『花火』






「あっ、やばい…」
 それが、朝いつもの時間に目を覚ました花梨の第一声だった。





 とある町のとある外科内科医院。
 規模のわりには有名なその診療所で、看護師として勤めている平千歳は、仕事が終わってからの約束を確認する為、すでに診療予約を始めた窓口を覗いた。
 窓口では、事務員が患者の予約で忙しく立ち働いている。しかしそこに千歳の求める姿はなかった。
「あら?花梨は?」
 千歳の問いかけに振り返ったのは、最近入ったばかりの事務員だ。
「高倉さんなら、今日は調子が悪いからお休みです」
「休み?」
 千歳が心配そうに眉を寄せる。
「はい。熱があるみたいで、電話の声も元気がなかったですよ。今日は半日診療だから、無理しないでお休みしますって…」
「そう…。わかった、ありがと」
 千歳は礼を言って窓口を出ると、そのまま更衣室の自分のロッカーへと向かった。
 電源を切っていた携帯のメールを問い合わせてみると、案の定花梨からのメールが届いていた。



『風邪ひいたみたい。発熱しちゃった(>_<)今日はゆっくり養生するよ。約束守れなくてごめん!花火楽しみにしてたのに(T_T)』



「よりによって、花火の日に熱出さなくてもいいじゃない……。本当に花梨はついてないわね……」
 千歳は呆れたように溜息を吐いた。





 花梨と千歳が勤める診療所は木曜午後が休診だ。
 お昼過ぎ、いつものように最後の患者を送り出すと、スタッフ達の緊張が一斉に解ける。
 千歳も強張った肩に手を置いて、首を左右に振った。
「さて……、花梨のお見舞いに行こうかしら……。お見舞いにはやっぱり『手土産』がいるわよね」
 千歳はそう呟くと、足取りも軽やかに診察室へと踵を返した。





「きゃっ!」
「おっと」
 診察室のドアを開けて中へ踏み込んだ千歳が、丁度ドアを開けようとしていた翡翠の胸にぶつかりそうになり悲鳴を上げる。
 慌てて身をかわした若い看護師を翡翠は面白そうに見下ろした。
「何か忘れ物かい?」
「いえ。忘れ物ではなく先生に用事があったんですが……」
「私に?何かな?」
「往診をお願いします」
「……往診?」
 翡翠の涼やかな瞳が訝しげに眇められる。
 千歳はその美しい顔に、にっこりと隙のない完璧な笑顔を浮かべた。
「はい。風邪で臥せっている可哀想な独り暮らしのスタッフ、高倉花梨の往診をお願いします。…まさか診療を断るなんて非道なこと、しないですよね、翡翠先生?」
 その容姿には似つかわしくない押しの強さに、翡翠は深く息をつくことしか出来なかった。





「かり〜ん、生きてる〜?」
 ワンルームマンションの一室。
 千歳は花梨の部屋のチャイムを鳴らし、控えめにノックをした。
 少しして、よたよたとした足音と萎れた返事が中からして、カチャリと鍵を回す音がしてドアがうすく開いた。
 顔を覗かせたのは、いつも元気な彼女とは思えないほどぐったりとした花梨。
 ノーメイクなので顔色の悪さは一目で分かる。Tシャツと七分丈のルームパンツ姿。
「千歳〜」
 仲良しの千歳の姿にほっとしたのか、花梨の目が縋るように涙を浮かべる。
 千歳はそんな花梨を安心させるように、ポンポンと肩を叩いた。
「お見舞いに来たよ。お土産付きで……」
「お土産?」
 花梨が不思議そうに首を傾げた時、ふっと彼女に影がかかった。
 その影の正体を見た瞬間、
「うげっ!」
 花梨は何ともいえない声を上げたのだった。





「往診にわざわざ来てやった医者に向かって、その出迎えはなんなのかな?」
「来てくれなんて頼んでないもん……」
「憎まれ口を叩くのはこの口かな?こちらも治療が必要なようだねぇ……」
「いたーい!!」
 花梨の柔らかい頬が、翡翠の両の指先で左右に引っ張られ痛みに悲鳴を上げる。
 病気になっても花梨の反抗的な態度に、千歳は呆れかえっていた。
『雉も鳴かずば打たれまいに……』
 そんなことわざを脳裏によぎらせながら……。





 千歳は自分が買ってきたものと、花梨の部屋の冷蔵庫にあったもので病人にも食べられるあっさりしたものをキッチンで作り始めた。
 花梨の部屋へはよく遊びに来ているので、何がどこにあるのかわかっている。
 花梨は窓際のベッドの上で、翡翠の診察を受けていた。



