「姫様……。そろそろお休みくださいませ」
夜も更け、いつもならば褥に横になっている時刻になっても動かないあかねに、遠乃は声を掛けた。
「もう少しだけ…」
「いけません。どうなさったのですか?今宵に限って……」
「……」
「姫様?」
唇を噛んで俯いてしまったあかねを見て、遠乃は訝しげに眉を寄せた。
「……から」
「え?」
小さなあかねの呟きが聞き取れず、遠乃は軽く膝でいざって側に寄った。
「どうなさいました?」
「兄様と今日は会ってないから……」
「お帰りを待つ、と?」
途切れたあかねの言葉の後を継いだ遠乃に、あかねはこっくりと頷いてみせた。
しかし……。
兄を慕う健気なあかねに、遠乃は困ったように微笑んだ。
「殿はきっと遅くおなりですわ。宿直かもしれませんし……」
「……嘘ばっかり」
遠乃の言葉を、あかねは哀しげな苦笑を淡く浮かべ途中で遮った。
「姫様?」
「遠乃が兄様の宿直を知らないはずがないわ。……女君のところなんでしょう?」
「……」
まだあどけなさが残る箱入りのあかねに図星をさされ、遠乃らしくなく一瞬言葉を失ってしまった。
「梨壷かしら?二条かしら?それとも四条?とても美しい方ばかりだと聞いたわ」
「白雪の姫!」
あかねらしくない下世話な問いに、僅かに声を荒げた遠乃。
それで僅かに肩を揺らしたあかねは、ふう…っと息を吐くとさらりと衣擦れの音をさせて立ち上がった。
「休みます…」
「姫様!?」
遠乃の呼びかけにも振り返らず、あかねは独り几帳の向こうへと消えたのだった。
らしくない。
義妹らしくない、この醜い感情。
褥に座って、あかねは顔を両手に埋めた。
秀麗な友雅の微笑みを向けられる女性がいる。
女としてあの逞しい腕に抱かれる姫がいる。
それを考えるだけで、手が、体が震える。
どんなに愛されても、けっしてあかねには与えられないその温もりと激しさを、その身に受けている女がいる。
はらりと、あかねの瞳から涙が零れた。
義妹でいいと思っていたのに。
心のどこかで、女として愛されたいと願っている。
「兄様……」
あかねの切ない呼び声は、友雅に届かない。
「友雅…」
宮中で密かに行われる小さな小さな宴。
その宴の主が、静かに盃を傾ける友雅を呼んだ。
「何でしょう?主上」
年若い主上は、その優しげな顔に悪戯めいた笑みを浮かべ友雅を呼んだ。
友雅はその招きに、少しだけ主上へと近づいた。
主上は口元を少しだけ開いた蝙蝠で覆い、わざと声を潜めて言った。
「噂になっているようだね?」
「噂?」
「あなたの妹姫のことだよ」
意外な人から、あかねの事を切り出され友雅は内心戸惑いを感じた。
主上まであかねの噂が届いているとは予想外だった。
それに年若い主上から、女性について話し出すなどあまり無いことだ。
嫌な予感がする…。
それでも、友雅はいつものように口元に薄く笑みを浮かべた。
「……主上の耳にまで届きましたか?」
「とても、美しい姫だそうだね?」
「まだまだ幼さの抜けない鄙びた姫ですよ。主上が気になさるような女人には程遠いと思いますが」
「そうかな?友雅が隠すとますます気になるものだよ?」
「隠しているわけではありませんが、幼い頃より吉野で育ちました故に、まだまだ雅には程遠く……」
「筝の音色がとても美しいと聞いたよ。友雅とよく合わせているとも……。友雅が自ら教えたのであれば、姫が名手と呼ばれる日も近いだろうね」
「……もったいないお言葉です」
「それでだね。友雅」
「はい」
「私もその噂の姫の筝の音色を聴きたいのだよ」
「主上…」
嫌な予感が的中し、友雅は僅かに顔を顰めた。
側にいた気の置けない公達らも、主上の所望に驚きざわめく。
しかし主上は、周りの動揺など気にもとめず優しい微笑を浮かべたまま友雅に言った。
「姫を参内させたいのだけれど…」
「お戯れを……。作法もしきたりも分かっていない子供のような姫を参内させるなど…」
「左近衛府少将の掌中の珠である、白雪の姫がそのようなことはあるまい?それほどまでに友雅が大切にする姫とは……。ますます会いたくなった」
「主上…。橘家の幼い姫が参内するなど…」
友雅自身は主上の側近であり、懐刀としての地位を内裏で持っているが、橘家は政治の中枢から離れている。
主上が望んだとはいえ、軽々しく参内させるわけにはいかない。
それに参内などさせようものなら、あかねがどうなるのかわからない。
筝の音を聴かせ、それで終りとは到底思えないのだ。
そしてそれは橘家だけの問題ではない。
主上の望みを聞いた有力貴族たちがざわめくのは、女御として自分の娘や姉妹が入内しているか、入内を考えているからだ。
女によって、内裏内の勢力図が変わることは珍しくない。
しかしそれに巻き込まれれば、あらゆる危険が付きまとう。
あかねをそんな世界に放り込むことなど出来ない。
友雅は表面上は落ち着いていたが、内心は激しい焦りに見舞われていた。
何故、主上がそれほどまでにあかねに興味を持ったのか?
主上は涼やかな美貌に静かな笑みを浮かべた。
「無位無官が気になるのであれば、尚侍として参内させるといい」
友雅の控えめな拒絶は、受け入れられなかった。
「主上!!」
尚侍。
それは事実上の入内だ。
友雅は顔色を失い、腰を浮かせた。
しかし……。
「友雅。わかったね?」
温和な主上は、友雅に否やを許さぬ強さで、一方的にそう告げたのだった。
主上の懐刀と称されても、しょせん一貴族である友雅が主上の意向に逆らうことは出来ない。
あかねが入内?
友雅は言葉を失い、慌てふためく公達の声も耳に届きはしなかった。
back | top | next