週の初め。
 外来診察開始前、白衣に腕を通そうとした瞬間に走った、ピリリと攣るような痛みに、友雅が思わず動きを止める。
「どうしました?」
 隣に居た年下の医師が、不思議そうに友雅に目を向けた。
「…いや、何でもない」
 口元に気付かれないほど微かな苦笑を浮かべ、友雅は軽く首を振る。
 そうですか……、と青年医師は笑い、診察時間が迫っている為足早に部屋を出て行った。
 残された友雅が、痛みの走った左の二の腕を軽く撫でる。
 体を覆う生地の下、僅かに疼く真新しい傷……。
「あかね……」
 それは、霧のように掴み所の無い少女が残した、唯一の確かなもの。






 初めて少女をこの腕に抱いた時、すべてを取り戻し、彼女のすべてを手に入れたと思った。
 たとえ少女が憧れと恋を勘違いしていたとしても、その錯覚をいつか本当の愛に変えてみせる自信があった。



 だが……。



 あの日から幾度も過ごした二人だけの濃密な夜。
 友雅の愛撫に応える、あかねの馴れた息遣い。
 しかし友雅が与える快楽に素直に溺れ、乱れる少女の気持ちはどこにあるのかわからない。
 好きだと、愛していると、恥ずかしそうに微笑みながら甘い言葉を紡ぐその朱唇は、友雅が望む彼自身の名を決して形どることはない。
 照れくさいから……、と笑うその瞳が、ふと何かを企むように遠くを見つめるのは何故なのだろう…?
 愉悦に震え、理性を飛ばして嬌声を上げる少女にそれを求めても、一瞬だけ理性を取り戻し、瞳を切なげに揺らして唇を噛み締めるのは何故なのか。
 もう「兄」でいられない自分と、友雅を恋人と言いながら「妹」に固執するあかね。



 離れていると不安になる。
 少女の気持ちが分からなくて。
 少女を抱く時だけ、彼女の愛に触れる気がする。
 だから友雅は不確かなその想いを確かめる為、少女を酷く抱く。
 あかねを傷付け、その白い肌にすぐには消えない印を刻みこむ。
 同時に、男の激情に耐えられなかったあかねが刻んだ爪痕が、友雅に残される自分と少女を繋ぐ一つだけの真実……。






 黒板に書かれた英文をノートに書き写す為、身動ぎした瞬間、ヒリッとした痛みが肩に走った。
 一瞬だけ、動きを止めたあかねだが、何事もなかったようにペンをノートにサラサラと滑らせる。
 そのペンをふと止めて、あかねは目だけで痛みの走った左肩を見つめた。
 制服のブラウスの下に隠された、キツイ咬み痕。
 いつからだろう、赤い口付けの跡だけでなく、血の滲む傷痕を必ず付けられるようになったのは……。
 男はまるであかねの体から、自分の刻んだ痕が消えるのを恐れるかのように、新しいそれを酷く刻んでいく。
 着替えるのに困るからやめて、と拒めば拒むだけ刻まれる痕。
 絶え間ない快楽に意識を飛ばしたあかねの耳元で、これは所有印だと小さく哂った友雅。
 誰に対して、などと聞かなくても分かった。これはあかねの周りにいる誰にでもない、あかね自身に知らしめる為の所有印。
 あかねはひりつく肩を、そっとペンを握った右手で覆った。
 この痛みは離れていても、友雅の執着を証明してくれる唯一の証。
 あかねは過去の経験から、友雅がどれほど蕩けるような甘い言葉をくれても、心から信じることが出来なかった。
 一度捨てられた少女は、再度捨てられることに怯えている。







