天上の調べ
「痛っ!」
ビィィ・・・ン。
あかねの小さな叫びと同時に、弦の切れる鈍い音が部屋に響いた。
瞬間、あかねが右手をはねのけ、撥を取り落とした。
「あかね様!?大丈夫ですか?」
あかねと向かい合わせに座っていたのは、あかね付きの女房、八重。
「大丈夫だよ」
心配性の八重に笑いかけながら、あかねは弦で弾いた指を口元へ持っていこうとした。
その手を八重がすばやく掴む。
「八重さん?」
あかねが不思議そうに八重を呼ぶと、彼女は神妙な表情で首を横に振った。
「いけませんわ、あかね様。すぐに手当てをいたしますから、どうぞそのままで・・・」
「はい・・・」
しゅん、としておとなしくなったあかねに、八重が優しく微笑みかけひとつ頷く。
まるで姉のように母のように、柔らかく包み込んでくれる八重があかねは大好きだった。
八重はあかねより5つほど年上の女性だ。
京の生活習慣などを教えてくれたのは、藤姫と八重だった。
「八重さん、私出来るのかなぁ?」
ちらりと傍らに置いた『それ』をあかねが不安気に見下ろす。
その様子に、八重はクスクスと笑いながら他の女房に手水の用意を頼んだ。
そしてあかねの手を取ってギュッと握った。
「大丈夫、あかね様は筋がいいですから、きっと上手になれますわ」
「・・・・本当?」
「はい。藤姫様と楽を合わせられるのもそう遠くないと思います」
八重の言葉に、あかねははにかみながらも嬉しげににっこりと笑みを浮かべ、次に頬を染めつつ上目遣いに恥ずかしそうに聞いたのだった。
「・・・・・・・・・・・友雅さんは?」
そんなあかねの初々しさに、八重の方も幸せな気分になってしまう。
「大丈夫ですわ。ただ・・・」
「ただ?」
「橘中将様は、宮中でも並ぶ者無き琵琶の名手。合わせるのならば、やはり琵琶より琴の方がよろしいかと存じますが」
八重の提案に、あかねはハタと気がつきガックリと肩を落とし呟いた。
「・・・・・・・しまった・・・。考えてなかったよ」
あかねの傍らには、見事な螺鈿を施された琵琶が、一本、弦が切れたまま寝かされていた。
鬼との戦いが終わったあと、あかねは現代に帰らず、京に残る事を選んだ。
現代が嫌だったわけではない。
ただ自分の世界より、たった一人の人を失いたくなかったから。
神子であるあかねを守る八葉として、彼と出会った頃は苦手だった。
あかねの倍近く年上の優美で華やかな人。
それなのに、自分の人生を冷めた目で見ていた人。
あかねが迷った時には、さりげなくいくつもの道を示してくれた広い視野を持った人。
いつから惹かれたのか、わからない。
華やかな外見に比例して、見目麗しい女性の影が常にちらついていたから、これはきっと片恋だと思っていた。
だから想いが通じたときは、奇跡だと思った。
まっすぐ自分へと伸ばされた手を離したくなかった。
求められるまま、素直にその腕へと飛び込んで・・・・。
そして、あかねはこの京に生きることを決めたのだった。
「あかね様、左近府中将様が、お渡りになります」
「えぇ!?」
御簾の向こうから、控えめに掛けられた女房の声に、あかねは慌てて傷を負った指を拳に握り込んだ。
「あかね様、お手当てを・・・」
「いい、いいです。それより琵琶を片付けて!」
あかねの取り乱しように、八重はクスリと笑いを洩らしたが、とにかく焦っているあかねは気がつかない。
渡殿の彼方から女房達のざわめきが近づいてくる。
あかねは琵琶を几帳の影に押し込み、自分を見下ろして、着慣れない装束に乱れは無いか、帯の結び目、襟の合わせなどを確認したが、着付けをしてくれた左大臣家の優秀な女房に抜かりは無かった。
でも・・・・。
「来るの、早すぎるよ〜」
部屋の中で焦るあかねの耳に、ゆったりとした女性ではありえない、重さを感じさせる足音が聞こえてきた。
御簾に映る影。
たっぷりと空気を含んだ直衣を身に纏い、長く波打つ髪は相変わらず無造作に背に流されていて、手に持った蝙蝠を口元に当てた姿。
御簾の向こうの女房がその人に向かって深く頭を垂れたのが、映った影でわかった。
彼は優雅な仕草で、軽く袖を払って簀縁に膝を付く。
そして、あかねの心を蕩かすような甘い声で問うのだ。
「あかね殿?入ってもよいかな?」
と・・・・。
