朝夕の寒さが日ごとに増してくる冬の初め。
友雅が出仕する時刻は冷たい風が頬を撫でていったのに、昼間はほっとするような暖かさ。
内裏から帰宅した友雅が目にしたのは、小春日和に誘われて端近で脇息を抱え転寝をする愛しい少女の姿だった。
結婚してしばらく経ち、こちらのしきたりもきちんとと知っているはずなのに、相変わらずの無防備さに友雅は蝙蝠の陰で溜息を吐きつつ微苦笑を浮かべた。
もっともこちらの世界の姫君のように、部屋の奥深くでじっと座っているなど彼女に出来るはずもないと友雅も分かっている。
きっとこの春のような陽気に誘われて、日向ぼっこをしているうちについうっかりと眠りに落ちてしまったのだろう。
友雅はそっと膝をつき、少女の可愛らしい顔にかかる髪を指先で優しく払った。
「あかね…、起きなさい。風邪をひくよ?」
「……ぅ、ん」
心地よい午睡を邪魔され、あかねの眉間に皺が寄る。
あまりに気持ちよさそうで、起こすのは忍びなかったけれど、このままでは身体が冷えてしまう。
日差しは徐々に西に傾いてきているのだ。
「あかね……。起きて…」
「ん…、と、もまささん?」
友雅によって眠りから引き上げられたあかねが、眩しそうに小さな瞬きを繰り返す。
目覚めたばかりで、まだはっきりとは目を開けられないらしい。
眠りの残滓を纏わせた、少しだけ甘えたような舌足らずな可愛らしい声が、友雅の名を紡いだ。
「そうだよ…。またこのような端近に出ていたのだね?」
「…うん。日差しが気持ちよかったから……。おかえりなさい、友雅さん」
あかねはまだよく開かない目をこすりながら脇息からゆっくり身体を起こし、友雅を見上げてうれしそうにふわりと笑った。
「気持ちよいのは分かるけどね、無防備すぎるよ。それにあまり長く風に当たっていては身体が冷えてしまう」
友雅の手が伸び、そっとあかねの襟元を寄せる。
あかねはそんな友雅の気遣いをうれしそうに受けていた。
「大丈夫です。あいかわらず心配性ですね?」
「あなたは、まったく……」
のんきな少女に友雅は苦笑を禁じえない。
「それよりごめんなさい、友雅さん。お出迎えできなくて」
申し訳なさそうに身体を小さくするあかねが愛しい。
これほどまでに友雅の心を和らげてくれるのは、目の前にいる少女だけだ。
友雅はその大きな手で包み込むように、あかねの桜色の頬に触れた。
「いいのだよ。あかねこそ気分は?」
「大丈夫。本当に心配性」
あかねを気遣う友雅こそ、忙しい毎日を送っているのに。
優しい夫を安心させるようと、あかねはにこやかにしっかりと頷いた。
「そうかい?」
あいかわらずですね、と笑われては、友雅も笑い返すしかない。
「はい。お昼寝もしたし、元気ですよ」
「それはよかった」
「今日は本当に気持ちのいい日ですね。ついうとうとしちゃった……」
「春の日のように暖かいからね……」
僅かに傾いた日差しが、二人に柔らかな光を投げかけている。
「友雅さんこそお疲れじゃないですか?」
朝早くから出仕していた友雅は、最近休みが少ない。
先日も宿直を勤めたばかりだった。
あかねに問われた友雅は、その切れ長の瞳にふっと悪戯めいた光を浮かべた。
「ん?……そうだね。では、私も少し休むかな?」
「きゃっ!と、友雅さん!?」
ころりと横になった友雅の頭が、あかねの膝に乗せられる。
驚いたあかねが可愛らしい悲鳴を上げたが、友雅の楽しげな表情を見て諦めの息を吐いた。
「ああ、本当に気持ちがいいね……。あかねが眠ってしまったのがわかるよ」
気持ちのよい枕に頭を落ち着け、友雅は深く息を吐いて瞳を閉じた。
その長い睫が精悍な頬に影を落とす。
あかねは自分の膝の上で休む友雅を見下ろしながら、緩やかに波打つ髪に指先を絡めた。
「そうでしょう?でも友雅さん?びっくりするじゃないですか」
予告も無しに膝に頭を乗せられたら、驚くに決まっている。
「たまにはいいだろう?」
悪びれない友雅へ、あかねは聞こえるような大きな溜息を方で吐いた。
「……いいですけどね」
悪いと言ったところで、友雅がひくとは思えない。
だからあかねは仕方ないと許すしかないのだ。
あかねの許しを得た友雅が、気持ちよさそうに伸びをして、膝の上から自分を見下ろすあかねの瞳を見つめた。
「それに……」
「はい?」
友雅は愛しげにあかねのふっくらと迫り出した腹に手を置いた。
「もうすぐこの膝は、この子に独り占めされてしまうからね」
「友雅さん……」
着物を通して、友雅の大きな手を感じる。
温かな友雅のそれがとても優しくて、あかねの顔に自然と満ち足りた笑みが浮かんだ。
それは慈愛に満ちていて、いつもの少女のあどけない表情とは違って友雅の瞳に映った。
これが母になる女の笑顔なのだろうか?