「風邪だね。薬を飲んで寝てなさい。熱が下がってもすぐに無理はしないこと。薬が効いているだけだからね」
「……花火は?」
「花火は今夜だろう?無理はしないようにと、今、言ったばかりだと思うけど?」
「は〜い…」
 返事をしながらも、しゅんと項垂れてしまった花梨。
 部屋の隅に置かれた畳紙に、今夜着るはずだった浴衣が包まれていた。
 診察が終わった花梨は、もそもそとタオルケットに包まりベットに寝転がる。
 ドアを一枚隔てたキッチンスペースからは、千歳が使う包丁の音がリズミカルに聞こえてきていた。
「もう最悪。苦しいし辛いし、楽しみにしていた花火には行けないし、余計な診療費はかかるし、いいことない!」
「余計な診療費?」
「木曜日は休診の届出してるから、時間外加算されるじゃないですか。でも一番痛いのは往診料!高いもんなぁ。往診って……」
「やれやれ、体よりお金の問題かい?」
「当然です!独り暮らしは辛いんですからね」
「そのようだねぇ。では、サービスしてあげようか?」
「えっ!もしかして社員割引ですか!?是非!!」
 病気であっても、そのへんはしっかりしているらしい。
 タオルケットを胸の前でしっかりと握り締め、期待にキラキラと瞳を輝かせている。
 翡翠はその子犬のようなまっすぐな眼差しに笑みをこぼすと、花梨の頤を指先でついっと上げた。
「えっ?」
「ギブアンドテイクだよ…」
 サラリと花梨の耳元で翡翠の髪が音を立てる。
「ふっ…」
 翡翠の長い髪が花梨を覆い隠し、花梨の声は翡翠の唇が奪ってしまう。
 花梨は必死で翡翠の胸を押し返すが、そのくらいで翡翠を動かせるわけがない。
 翡翠は存分に花梨の唇を味わった後ゆっくりと離れ、仕上げとばかりに舌先で、キスに赤く色づいた柔らかな唇を軽く舐め上げた。
 その刺激に花梨の体が微かに震える。
「今日はこれで許してあげよう。…体調が悪いからね」
「もう!翡翠さん!!」
 キスで十分酔わされた花梨がどんなに怖い顔で怒っても迫力はない。
 翡翠は笑って艶やかに濡れた花梨の唇に、人差し指を当てた。
「静かに。平くんに気付かれるよ?」
「うっ!」
 言葉を詰まらせ恐る恐るキッチンスペースを窺うと、ドアの向こうの千歳がこちらに気付いた様子は見受けられなかった。
 ホッと安堵に息を吐いたあと、花梨は翡翠をきつい眼差しで睨みつけた。
「スタッフに知られるのは嫌って言ってるのに!どうしていつもいつも!」
「バレなければいいのだろう?」
「じゃなくって!人前ではやめて下さい」
「おやおや、注文が多いね。けれど二人きりの時でさえ、素直に身を任せてはくれないのは誰かな?」
「そ、それは……」
 まだまだ恋愛経験の薄い花梨は、翡翠の手練手管にどう振舞っていいのかわからなくなってしまう。
 そして焦った挙句、いつも反抗的な態度をとってしまうのだった。
 無論、そんなことなど翡翠はお見通しなのだけれど……。
 その上、花梨が必死に向かってくるのか面白くて、わざとからかってしまうこともしばしば。
 花梨はその度に、翡翠の想像を超える反応をするのだ。
 けれど、今はさすがにその元気がないらしい。
 花梨は恨みがましい目で翡翠をにらみつけるだけ。
 らしくない花梨の様子に翡翠の口元に微苦笑が浮かぶ。



「花火、見たいかい?」
 先ほどは花梨を止めた翡翠の問いに、花梨の眉が訝しげに寄せられる。
「……見たいですけど、これで人込みの中に行ったら確実に倒れます。だいたい行きたいって言った時、嫌だって言ったのは翡翠さんじゃない。だから千歳と行こうと思ってたのに……」
「わざわざ好んで暑い中、芋洗いのような人込みには行こうとは思わないね」
「私は行きたかったんです!でも、行けなくなっちゃいましたけど」
 がっくりと肩を落とし、タオルケットを引き上げながら、花梨は残念そうに夏の晴れ渡った青空を見上げた。
 雲ひとつないいい天気。風も適度にあるから、花火の煙もちゃんと流されてさぞ綺麗に見えることだろう。
 ずっと楽しみにしていたのに……。
 行けなくなった花火に思いを馳せる花梨の乱れた前髪を、翡翠はその長い指先で優しく整えながら言った。
「見せてあげようか?花火」
「えっ?でも……」
「花梨が花火を見に行かないなら、見せてあげるよ」
「?」
 不可解な翡翠の言葉に、花梨はただ不思議そうに首を傾げるだけだ。
 翡翠は楽しそうに笑うと、ただ花梨の頭を軽く2、3度撫でつけた。





