とある町のとある外科内科医院。
お昼休み、誰もいない受付でたった今届いたばかりの郵便物を、花梨は神妙な面持ちで見つめていた。
何通かある封書、その中のA4サイズの水色の封筒に向け、花梨はパンッと勢いよく合掌した。
「返戻がありませんようにっ!!」
そして花梨は、慎重にその封筒をペーパーカッターで開封した。
恐る恐る突っ込んだ手に当たる、紙の感触……。
薄い冊子と、何枚かの紙……。
それに触れた瞬間、花梨の顔が、思いっきり嫌そうに顰められた。
嫌々、指先で掴んだそれを引き出すと……。
薄い冊子と連絡文書、そして小さな青いラインの入った紙片が貼り付けられた、先月社会保険に提出したはずの診療報酬明細書が一枚出てきた。
「……やばい」
医療機関が診療した医療費は、社会保険や国民健康保険に、毎月10日頃に前月分を纏めて請求するのだが、診療報酬明細書(別名:レセプト)の内容に不備などがあるときは、そのレセプトのみこうやって一ヵ月後に返戻されるのである。
もちろんそのレセプト分の医療費は当月に入金されないので、診療所の収入にも関係してくる。
それは不備部分を訂正して後日再請求となるので、少しだけ手間もかかる。
花梨が勤める診療所にも、毎月少しではあるがそんな返戻があった。
だいたいが、月日の記入漏れなどのケアレスミスや、いつも通院している患者が診察券のみしか持って来ない為、保険証の変更が分からなかった為である。
どこの医療機関でも、当たり前のようにある返戻なのだが……。
先月、いつもより大きな金額の返戻があり、事務で気をつければなんとか防止できるものだったと知った院長が繰り出す嫌味に、ついついいつもの負けん気が発揮された花梨は「来月は返戻を0にする」と豪語してしまったのである。
ただ、0目標を立てるだけならよかったのだが……。
花梨を小馬鹿にしきった院長の言葉を、思わず買ってしまったのだ。
「賭けましょうか?」
と………。
そして、今日がその結果発表(?)だった。
賭けを言い出したのは、花梨がどうしても院長に買って欲しいものがあったからだ。
しかし………
たった一枚、返戻されたレセプト。
しかも、保険者番号誤りなどではなく、まごうことなき花梨のミスであった。
問題のレセプトをじっと見つめていた花梨は、真剣な表情で厳かに呟いた。
「とりあえず隠しておこう……」
「隠匿する気かい?」
「うわあ!!」
人の気配などまったく感じなかったのに、耳元でいきなり囁かれた美声に花梨は身体を跳ねさせ声を上げた。
「ひ、ひ、翡翠先生!」
ぐるんと振り返ったところに、院長の翡翠が皮肉めいた笑みを浮かべ、腕を組んで立っていた。
「さて、それは社保からの郵便物だね?」
「ち、違います!」
「ほう…?」
「ああっ!!」
花梨は後ろ手に慌ててそれを隠そうとしたが間に合わず。一枚のレセプトは翡翠の指先に掴み上げられた。
「ふ〜ん?『ヘリコバクターピロリ除菌後検査時の除菌終了年月日漏れ』……カルテにきちんと書いているはずだがねぇ?どうして漏れてるのかな?」
嫌味ったらしく口角をほんのちょっと上げ、翡翠はチラリと花梨を見下ろした。
「……陰険ドクター」
口を尖らせて面白くなさそうにぼそりと呟いた花梨の言葉に、翡翠の柳眉がぴくりと上がる。
「何か言ったかい?」
「いーえ!何でもありません!!」
もうばれてしまったら開き直るしかない。
「さて、返戻が一件でもあったら罰ゲームだったね?」
「そうでした?」
間違いは認めても、嫌がらせとしか思えない罰ゲームなどしたいわけがない。
花梨は何食わぬ顔で、ちょっととぼけてみた。
すると……。
「給料カット」
「えぇぇぇぇ!!」
「物忘れのいいスタッフには、それなりのペナルティが必要だからね」
「いや〜!!給料カットだけはやめて〜!!罰ゲームするからっ!」
お金が絡むと、相変わらず必死になる花梨。
恥も外聞もあるものかっ!とばかりに、雇い主に縋りついた。
そんな花梨を傲慢に見下ろし、翡翠は軽く鼻先で馬鹿にしたように笑った。
「本当かい?やると言った事をすぐに忘れて、すっ呆けそうだが……」
「します。すっっっっっっごく嫌だけど、我慢してします!」
ものすごく嫌そうに顔を顰める花梨。
罰ゲームを心底嫌がっているのが、言われなくても分かる表情である。
「………言うね」
「だから給料カットだけは勘弁してください」
「仕方ないねぇ……」
わざとらしい溜息。
所詮、翡翠に勝てるわけがないのだ。
がっくりと肩を落とした花梨は、諦めたように翡翠に尋ねた。
「罰ゲーム、アルバイトの時でいいですか?」
「かまわないよ。忘れないならね」
「忘れません。そしてリベンジです!!!次回こそ、パーフェクトなレセプトで、新しいレセコン(医事コンピュータ)を買ってもらうんだから!!」
固く握り締めた拳が、決意も新たに天に突き上げられる。
すでの今回の賭けは過去のことなのだろうか。
負けてもめげない花梨に、翡翠は呆れたように肩をすくめたのだった。
罰ゲーム?
それは………。
2人だけの秘密。
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(おまけ)
「じっとしててください!」
「ムードがないねぇ……」
「あってたまるもんですかっ!」
「……耳元で怒鳴らないでくれないかな?」
「怒鳴らせないで下さい。目は閉じてて」
「注文が多くないかい?」
「多くないです!」
「仕方ないねぇ」
溜息混じりに呟くと、翡翠は花梨の言うとおり、やっと瞼を下ろしてくれた。
静かに目を閉じると、彼の美貌は一層艶やかさを増す気がする。
花梨は唇を軽く咬み、何度か視線を戸惑わせた後、翡翠の肩に手を置いて、薄い笑みを浮かべた唇に自分のそれを重ねたのだった。
罰ゲームは、甘さのないキスの味。
それが甘みを増して、本物になるのはもう少し先のこと……。