「せんせー!私、帰るからね!」
 キッチンから、いつものように仕事の終わりを告げる声がする。
 日頃ならそれに軽く返事をし、パタパタと軽快な足音を残して部屋を去っていく小柄な彼女を見送るのだが……。
 翡翠は、長い髪を無造作にかき上げながら、ゆったりと身を沈めていたソファーから立ち上がった。





「花梨?」
「わあっ!びっくりした!!」
 キッチンに何の前触れも無く現れた雇い主の姿に、夕方からの仕事着であるエプロンを外しかけていた花梨が、びっくりして声を上げる。
 花梨の盛大な驚き方に、翡翠が楽しそうに喉の奥で笑った。
 大袈裟に驚いた花梨は、そんな翡翠の態度にむっとして、可愛い唇を尖らせる。
「何か用ですか?先生?」
「ん?…たいしたことではないのだけれど、君、昨日休んでいたね?」
「はい。それが何か?」
 事前にきちんと申請して取得した有給休暇。
 もちろん雇い主である翡翠も了承していたはずだし、今更それについて文句を言われるとは思えないが……。
 花梨は不思議そうに首を傾げ、翡翠に問い返した。
 たいしたことではないのだけれど……、と前置きして翡翠が言った。
「昨日、院内のインフルエンザの予防接種をしたのだよ。君はまだだろう?ついでだから、今打って……」
「結構ですっ!」
 花梨は、翡翠の言葉を途中で遮り、きっぱりと彼の申し出を拒絶した。
 その花梨の強すぎる反応を、翡翠が怪しむように僅かに目を眇めた。
「花梨?」
「明日、千歳にでも打ってもらうから、先生がわざわざしてくれなくていいですよ」
 にっこり…。
 そんな表現が似合いそうなほど満面の笑顔。
 その笑顔が、心なしか引きつっているように見えるのは、翡翠の気のせいだろうか?
 毎年恒例、スタッフの予防接種。確かにそれを翡翠が直接行うことは無い。
 有能な看護師達が、手際よくスタッフ全員に接種させていくのだ。
 花梨が言うように、別に明日でもかまわない。
 けれど……。
 何故だか分からないが、ここまで気持ちいいほど拒絶されたら、是非にでも花梨を捕まえてワクチンを打ってやりたい気になる。
 翡翠は花梨の笑顔に負けないくらい、にっこりと綺麗な笑顔を浮かべた。
「遠慮はいらないよ?」
 ……うさんくさすぎる。その笑顔を目にし、花梨の頭の中に危険信号が灯った。
 花梨は引き攣りそうになる口元を、必死に笑顔で固め首を振った。
「いえいえ、お忙しい翡翠先生の手を煩わせるなんて悪いですから…。私はこれで失礼しますね」
 花梨も翡翠も笑顔だ。これでもかというほどの笑顔だ。 
 なのに、このえもいわれぬ緊迫感はなんだろう?
 花梨は翡翠から視線を逸らさず、じりじりと間合いをはかりながらキッチンの出口を目指す。
 翡翠はそんな花梨を視線で追いつつ、逃げだそうとする彼女を少しずつ追い詰めていった。





「あ……」
 均衡が崩れたのは一瞬。
 翡翠だけに集中していた花梨は、足元に落ちていたレジ袋の存在に気付かぬまま、それに足をとられバランスを崩した。
「おっと…」
 ふらついた花梨の身体を支えたのは、すばらしい反射神経で腕を伸ばした翡翠だった。
 腕を掴まれた花梨が、びくりと身体を揺らす。
「捕まえたよ。花梨。観念しなさい」
 翡翠はそんな花梨に、しっとりとした笑みを見せた。






「やだ〜!!先生、滅多に注射打たないじゃないっ!いやだ!!絶対、千歳の方が上手いに決まってるっ!」
「失礼な子だね」
「スキルは絶対看護師が上だよっ!しかも、先生お酒飲んでるし!!それに先生、注射下手そうなんだもんっ!痛いの、やだーーー!!」
 小柄な身体を翡翠の小脇に抱えられながらも、花梨は必死に逃げようとして手足をバタつかせる。
 翡翠は花梨が予防接種を嫌がった本当の理由を耳にし、それはそれは楽しそうに声を立てて笑ったのだ。
「痛いかどうかは、自分で判断してはどうかな?」
「絶対、嫌っ!経験の乏しい酔っ払いなんかに、注射されたくない!!」
「………大人しくしないと、本当に痛くするよ?」
「……明日、打ってもらうもんっ!」
 花梨はあくまでも逃げようと、頬を膨らませて言葉を連ねる。
 そんな彼女に、翡翠はこれみよがしな溜息を落とした。
「花梨?雇い主の意向に逆らうなら、考えがあるよ?」
「…何?」
「減俸」
 翡翠が宣言した瞬間、花梨がピタリと大人しくなった。
 やはり一人暮らしの身には、収入が減るのはインフルエンザを打たれるよりも痛いことらしい。
 やっと観念して大人しくなった花梨を、翡翠は処置室のベッドに座らせた。
 静かになっても、やっぱり花梨の顔は不満だらけの膨れっ面。
 翡翠はトレイにワクチンなどを揃えていく。





