『橘医院』

 そこは先代の院長から、つい先日代替わりしたばかり。
 若い院長とはいっても腕はいい・・・。
 そしてそれ以上に顔がいい(笑)
 よって、個人診療所にしては、かなりの人気だった。
 なので周囲から「入院施設を増設して、病院にしては?」という勧め(許可病床数が20以上は病院となる)もあるが、決まって院長はにっこり笑ってこう言うのだ。
「忙しいのはあまり好きではないねぇ・・・」
 だから入院希望者(圧倒的に女性)に対して、ベット数は5という診療所だった。

「今日も何事もないといいけど・・・・」
 蒸し暑い夜、夜勤に当たったあかねは、マグカップを抱えて呟いた。
 橘医院の夜勤看護師は、よほどの事がない限り一人である。
 すでに時計は11時をまわり、院内は静寂に包まれていた。
 あかねは眠気覚ましのアイスコーヒーを飲みつつ、看護記録をつけていた。

・・・・リリ〜ン・・・
 突然聞こえたナースコールに、あかねは目をパチクリさせて壁のランプを見つめた。
 赤いランプは5号室。
 信じられない思いでそれを凝視し、ゆっくりと立ち上がった。
「うそ・・・でしょう?」
 呆然とするあかねを呼ぶかのように、再びコール音が響く。
 しかしそのコール音は病室からの音ではなかった。
 トイレやシャワー室等、病室以外の生活空間からの『音』のはずなのだ。
 でもランプは5号室以外に点灯していない。
 そしてその部屋には・・・
「誰もいないのに・・・・・。何で?」
 その部屋は院内で一番設備の整った個室だった。
 ゆえに自然と終末医療が多く行われる部屋。
 だが現在、そこを使っている者はおらず鍵がかかっているはずだった。
 あかねはロッカーから鍵を取り出し、足早にナースステーションを出た。

 非常灯のみが照らす薄暗い廊下。
 ナースステーションからは、この廊下を行きかう患者の姿は見えなかった。
 なのに・・・・・
 あかねは5号室に鍵を挿し込み、ゆっくりとまわす。
 カチャッ
 ロックの外れる音。
 確かに鍵のかかっていた手ごたえはあった。
 あかねは、信じられない思いで自分の手元をみた。
 恐怖は感じない。
 もし誰かがここにいて本当にコールを鳴らしているのかもしれない。
 そう考えて、あかねはおそるおそるドアを開けた。
 真っ暗な室内。
「誰かいますか〜?」
 もちろん返事もなれば物音一つしない。
 あかねは少し迷い、首を伸ばし病室を覗き込こうとした。



「どうしたんだい?」
「きっ(やぁぁぁぁぁぁぁー!!!)」
 いきなり降ってきた声にあかねは自分の立場も状況も忘れ叫び声をあげたが、それがあたりに響き渡る前に、彼女の口は大きな手でふさがれていた。
「静かに、私だよ。あかね」
 微かに目を眇め笑ってあかねを見下ろしていたのは、ここの院長そしてあかねの最愛の恋人、橘友雅だった。
 こぼれ落ちんばかりに見開かれた大きな瞳が、自分を映したのを確認して、彼はあかねから手を離した。
 とたんにあかねは力なく床に座り込んでしまった。
「あかね?」
 放心してるとしかいいようのないあかね。
 常に無いその様子に、いつものからかい口調もどこへやら。友雅は心配そうにあかねの前に片膝をついた。
 友雅は愛しげにあかねのずれたナースキャップに手を伸ばす。
「いったいどうしたんだい?こんな所で・・・・。あかね?」
 友雅を見つめたままだったつぶらな瞳から、前触れも無く大粒の涙がポロポロとこぼれ落ち出したのだ。
 友雅はそんなあかねの頭をそっと自分の胸に抱き寄せた。
「どうしたの、あかね?」
「・・だっ・・・・・て、友・・・・雅さん・・・・ビックリさせ・・・るんだ・・もん」
 しゃくりあげながら友雅を責めるあかねが可愛くて、我知らず友雅の顔に笑みが浮かぶ。
「ああ、悪かったね。もうしないよ」
 その背をゆっくりさすってやると、あかねは大きく息を吐いた。
 友雅はあかねを抱き上げると、ナースステーションへと足を向けた。



