「白雪?」
友雅の手元を見つめたまま、ぼんやりとしてしまったあかねに、友雅が手を止めて顔を覗きこむ。
いきなり視界に入った涼やかな美貌に、あかねは一瞬で頬を染めてピクンと身体を引いた。
「あ、兄様…」
「どうかしたのかい?」
「あ……、いいえ」
「………まずは指慣らしかな」
あかねが戸惑って視線を所在無げに動かす様に苦笑を洩らし、友雅はそれ以上問い詰めることなく琵琶を奏で始めた。
友雅が膝に抱えた琵琶から、深い響きが紡ぎ出されていく。
しばらくその音色に耳を傾けていたあかねだったが、やがて膝の上に置いていた手をそっと筝に伸ばした。
綺麗に整えられた指先がピンと張られた弦を押さえる。
友雅の奏でる音に寄り添うように紡がれる筝の音。
あかねの音はまだ名手と謳われる友雅に比べると未熟といえるが、友雅にはない女性らしい可憐さと軽やかさがあった。
お互いの呼吸を計って、視線を絡め弦を爪弾く。
やがて友雅との合奏にあかねの固かった表情が、だんだんと柔らかくなってくる。
友雅はその様子を琵琶を奏でながら注意深く見つめていた。
筝を見つめ心持ち伏せたあかねの表情は、わずかに幼さが残るものの、愛らしく美しい娘だった。
友雅は心の中で静かに驚いていた。
いつの間にこんなに美しく育ったのだろうかと。
宮中の美姫達にも決して劣らないその姿と立ち居振る舞い。
腕の中にすっぽりと納まり、すがりついて泣きじゃくっていた幼子の頃から、ずっと見つめてきた友雅の目を奪うほどに……。
友雅を無条件に信じ、まっすぐに見つめてくれる少女が愛しかった。
命のぬくもりと自分には無いと思っていた愛情を教えてくれた唯一の存在。
妹のように、娘のように思い、幸せを願ってきた。
それは今も変わらないはずなのに。
あの忌まわしい夜の後、あかねは友雅にまで無意識の警戒を抱くようになっていた。
きっとあかね自身は気付いていまい。
友雅が近づけば、わずかに強張る体。
屈託の無かった咲き初めの花のような笑みが、どこか憂いを帯びいて……。
あかねが見せる、今までにない友雅への感情に戸惑ってしまう。
幼くして母を亡くした不運な少女に、少しでも幸せな人生を歩んで欲しいと願っている。
それはずっと変わらないのに、心のどこかに不可解な感情がある。
自分でもまだ分からない、それは一体何なのだろうか……。
大切に大切に真綿で包むようにして守ってきた少女。
彼女はこれから、いったいどんな男を愛すのだろう……。
「痛っ…」
ぴぃ……んと耳障りな音と同時に、あかねの小さな声が上がった。
ぱっと筝から弾かれた右手。
「白雪?」
友雅はその声で、一瞬にして物思いから引き戻される。
「あ……、大丈夫です…」
あかねは右手を包み込むように左手で握り、慌てて胸元に引き寄せて微笑んだ。
「弦が切れたのだね?」
「はい……」
張っていた弦が、何かの拍子に切れたようだった。
弦が切れる事自体は、そう珍しくはないのだが……。
友雅は抱えていた琵琶と撥を自分の横に置くと、少しだけあかねの方へいざって手を差し出した。
「見せなさい」
静かだが有無を言わさぬ響きに、あかねは戸惑いながらおずおずと右手を出した。
友雅の手に置かれた、白く滑らかな右手の甲に一筋走った赤い線。
「兄様っ!?」
あかねが驚き、声を上げた。
あかねの傷に口付けるように伏せられた端正な美貌。
肌に直接感じた温もりに、あかねは顔を真っ赤にしてしてしまう。
それが一層恥ずかしく、あかねは袖で赤く染まった顔を隠すように左手を翳した。
「美和、水と薬を……」
うろたえるあかねとは対照的に、顔を上げた友雅が静かに控えていた美和に命じた。
そして懐から取り出した懐紙で、あかねの傷を押さえる。
「痛くないかい?」
「……はい」
友雅は、美和が急いで用意した水であかねの傷を洗い、薬をつけて治療をしてくれた。
「さあ、もう大丈夫」
「…ありがとう、兄様」
恥ずかしさを堪えつつ、治療された右手を引いたあかねは、小さな声で礼を言った。
まっすぐに友雅の顔が見られない……。
きっとドキドキしているのは自分だけ。
嬉しくて、恥ずかしくて、触れられた手が熱を持っている。
ずっとこのままがいいと思った。
一人の女として愛してもらわなくても、妹として愛情を受けられるのならばそれでもいいと。
たとえ友雅が誰かを愛したとしても、義兄妹の絆はきっと切れないから。
このまま、友雅だけを見つめていたい。
あかねは心からそう願った。
叶わぬ願いとは知らずに……。
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