 友雅は稀に見る極上の男。
 それを分かりすぎるほど分かっているから、何の取り柄もない自分がいつまでも男を引き止めていられるなんて思っていない。
 だから友雅の望むすべてを叶えるなんて、馬鹿なことはしない。
 男の求めるすべてを叶えてしまえば、きっと友雅のあかねに対する執着は無くなってしまうから。
 兄でいたくないと言うのなら、あかねは友雅を兄としてしか認めない。
 そして尚且つ、妹を抱いているのだと友雅の無意識に罪を刻んでいく。
 あかねを捨てる事が出来なくなるまで……。
 言う事を聞かないあかねに、いつもは困ったように笑う友雅が、二人で過ごす夜に見せる激しい苛立ち。
 それを受けて自分の肌に刻み込まれる痛みに、あかねは暗い喜びと安堵を覚える。
 まだ、捨てられはしない……と。
 誰よりも好きだから、誰よりも愛しているから、二度と捨てられない為に、あかねは友雅に逆らい続ける。





 そして刻まれた傷が疼くたび、あかねは友雅の愛に触れていると確認する。




 
 週末の深夜、帰宅した友雅を出迎えるのは点けた覚えの無い玄関の明かりと揃えて置かれたローファー。
 手術を手掛けた患者の容態が落ち着き、友雅が帰宅できたのは、日付変更線を越えてかなり経ってからだった。
 一日の疲れを落とす為、直行したバスルームには、きちんと友雅の着替えなどが用意されている。
 いつもは人の気配がしない部屋は、どこかしら優しい雰囲気に包まれている。
 友雅はパサリと服を脱ぎ捨て、シャワールームへと消えた。






 グラスに注いだ寝酒のブランデーを片手に寝室のドアを開ける。
 いつもは誰もいない、友雅の寝室。
 そのベッドの羽布団が柔らかな曲線を描いて膨らんでいる。
 微かに聞こえる、長く深い寝息。
 友雅はテーブルにグラスを置くと、ベッドの側に腰掛けて眠っている少女の前髪をそっと掻きあげる。
 少女の寝息は乱れない。
 





 初めて友雅があかねを抱いたその日から、あかねはこの家にいる時に自室のベッドで寝たことは無い。
 そう友雅が命じたから。
 友雅がいてもいなくても、あかねが眠りにつくのは友雅のベッドと決まっていた。
 友雅の言う事に従順なあかね。唯一のあれを除いては……。
 友雅はあかねを見つめながら目を眇め、小さく舌打ちをすると、可愛らしい寝息を漏らす唇に己のそれを重ねた。
「……ふっ…」
 突然、呼吸を邪魔されたあかねの鼻筋に小さな皺がよせられる。
 だが友雅はかまわず、薄く開かれた唇から深く舌を差し込んだ。
 苦しさに顔を背けようとするのを許さずに、両手でその頬を挟み軽い音を立てながら、角度と深さを変えて甘い唇をむさぼる。
 友雅によっていきなり覚醒させられたあかねの目尻に、淡い涙が光る。
「うっ……ん…っ」
「……あかね」
 最後にちゅっ…と音を残し、友雅が離れる。
 あかねは目覚めたばかりの赤い目で、ほんの少し恨みがましく友雅を見つめた。
 その視線に、ふっと皮肉げに唇を上げた友雅が、あかねの着ていたTシャツの襟をグッと引き下ろす。
「お兄ちゃん?」
 訝しげに友雅を見上げるあかねの白い肩に、前回刻んだ治りかけの傷痕。
 友雅に残されたあかねの爪痕は、すでに無い。





「お兄ちゃん!?」
 荒々しく自分の胸元にキスを落とす友雅に、あかねが驚きの声を上げる。
 だが友雅には、久しぶりのあかねの甘い肌を味わうことと、消えかけた傷を白い肌に再び刻み込むことしか頭に無かった。
 友雅のいきなりの行動に驚いていたあかねだが、やがてその細い腕は友雅の首を抱きしめるように回された。
 友雅の緩く波うつ髪に指を絡ませながら、あかねが浮かべた安堵の表情を、少女の胸に顔を埋めていた友雅は気付かなかった。







『この傷を消しはしない』
 それは刻む者、刻まれる者が、お互いに望む愛の証。











<終>




このお話はJanneDaArcの曲「マリアの爪痕」を聴いていて出来たものです。
実は「月に咲く華」も彼らの曲「sister」から。
蛇足ですが、「スキャンダル」は「differ」
大好きなJanneDaArcの曲、すべてアルバム収録曲なので、機会があったら聴いてみてくださいませ。





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