「先生、問診は?」
 どんなに拒否しようと、翡翠から逃げられない(逃げたら後が怖い)と悟った花梨は、嫌々ながらも接種に必要な事をすっ飛ばそうとしている翡翠に尋ねてみる。
「花梨は健康優良児だろう?」
 案の定、返ってきたのはそんな一言。
 確かに健康だし、大病もしたことないし、ここ最近は病院にだってかかってない。
 市販薬さえ飲んでいないから、翡翠の言うとおり大丈夫だろう。
 でも……。





「先生?せめて体温くらい測ったほうがいいんじゃない?」
「そうだね。それは必要かな?」
「あ、じゃあ、体温計とって来る」
 花梨はすばやい動きで立ち上がる。
 あわよくばこのまま逃走してしまいそうな勢いである。
 それに気がつかない翡翠ではない。
 彼は、トレイ片手に花梨に近づき、その肩を軽く押して、花梨を再びベッドに座らせた。
「その必要はないよ」
「えっ?でも体温測るって……」
「もちろん測るよ。でも体温計は必要ないね」
「は?何で?」
「ん?こうやって測るから…」
 大きな手が包むように添えられ、ぐっと力を増した次の瞬間、翡翠の整った美貌が花梨の目前に近づいた。
「っん…。ぅ、んっ…」
 キツク合わされた唇。
 驚いて息を飲み込んだ隙に、するりと翡翠の舌が花梨の中に進入を果たす。
「や……ぁ…」
 翡翠は我が物顔で花梨の柔らかな舌を絡めとり、深く口腔をゆっくりと探ってくる。
 微かな水音が、花梨の耳を擽り、苦しさと恥ずかしさで甘い声が飲みきれなかった蜜とともに漏れた。
 頬を染め、濃い睫毛に縁取られた瞼が、戸惑いと羞恥とほんの少しの情欲の色を乗せて震えている。
 翡翠は薄く開けた目で、花梨の様子を楽しみながら、彼女をキスだけで翻弄する。
「ふ……、翡、翠…さぁ…ん」
 舌足らずな甘い声が、アルバイト娘から翡翠の恋人へと花梨の意識が変わったことを告げた。
 翡翠はその声に満足そうに笑み、花梨の下唇を軽く啄ばむように吸ってから身を起こした。





「平熱、だね」
「……ばか」
 真っ赤に頬を染め、煽られた熱で潤んだ瞳で睨んでくる花梨に、翡翠は目を細めて静かに笑んでみせた。
「手っ取り早いだろう?」
「もうっ!」
 怒って頬を膨らませ、ぷいっと顔を逸らすその仕草さえ可愛らしい花梨は、自然体で翡翠を楽しませてくれる。
 翡翠はくすくすと笑いながら花梨の袖を捲り上げ、肘の少し上に消毒を施すと、その部分を強く掴んでからプスリと針を刺した。
「あ、痛くない………。って、いったーーーい!!」
 針を刺した瞬間はあまり痛みはなく、楽勝と思った花梨だが、薬液が注入され始めるととたんに痛みが広がっていった。
「仕方ないだろう?ほら、終わり」
 カラン…、っと使った注射器をトレイに転がして、打った痕に小さな絆創膏を貼った。
「あ〜、痛い」
「たぶん、赤くなると思うからね」
「いつものごとく、か……」
 打たれた部分を揉みながら、やれやれと立ち上がる。
「花梨」
「はい?」
「支払い」
 翡翠の一言に、花梨が呆れたように目を見開いた。
「はぁ?お金取る?冗談でしょう?」
 花梨の抗議に、翡翠は口の端を少し上げる。
「ふふふ……。お金でなくともいいけど?」
「もう、仕方ないなぁ…」
 花梨は溜息を吐くと口元に笑み浮かべ、翡翠の襟を掴むとそっと踵を上げた。










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