 翡翠は千歳が花梨の食事を作り終えたと同時に自宅へと帰って行った。
 千歳も薬を受け取る為に、一度医院へ戻り再び花梨の部屋へ。
 そして昼食の片付けと夕食の用意をすると、薬が効いてウトウトし始めた花梨を起こさないように、そっと帰ったのだった。





「花梨、起きなさい…」
 花梨の大好きな声と共に、体が軽く揺すられる。
「ん……」
 花梨は喉に絡むような苦しそうな声で唸って、熱で腫れぼったい瞼を薄く開いた。
「せんせ…?」
「あぁ、無理しない。花火を見に行こうか?」
「花火…?」
 花梨はまだ覚醒しきってない様子で、ぼんやりと翡翠を見つめている。
 だが翡翠はかまわずに、タオルケットに包まった花梨の体を軽々と横抱きに抱き上げた。
「えっ?」
 急激な浮遊感に、さすがに寝ぼけ眼も開いたらしい。
 大きな瞳を驚きにクルクルさせて、絶句している。
 翡翠は、寝乱れた髪に鼻先を埋めるようにして軽い音だけのキスを落とした。
「病人は静かにね……。暴れたら、落とすよ?」
 落ちる、のではなく、落とす。
 それは、翡翠が故意に手を離すということ。
 言外の脅しに、花梨は慌てて縋りつくように翡翠の首に腕を回したのだった。





 時間はすでに夕刻だった。
 花火が始まる時間まではまだあるものの、オレンジ色の夕日が最後の光で地上を照らしている。
 花梨は翡翠の車で、彼の自宅に連れてこられた。
 花火を見ると言って、どうしてここなのかと花梨の頭上に疑問符が飛び交っているのが手に取るように分かる。
 しかし翡翠は何も言わず、また花梨を抱き上げてリビングのソファーまで運んだ。
 いつもより窓際に寄せられたソファー。
 熱で重くてだるい体を横たえたまま、花梨は翡翠を物問いたげに見上げた。
 翡翠が花梨の視線を受けて、クスリと笑う。
「ここから、少し遠いけれど花火が見えるのだよ」
「えっ?」
「高台だからね。花梨の視線の高さくらいで楽しめる」
 翡翠の種明かしに、花梨が窓から外を眺めた。
 住宅があって、花火の会場を望むことは出来ないが、確かに方角はあっている。
 見慣れたはずの風景だが、ここから花火が見えるなんて知らなかった。
「だからわざわざ人の多い場所まで見に行くのは遠慮したのだよ。迫力はないかもしれないが、ここでのんびり酒を飲みながら眺める方がずっといいからね」
「……知らなかった」
「そう?」
「花火の話した時、言ってくれたらよかったのに!」
「言っても、会場で見たいと駄々を捏ねたんじゃないのかい?」
「うっ…!確かに……」
「だからあえて言わなかったのだよ。まぁ、今年はここからの眺めで我慢しなさい」
「は〜〜い」
 従順な返事をして、ごそごそと楽な体勢を取る花梨の額に翡翠が手を当てる。
「熱はさっきより下がったようだね。何か飲むかい?」
「えっ?」
 翡翠の問いかけに、花梨が大袈裟に驚いて翡翠を振り仰ぐ。
「ん?」
「先生が優しい……。気持ち悪い…。槍が降る」
「……どうやら具合が悪くても減らず口は絶好調のようだ」
「やーっ!いたい、いたい!!」
 両の拳で力いっぱいこめかみを挟みつけられ、花梨が痛みにバタバタと声を上げて暴れる。
 ひとしきり花梨を締め上げた後、手を離すと花梨はがっくりと力尽きてソファーに体を沈めた。
「懲りるという言葉を知らないようだね、花梨?」
「……病人を労わってよ」
「十分労わっているけれど?」
「これのどこが!?」
「おやおや、わからない?元気だったらこれくらいじゃすまないよ?」
 にっこりその整った美貌に剣呑な笑みを浮かべ、翡翠はゆっくりと花梨の首筋を撫で上げた。
「ひゃっ!」
「それとも物足りなかった?」
 花梨はその瞬間、気分が悪いのも忘れて否定の為に思いっきり首を振った。
「うぇ…、気持ち悪…」
 しかし元々具合が悪い花梨は、今のでますます気分を悪くしてダウンしてしまった。
 その様子に、翡翠は声を立てて笑った。
 花梨は本当に翡翠を飽きさせない。