「そう、そんな事があったの」
 ナースステーションの奥にある休憩室で、友雅はあかねから一連の出来事を聞いていた。
 それもあかねを膝の上に座らせて、だ。
 あかねのサラサラとした髪を弄ぶ様は、患者には見せられないほど甘い雰囲気を漂わせていた。
「それなのに友雅さんがいきなり声掛けるからびっくりしちゃって・・・。ごめんなさい」
「いや、謝るのは私の方だよ。驚かせてすまなかったね。もう、大丈夫かな?」
「はい・・・・」
 ほんのり頬を染めて浮かべる、恥じらいの笑顔に友雅はくらくらしてしまう。
 もちろんあかねに気取らせるようなヘマはしない。
 友雅はその大きな手であかねの額にかかる髪をゆっくりとかき上げた。
「と、友雅さん?」
「しっ・・・・黙って・・・」
 近づく友雅の美貌に、あかねはそっと目蓋をおろした。
 ふたりの影が重なろうとしたその瞬間。
 ・・・ポーン 
「あ、コール!」
 弾かれたようにあかねは友雅の膝から飛び降りた。
「あかね!放っておきなさい!」
「何、馬鹿なこと言ってるんですか!」
 医者にあるまじき発言は、優秀なナースに一蹴されてしまった。
 慌てて転びかけながらあかねが出て行った休憩室には、憮然と腕を組む友雅のみが残された。



 コールをしてきた老婦人と少し話をして戻ってきたあかねは、ナースステーションでコーヒーを飲んでいた友雅に驚いた。
「まだいらしたんですか?先生」
 すっかり業務仕様に戻ったあかねの口調に、ますます友雅の機嫌が降下する。
 しかしあかねはそんな友雅に気付くことなく、看護記録を手にとって言った。
「明日の診療に差し障りますよ?早く帰って眠って下さい」
「・・・・君はそれで平気なの?」
 溜息混じりに問われれば、あかねは口を噤むしかない。
 友雅は椅子にゆったりと凭れ掛け、長い足を組みかえた。


「・・・平気なわけないです」
 小さな小さな声だった。
 あかねは看護記録を机に置いて、友雅の前に立った。
 そして軽く膝の上で組まれた友雅の手を取って言った。
「平気じゃないけど、友雅さんには無理してほしくないです。それでなくてもハードワークなのに・・・・。友雅さんの診療を待っている患者さんも沢山いらっしゃいます。私が我儘ばかり言うわけにはいかないもの」
 いつもあかねが夜勤の時には必ず顔を出す友雅に、悪いと思いつつ甘えている。
 あかねよりもずっと多忙な筈なのに、一緒にいる時間を作ってくれる友雅には無理をしてほしくなかった。
 友雅はそんなあかねの優しさをうれしく思いつつ、少しの物足りなさを感じていた。
 可愛い年下の物分りの良すぎる恋人。
 もっと我儘を言ってくれたほうがよかった。
 友雅は自分の手を握るあかねの手を、しっかりと握り返した。
「心配はうれしいけど、またあのコールがあったらどうするの?」
「うっ!」
 とたんあかねの顔が泣きそうに歪む。
 さっきはいきなりの事で恐怖など感じなかったようだが、今は違った。
 友雅は笑いをこらえて、あくまで親切ぶって申し出る。
「一緒にいてあげようか?」
 それはあかねにとって最高の誘惑。
 しかし友雅を煩わせるのは本意ではない。
 でも、今日は怖い。
 そこで駄目押しの一言
「大丈夫だよ。私はちゃんと眠るから。何かあれば起こせばいい。それならいいだろう?」
 一気にあかねの中の天秤が傾いた。
「・・・本当にちゃんと睡眠とってくれますね?変な事しませんね?」
 変なことって何?
 などという墓穴掘りをするような男ではない。
「あかねが心配しないよう休むよ」
 と、都合の悪いことは黙殺するのみ。
「じゃあ・・・・、今夜だけ、お願いします」
 あかねは申し訳なさそうに、ペコリと頭を下げた。
 機嫌よく微笑む友雅の思惑も知らずに・・・・




「きゃー、何してるんですかぁぁぁぁ!!」
「うん?何ってキスだよ?」
「キスって、どこにしようとして!友雅さん!」
「ふふふ、どこだろうね?」
「勤務中です、先生・・・・、やぁ・・・・」
「あかねは可愛いねぇ・・・」


 その後、あかねはどんな事があろうと夜勤の時に友雅と過ごすことはなかった。
 友雅と過ごす方が、よほどスリルだと気付いたからだった。



                                      <終>
                                     02/07/14





ナースコールは突然に・・・
すみません、ふざけたお話で・・・・(汗)
何となく軽いお話を書きたかったのです。
いや、いつも軽いけど・・・・
今回はあかねちゃんをナースにしてみました。
白衣の天使〜
ちなみに不思議なナースコールは、私の友達が夜勤で実際に経験したものです。
去年だったかな?
彼女の所も、夜勤は一人。
本当に部屋を覗きに行ったそうです。
何もなかったそうですが、次の日婦長さんにびっくりされたらしいです。
「よく見に行けたね」って
私もびっくりしたよ。

友達はいつも楽しい話をしてくれます。
注射を痛がる患者さんには
「よかったね〜、生きてる証拠だよ」
と言って、注射を続けるそうです。(もちろん人をみて言うらしいが)
でも、看護師さんのハードワークには脱帽です。
本当にありがとう!!




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