彼女の身体に宿った新しい命。
もうすぐこの世に生まれ出でてくる、かけがえの無い存在。
友雅はあかねの美しい顔を見つめながら、手のひらの向こうの命に想いを馳せた。
「だから生まれてくるまでは、せめて私のものにさせておくれ?」
生まれたら譲らないといけないからね、と心底残念そうに告げる友雅の手に、あかねが手を重ねた。
「友雅さんったら……。じゃあ、私も今のうちに甘えておこうかな?」
「うん?」
「友雅さんの腕も、この子を抱っこするので独占されそうだから……」
そう言いながら、あかねは友雅の手を軽く叩いた。
あかねにしては珍しい、友雅に甘えるような言葉に驚き、彼は嬉しそうに微笑みながら、しっかりとあかねの手を握り返した。
「……私の腕は、片手でこの子を、もう片方で君を抱くよ?それくらいの広さはあるつもりだけれどねぇ?」
あかねの手を握り締めた手と反対の手が、慈しみと愛しさを込めて、出会った頃よりもずいぶんと長く伸びたあかねの髪を梳いた。
あかねの頬が恥ずかしげに赤く染まる。
もうすぐ母になろうというのに、そんな初心な顔も似合ってしまうのはあかねだからだろうか?
大人びた一面とあどけない少女のままの一面を持つあかねに、友雅は無条件で惹かれてしまう。
あかねはいつも友雅の視線を奪うのだ。
「……早く逢いたいですね。この子に……」
慈愛を込めて、あかねが大きくなった自分の腹を擦った。
友雅に貰った大切な宝物……。
「ああ。きっと君に似た可愛らしい子だろうね?」
「……私に似たら可愛いかどうかわかりませんけど?」
「可愛いよ、絶対に」
断言するその自信はどこからくるのだろうか?
すでに親ばかの片鱗を見せる友雅を、あかねは笑う。
「…私は友雅さんに似てて欲しいです。男の子でも女の子でもいいから……」
「ああ、どちらでもいいね。この子も君も元気であれば……」
「うん、私は頑張りますよ。だってお母さんになるんだもん!」
きらめくように美しく輝くとはこういうことだろうか?
友雅はあかねに見惚れてしまった。
どうしてあかねはいつでも友雅の目を眩ますくらい輝いているのだろうか?
身ごもってから、ますます輝きが増したような気がする。
それが母になる女性の強さなのだろうか?
「……こんな時、男は無力だねぇ……。まったく、あかねが眩しいよ」
いつもあかねの光に照らされている男が、溜息混じりに呟いた。
それを耳にしたあかねが、きょとんと不思議そうに小首をかしげた。
「無力、なんかじゃないですよ?」
「あかね?」
あかねは友雅の手をとってにっこりと微笑んだ。
「だって私は友雅さんにいっぱい力をもらってますから……」
「ああ、あかね……。どうしてあなたは私を喜ばせるのがお上手なのか……」
友雅を絶望と虚無の世界から引き上げた少女は、いまも彼の道を明るく照らしてくれている。
何者にも代え難い存在。
「友雅さん?」
起き上がった友雅が、あかねの身体を軽々と横抱きに抱き上げた。
「少し寒くなってきた。あなたと子に障るといけない…。奥へ戻ろうか……」
「私歩けます。…重たいでしょう?」
慌てて降りようとするのに、がっちりと抱かれて友雅が腕を解いてくれない。
それにあまり暴れてもお腹の子に障るから、あかねの抵抗はほとんど言葉のみだった。
「ふふ。重くて当たり前だよ。ほら、私の腕は二人を抱きしめているのだからね」
腕にかかる重さがいとおしい。
大切な命が二つ。
「友雅さん…」
幸せな笑顔で、あかねが友雅の首に腕を回した。
「新しい年は三人で迎えよう……」
「はい……」
新しい命と出会うまで、あともう少し……。
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