「せんせ〜。……翡翠さ〜ん」
「ん?」
 あと数分で打ち上げが始まる頃、花梨はソファーから腕を伸ばして翡翠を手招きした。
「何だい?」
「寝過ぎで腰が痛いよ〜」
 起こしてといわんばかりに、花梨の両手が翡翠に向かって差し伸ばされている。
 日頃にない甘えた仕草に、翡翠が面白そうに眉を上げて笑った。
 そして花梨の望む通り、体を起こしてやる為にソファーの側に膝を付いた。
 花梨の背に腕を差し込むと、花梨が倒れ込むように翡翠の胸に縋りつく。その細い腕はしっかりと翡翠の首に回されている。
「花梨?」
「起きてるのもきつい……」
「……我儘な子だね」
 翡翠は苦笑して、花梨の額を小突いた。
「……」
 拗ねてぷぅっと頬を膨らました花梨。
 風邪をひいて、心細くなっているのだろう。いつもの花梨からは考えられない甘えようである。
 翡翠は纏わりつく花梨をそのままに、腕を伸ばしてテーブルの上にあったクーラーのリモコンで室温を少し下げると、花梨を抱き起こしてソファーに座った。
 そして花梨を横抱きにして、その膝に座らせる。
 だるそうな体を自分に凭れ掛からせると、花梨は頭をコトンと翡翠の肩に落とした。
 翡翠は花梨の額に頬を当て、直接熱を測る。
 肌に感じるいつもより少し高い花梨の体温。
 薬が効いているとはいえ、まだ平熱には戻りきらないようだ。
 翡翠は冷房で花梨の体を冷やさない為に、先ほどタオルケットと交換したばかりのガーゼケットで花梨の体を包み込んだ。
 力なく翡翠にされるがままの花梨がポツリと呟く。
「…翡翠さんが優しい」
「私は病人には常に優しいよ?」
「いつも、この半分くらいでも優しかったらいいのに……」
「花梨もこの半分くらい素直だったらいいのにね」
 翡翠の切り返しに花梨の唇が不機嫌に尖る。
「…いつも素直だもん」
「確かに、花梨は自分自身に素直だね。私には反抗的だが」
「口答えしない従順な女なんて、興味ないくせに……」
 花梨のその言葉には、翡翠はただ薄く笑うだけで何も言わなかった。




「あ、花火…」
 一瞬だけ咲き誇る、煌く大輪の華々が明るく夜空を彩る。
 やや遅れて、二人の耳に様々な音域の爆裂音が届く。
「浴衣、着たかったな〜」
 翡翠の腕の中で、熱でぼんやりとして花火を見ている花梨が残念そうに呟いた。
「仕方ない。来年まで我慢だよ」
「うん…」




 本当なら今頃、花火の打ち上げ会場で光が降ってくるような花火を大音響に耳を塞ぎながら、団扇片手に見上げているはずだった。



 でも……



 花梨はこっそり、自分を抱きしめる翡翠を見つめた。




 
 病気だから、今までにないほど優しく接してくれる年上の恋人。
 病気だから、それを言い訳に素直に甘えられる自分。


 
(たまには、こんなのもいいかもしれない……)



 花梨はそっと幸せそうに微笑んで、翡翠の胸に擦り寄る。
 それに気付いた翡翠が、深く花梨を抱き込んでくれた。



 大好きな恋人の腕の中で見る花火は、遠くても一際美しく花梨の目に映った。






<終>








残暑お見舞い申し上げます!
暑中見舞いには間に合いませんでした(^_^;
この話は、自分の経験から(笑)です。
ええ、風邪ひいて熱出して、約束していた花火に行けなかったのは私です(T_T)
祭りにも行けないし、苦しいし。
近くの病院が開催した花火大会をベッドに横になったまま見てました(笑)
だがしかし!!
ただで風邪などひくものか!!
っていうことで、煩悩が萌えました(←バカ)
事務員花梨。サイトではまだまだ恋人未満ですが、今回は相思相愛(?)でございます。
少しでも楽しんでいただけたらうれしいな〜


まだまだ暑い日が続きます。台風もきます(笑)
皆様も体調には十分お気をつけくださいませ。





伊吹綾 拝
03.08.08



去年、暑中お見舞いを下さった方々に、送らせていただいたものです。
一年近く経ちましたので、夏本番の前に再UPいたしました。
事務員花梨、初の恋人編です。
お楽しみいただければ幸いです。


…………今年の夏は、ちゃんと花火に行きたいよ〜(>_<)







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