「はい!ど、どうぞ・・・」
あかねの声とほぼ同時、断られることなど考えてもないのか、彼は手に持った蝙蝠で軽く御簾を押し上げ、少し頭を下げて滑り込むように中へ入ってきた。
その所作さえ、流れるように隙なく、不覚にもあかねはうっとりと見惚れてしまった。
まっすぐに注がれるあかねの視線を心地よく受け止めながら、友雅は八重の用意した円座に腰を下ろす。
そして八重は一礼すると、静かに部屋を辞して行った。
女房達の姿が遠のいてから、やっと友雅が口を開いた。
「今日は何をしていたの?」
「あ、えと・・・、八重さんとお話とか色々・・・・」
「そう、退屈ではなかった?」
悪戯めいた視線と含みを加えたその問いに、あかねはちょっと肩をすくめて苦笑いを浮かべた。
「少し・・・。お邸の中ばかりだから・・・・。それにこの着物も着慣れなくて、動きづらいです。綺麗だから好きですけどね」
「活発なあかね殿には、可哀想な事だけれど、左大臣家の姫としては仕方が無いね」
「・・・・わかってます。」
ぷうっと頬を膨らませて拗ねる姿はまるで頑是無い童のようだ。
友雅は少し開いた蝙蝠を口元にあて、微かな笑みを浮かべ愛し気にあかねを見つめた。
友雅の視線に気がついたあかねの肌が、羞恥にほんのり桜色に染まる。
二人の間に下りた沈黙が、ますますあかねの恥ずかしさを煽って彼女を慌てさせた。
「あ、あの、友雅さんは何をしてたんですか?」
とにかく会話を続けようと、あかねは身を乗り出さんばかりの勢いで友雅に訊ね返した。
「そうだね・・・。特別なことは何も。内裏で仕事をしていただけだね・・・・。ところで、あかね殿?」
「はい?」
首を傾げ、次の言葉を待つあかねに友雅は手を伸ばすと、その小さな白い右手を掴み上げた。
「あ!」
「この傷はどうしたの?見たところ新しい、つい今しがた怪我をしたような傷なのだが?」
「こ、これは・・・・」
「切り傷だね。何で切ったのかな?」
「え・・・っと・・・・」
あかねがうろうろと視線を彷徨わせ、誤魔化し方を考えているは明白だ。
友雅はすっと怪しく目を眇めた。
「きゃあ!!何するんですかぁ!!」
「何って治療を」
「そんな治療ありません!!」
顔を真っ赤に染め涙目であかねが抗議したが、友雅はかまわず傷口に唇を寄せた。
「やだ・・・。友雅さん・・・」
恥じらいに身を捩った瞬間、カターンと固い何かが床にすべり落ちた。
それを目にしたとたん、あかねは慌てて隠そうとしたが、紙一重で友雅の手の方が早かった。
「・・・・撥?」
友雅の手にあるのは、彼も見慣れた琵琶の撥だった。
「何故こんなものが、ここに・・・・?」
「それは・・・」
言葉を濁したあかねの視線がほんの少し留まったところ、几帳。
それを見逃さなかったのは、さすがと言おうか…。
「ダメ!!」
あかねの制止は間に合わなかった。
サッと払われた布地の向こう、そこに柔らかなまろみを帯びた琵琶が横たわっていた。
「これは・・・・」
ふわりと友雅の頬に自然と深い笑みが浮かぶ。
「もしかしてあかね殿は、八重と琵琶の練習をしていたのかな?」
「・・・・・そうです」
証拠を押さえられては言い逃れをするのも馬鹿みたいだと思ったあかねが、不満げに唇を尖らせて答える。
琵琶を側に引き寄せた友雅は弦が一本切れていることに気がついた。
「これで怪我をしたのだね」
「はい、弦が切れて・・・・」
「そう。でもどうしたのだね?突然琵琶を練習するなんて。もしあかね殿が楽を始めるのならば、藤姫のお好きな琴かと思っていたよ」
友雅は同じく几帳の影に押し込まれていた箱から、新しい弦を取り出すと琵琶を片手に抱いたまま、端を銜えてシュッと弦を伸ばした。
友雅が手際よく切れた弦を張り替えていくのを眺めながら、あかねは素直に話し始めた。
「昔からね、何か楽器が弾けたらいいな〜と思ってたんです。それに今はあまり外に出ちゃいけないから、結構暇を持て余しちゃって・・・。あっ、でもちゃんと歌や字の練習もしていますよ。 それでも、やっぱり時間が余って・・・。そしたら、友雅さんが以前奏でてくれた琵琶の音色を思い出したから・・・」
「習ってみようと?」
「はい、それに琴より弦が少ないから、いいかな〜っと」
