡翠は振り向いた花梨の姿を見て、思わず呆れ果てて息を吐いた。
「……恥じらいは?」
「……ありまふ…」
 予想通り、花梨の返事は間抜けなものである。
 花梨は、口に銜えていた栄養バーを慌てて押し込んで咀嚼すると、傍らの野菜ジュースで喉の奥に流し込んだ。
「けほっ!」
 しかし慌てていたせいでジュースが変な場所に入り込み、それを排除する咳が出る。
 ケホケホと激しく咳を繰り返す花梨に、翡翠はまたひとつ深い溜息をついて受付の中へと入った。
 そして咳き込みを繰り返し、丸くなった花梨の背を軽く撫でた。
「馬鹿だね。慌てるからだ」
「先、生…の、ケホッ、せい……です」
 苦しくても相変わらずの減らず口。
 翡翠は打って響くその反応に唇を上げた。
「私はただ立っていただけだが?」
「それがっ!ケホ…、びっくりするじゃないですか!」
 咳がようやく収まった花梨は、うっすらと涙で潤んだ瞳で翡翠を睨み付けた。
「行儀の悪い事をしているからだよ」
「……お腹すいたんだもん」
「間食は太るよ?」
 女に最もダメージを食らわせるセリフをサラリと言う翡翠。
 だが花梨はつんっと顔を上げて、にっこりと笑った。
「夕食だから大丈夫です」
「夕食?」
 花梨の答えに翡翠の眉が顰められる。
 パソコンの側にあるのは、花梨が銜えていた栄養バーと野菜ジュースそれだけ。
「……成長しないわけだ」
 しみじみとした小さな呟きは、花梨の勘にさわる。
 花梨はムッとして翡翠を見上げた。
「チビで悪かったですねっ!」
「別に悪くないが?」
「そうやって!人より高いからって馬鹿にしたように見下ろして!!いつか絶対先生より高くなってやる!」
「ほう?」
 無理である。
 だが翡翠はあえて突っ込む事はやめ、きーっ!と拳を振り上げる花梨を興味深く見つめた。
 よくもまあ、あの一言だけでここまで熱くなれるものだと。
 しかし翡翠のその態度が花梨には馬鹿にされていると映るのだが。
「まだ若いですから!成長期!!」
「……そう、成長期……。まだ成長期かは疑問だが、成長させるのは背だけではないようだしね。せいぜい頑張りなさい」
「はっ?」
 ほかにどこが?と首を傾げた花梨だったが、翡翠のからかいを浮かべた眼差しの先に気付いた瞬間、真っ赤になって腕を振り上げた。
「このセクハラ医者ー!!」
「おっとっ!」
 怒りの余り殴りかかってきた花梨の手から、翡翠は笑いながら一歩引いて逃げた。
「逃げるな〜!」
 はっきりいって雇い主に投げつける言葉ではない。
 だが怒りで頭に血が上った花梨に、冷静な判断はできなかった。
「事実を述べただけだがねぇ……」
 花梨の攻撃を、ひょいと避けながら翡翠が笑う。
「私の胸は小さくなーい!!」
「そんな事一言も言っていないよ?」
「言わなくても、絶対っ!思ってる!!」
「ふふ…」
「笑うな〜!!成長期って言ったでしょ!!」
「成長すればいいねぇ……」
「ムカつくっ!!絶対、絶対ナイスバディになって驚かせてやるんだから〜!!」
「それはそれは……。楽しみだよ」
 何故翡翠が楽しみにする必要があるのか疑問だが、花梨はそれに気付かない。
「……馬鹿にしてるでしょ?無理だって思ってるでしょ!?」
「さて、どうかな?……しかし、この食事では無理だろうね」
 指摘された本日の夕食を振り返って今までの元気はどこへやら、花梨は居心地悪げに小さくなった。
「だって……」
「だって?」
「二回作るのは面倒なんです……」
「なるほど…」
 毎日翡翠の夕食を作ってから家に帰り自分の食事を作る。確かに二度手間だ。
 それに今夜のように残業をすれば、それだけ遅く帰宅するのでますます面倒になり手軽なものに頼りがちだった。
 翡翠は飲みかけの野菜ジュースを手に取り、それを花梨に掲げて見せた。
「冗談はさておき、健康で若いからといってこれは見過ごせないね」
(冗談?あれが?めっちゃたち悪っ!分かってるけどさ!)
 からかわれた花梨は憮然として唇を尖らせた。
「仕方ないじゃないですか。時間が無いんだから。それとも先生がどうにかしてくれるですか?」
「私が?」
「無理なら口出ししないで下さい。お給料分は働いているんだからいいじゃないですか」
「栄養失調で倒れられては洒落にならないよ。私がどうにか?……そうだね、では二回用意するのが面倒だというのなら一回で済ませばいい」
「はいぃぃ?」
「二人分作って食べて行けばいいだけのことではないのかい?」
「……それはそうですけど」
「では、明日からそうしなさい」
 翡翠はさらりと何でもないように言う。
 予想以外の申し出に訝しげに翡翠を見ていた花梨は、恐る恐る口を開いた。
「材料代は?」
 花梨の最も重大な関心はそこだった。
 それに比べれば、天敵に等しい翡翠との食事も些細なことらしい。
 翡翠は花梨の質問に微苦笑を浮かべた。
「いつもながらしっかりしてるね。君一人が増えたくらいであまり変わらないだろう?それとも君の食欲は私の想像を絶するものなのかな?」
「…人を食欲魔人みたいに言わないで下さい」
「ふふふ…、せいぜい栄養をつけて是非とも私を驚かせてくれたまえ。ではね……」
 翡翠はひらひらと手を振って、そう言い残して背を向ける。
 受付にポツンと残された花梨の拳が、最後の最後までからかわれた悔しさにキリキリと握り締められた。
「ちくしょー!!」
 花梨の叫びは、無人の院内に空しく響き渡った。






 しかしどれだけからかわれても、食費が一食タダになる魅力に勝るものはない。
 花梨は次の日から、遠慮なく翡翠と夕食を共にし始めたのだった。



 








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