「ただいま」
 玄関で、部屋の奥へと小さく控えめに声を掛ける。
 部屋に誰かがいてもいなくても、必ずする儀式。
 けれど今日は、あの人がいるのは分かっていた。
 玄関に、男物の黒い革靴が一足揃えて置かれていたからだ。
 しかし部屋の中であかねの帰宅に気付いて、人が動く気配はない。
 いつもなら、こちらまで来ずとも、声くらいは掛けてくるのに……。
 あかねは怪訝そうに靴を脱いで、部屋に上がった。
 そして何気なく少しだけ開いていた扉の奥を覗いて……。




「寝てたんだ…」
 その人は遮光カーテンがひかれた薄暗い寝室のベッドで静かな眠りに落ちていた。
 日頃は他人の気配に敏い彼だが、あかねの帰宅にはまったく気付かずに眠り続けている。
 あかねは何かに導かれるように、その人の元へと歩み寄った。
 疲れているのだろうか?
 目元に少しだけ疲労の翳が落ちている。
 いつも大人の余裕であかねをからかって怒らせてばかりいる彼も、こうやって目を閉じていれば少しだけ幼く見えた。





 両親が事故でこの世を去ってすぐ、あかねは唯一の保護者となった義理の兄である彼に捨てられた。
 彼はあかねの母の再婚相手の息子だった。
 すでに独立していた彼とは一緒に暮らしたことはなかったが、家に立ち寄った時はいつも優しく微笑んであかねの相手をしてくれていた。
 大人だった義兄。甘やかすのもほどほどに、と母に苦笑されるくらいあかねに優しかった義兄。
 あかねは義兄が大好きだった。
 だから、両親が不慮の事故で亡くなった時、悲しくて淋しくて辛かったけれど不安は少なかった。
 いつもあかねの隣に義兄がいたから。
 彼はあかねが不安に陥る前に、慰めるように肩に手を置いてくれたから。





 大丈夫だと思った。
 大好きだった両親と二度と会えなくても、悲しくても、義兄がいれば大丈夫だと。




 
 それが子供の幻想だと知ったのは、喪が明けて新しい学校に転校する前の日の夜だった。
 リビングから聞こえてきた、深夜の義兄の電話。
 その言葉を耳にした瞬間、あかねは義兄が何故あれほど熱心に寮制のある学園への転校を薦めたのか理解した。




 
 義兄はあかねが邪魔だった。
 ただそれだけ。
 だから義兄はあかねを、学校という世間に対して言い訳の立つ檻の中へ捨てたのだ。





 偶然、彼の電話を聞いていなければわからないくらい、巧妙に子供のあかねは捨てられた。





 いつもと変わらぬ優しい笑顔で、最もあかねの事を考えているように振舞いながら、義兄はあかねをたった独り、誰一人頼る友人のいない学校へ捨てた。





 あれから何年たったのだろうか?
 二度と会わないと決めていた義兄に再会したのは、あかねが受診した病院の診察室。
 義兄はドクターとしてあかねの前に座っていた。
 昔と変わらぬ笑顔で……。
 そして……。彼は逃げようとするあかねを捕まえ、あまつさえ強制的に学園の寮を引き揚げさせたのだ。
 それから、あかねは義兄との暮らしを余儀なくさせられていた。





 一緒に暮らしたくなんてないのに。
『家族だから』
 なんて偽善者ぶった言葉を並べて、義兄は笑う。



 まるであの決別の日を忘れたかのように……。



 私を捨てたくせに!
 邪魔だと思ってるくせに!!
 




 それなのに、何故自分はここにいるのか……。
 昔のようにあかねだけを見つめて優しく微笑む義兄から目が離せなくて……。
 まだ両親が生きていた頃のように、愛されていると信じたくなる。





 ワタシハ、アノヒトニトッテ、ジャマモノナノニ。





 あかねは眠っている彼を見下ろし、そっとベッド脇の床に膝をついた。
 青いピロウに広がる波打つ髪を一筋、あかねは指先にからめた。
「一度捨てたなら、拾わなければいいのに……」
 二度と振り返らなければ、あかねはずっと彼を憎んでいられた。
 こんな苦しい想いを抱えなくてすんだ。





 胸がきつく締め付けられて苦しくなる、強い鮮やかな想い……。




 憎くて、憎くて………、恋しくて……。




 義兄の穏やかな寝顔を見つめながら、あかねは静かに瞳を閉じた。
 睫毛が翳を作る白い頬に、一筋の涙が流れる。
 



 好きだったから許せなかった。
 愛しているから、それ以上に憎かった。




 あかねの正の感情も、負の感情も、すべてが義兄に向いている。
 



 義兄にとって、あかねはただの義妹。
 あかねも過去を水に流してしまえば楽になれると分かっていた。




 それでも……。
 艶やかなあの人は、子供から少女へ、そして娘へと変わりゆくあかねのすべてを惹きつけてやまない。




 誰よりも憎くて、誰よりも愛しい人……。




 この想いは封印しなければならないから。




 だからあかねは義兄を強く憎む。
 胸に秘めた恋心より、もっと強く激しく。




「狂って、しまいそう……」




 愛しくて、恋しくて、哀しくて、苦しくて、憎くて……。

 


あかねの頬を、涙が幾筋も静かに零れ落ちていく。
「助けて……」
 誰か、この激しい想いから解き放って。





「苦しいよ…。助けて、お兄、ちゃん」





 あかねを救えるのはただ一人。
 この戀獄に落とした人だけ……。




 けれど、あかねの声はまだ届かない。
















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