最後のいかにもあかねらしい可愛い理由に、友雅はクスリと笑みをこぼす。
「で、どうだったのかな?」
「うぅ・・・。やっぱり難しいです・・・・」
「あかねの琵琶が聴きたいのだけれど・・・」
「絶・対・無理!!です」
「・・・・そこまで力説しなくともいいのだけれどねぇ」
友雅はがっかりと肩を落として息を吐いた。
「だって始めたばかりですよ?友雅さんに聴かせられるようになるのは、まだまだまだまだ先のことです」
「・・・・・ずいぶん長くかかりそうだね?」
「仕方ないじゃないですか。琵琶を目の前で聴いたのも触ったのも京に来てからですよ。もっと馴染んだら、音とかも少しは分かるようになるかもしれませんが・・・・」
「・・・・で、その期待に満ちた目はなんなのかな?」
「え?いや、友雅さんは琵琶の名手だから、その音を聴いたらより理解が深まるんじゃないかな〜って思っているだけです」
キラキラと瞳を輝かせ、おねだりされては、さすがの友雅も頷くしかなかった。
「姫君のご希望とあれば仕方がないね」
「ありがとうございます、友雅さん」
ぱぁっと広がる明るい微笑み。
友雅は何よりこの笑顔に弱かった。
「やっぱり、友雅さんが音を整えている姿、好きです」
琵琶を奏でる為、調弦をしていた友雅を見つめ、あかねが日頃は絶対に口にしないような事をぽつりと呟いた。
「うん?どうしたんだい、いきなり」
キリッと弦を締め、撥で一つ弾いて音を聴く。
そしてまた次の弦へと移りながら、友雅は正面にちょこんと座しているあかねを見つめた。
あかねは友雅の手元を見たまま、照れくさそうに肩をすくめた。
「私、こうやって琵琶の用意をしている友雅さんを見るのが楽しい。これからどんな曲が聴けるんだろうって、期待してドキドキするの」
「そう・・・」
「それに、弦を締めている友雅さんの手が大きくて、男の人の手だなぁと思う。でね、安心するんです」
「何故?」
「何故だろう?よくわかんないな・・・・。もしかして友雅さんがここにいるって事を再確認してるのかもしれませんね。友雅さんの音は好き。うまく口に出せないけど、好きだなぁ・・・・」
「・・・・・・琵琶の音、だけかい?」
いつものからかい口調で友雅はあかねにそう訊ねた。
先程から、確かにあかねは『好き』と言っているが、琵琶の音だったり、音を合わせている姿だったり・・・・。どうも素直に喜べない。
だから、あかねが素直に答えないと分かっていても、聞かずにはいられなかった。
それ『だけ』が好きなのかと。
あかねは友雅の問いに、言葉を詰まらせてしまった。
『琵琶の音』が好きなのではない、『友雅が奏でる琵琶の音』が好きなのだ。
そんなこと、きっと友雅は知っている。分かっていてわざと聞いてくる。
あかねが恥ずかしがって困ることが分かっているから。
きっと、あの底知れない笑顔の下で、あかねの困惑を楽しんでいるのだろう。
だったら、たまには・・・・・・。
「違います。友雅さんが紡ぐ音だから好きなんです」
ほんの僅かに友雅の瞳が驚きに見開かれる。
まっすぐ、澄んだ瞳で告げられれば、もう友雅の負けだった。
友雅は、口の端に微苦笑を浮かべ、音を合わせ終わった琵琶を軽く弾いた。
「今日はやけに積極的だね、あかね殿。どうしたことか・・・」
「ふふ・・。どうしてでしょうね・・・・」
少女の笑顔に一瞬よぎる女の表情。
子供だった少女は少しずつ、大人になっていっているのだろうか?
友雅はゆっくりと視線を落とし、琵琶を抱えなおした。
「さて、では今宵はあかね殿の為に奏でようか・・・・」
宵闇に包まれる頃、左大臣家の一角から、それは見事な琵琶の音が流れる。
その音色に、もう一つの『音』が重なるのは、もう少し後のことであった。
<終>
02/11/14
久しぶりの更新です。
でもなんだか、中途半端なカンジ・・・・。
すみません。
だめだなぁ。
高校の頃、正規クラブ活動で1年間、筑前琵琶を習っていました。
もう覚えてないけど(笑)
音を合わせるのが好きでした。
キリキリと弦締めていく感覚が、緊張してよかったなぁ。
こんなことなら、もう少し気合いれて習えばよかったよ・・・。
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