「橘少将」



 不意に渡殿で呼び止められ、友雅は歩みを止めゆったりと振り返った。



「これは……、兵部卿宮様。いかがなされましたか?」
 数人の公達を従えるようにして、友雅へ向って歩いてくるのは、前帝の弟である兵部卿宮だった。
 年は友雅とあまり変わらない。
 宮は微笑がとても爽やかだと、数多の女性の熱い視線を受ける美丈夫である。
 友雅は零れ落ちそうになる溜息を押さえ、宮に向って軽く頭を下げた。
 宮はそれに軽く頷き返すと、友雅の前で歩みを止め、少しだけ開いた蝙蝠で口元を隠し声を潜めて問いかけてきた。
「少将。あなたの大切な宝玉はいかがお過ごしかな?少しお加減がすぐれないと聞いたが…」
 宮の言葉に、友雅の脳裏に素朴な野の花を添えた薄様が浮かぶ。
 そう、兵部卿宮はあかねに熱心に文を贈ってくる公達のひとりでもあった。
 すでにおしゃべりな女房達から、あの夜のことが伝わっていると考えた友雅は、注意深く言葉を選んで答えた。
「…ええ、まだこちらの環境に慣れていないのでしょう。少し体調を崩したようです。元々身体が弱く、物心着く前から吉野で育ってまいりましたので」
「それはおいたわしい……。少しでも彼の君のお心をお慰めできたらいいのだが……」
 あの夜のあとも、何度かあかねに届けられていた宮の文。
 傷ついたあかねの心を癒すように、可憐な野の花を添えた優しい色調の薄様が届けられた。
 京に慣れぬあかねに対して肩肘の張らない素朴な文は、気配り上手な宮らしい心遣いだった。
 しかしそれらがあかねの手に取られることはなかった。
 あかねは以前にも増して、誰からの文にも見向きをしなくなったからだ。
 それを知っている友雅は、申し訳なさそうに目を逸らした。
「……宮のお優しいお心遣い、感謝しております。」
 友雅はただ静かに宮に頭を下げた。






 あかねは心ここにあらずという様子で、目の前に置かれた筝をぼんやりと見つめていた。
 弦に手を伸ばすこともない。
 ただ、その眼差しは筝の向こうに何かをみているようでもあった。
 側に控えている美和も、あかねの深い物思いに声を掛ける事が出来ず、時折落とされるあかねの溜息をただじっと聞いているだけだった。






「白雪の君。ご機嫌はいかがかな?」
 沈黙だけが広がる部屋の御簾が、突然何の前触れもなくしゃらりと持ち上げられた。
 瞬間、部屋に入ってきた影にあかねはビクッと身を強張らせる。
 しかし、長身を屈めるようにして入ってきたその人物を確認すると、強張った身体から力を抜いて微笑んだ。
 友雅に心配かけまいと、無理に笑顔を浮かべているあかねのいじらしさがなんと愛しいことか。
「兄様……」
 友雅はあの夜以来、回りの気配に怯える様になったあかねに気付かぬ振りをして、美和が慌てて用意した円座に腰を下ろし、筝を挟んであかねと向き合った。
 いつもなら輝くように微笑んで友雅を迎えるあかねが、友雅の視線をそっと避けるように顔を伏せた。
「あかね?」
 呼びかけても、戸惑って唇を軽く噛むだけ……。
 誰よりも慕っていた友雅にさえ、あかねはどこか怯えているのかもしれない。
 その様子に友雅が小さな溜息を落とし、目の前の筝に手を伸ばした。
「……兄様?」
 友雅の長い指先が、弦を一本だけ弾く。
 静かな空気を震わす、済んだ音。
 友雅が何気なく弾いただけの弦が奏でた音は、あかねが小さな頃から聴きなれた理想の音でもあった。
 やっと自分の上にあかねの視線が戻ったと分かった友雅は、もう一度弦を弾いて、ふと思い立ったように呟いた。
「久しぶりに白雪の筝が聴きたいね……」
「兄様…?」
 友雅の求めに、あかねが浮かぬ顔で再び視線をそらす。
 元々、弾こうと思って筝の前に座っていたわけではなかった。
 ただ何をする気もなくて……。
 暗く沈んだあかねの表情を見ながら、友雅の胸に耐え難い怒りが湧き上がる。
 初めて手にしたときから、大切に守ってきた掌中の玉。
 いつも幸せに包まれ笑っていてほしいと願っていた。
 それを壊してしまったあの男……。






 許せないと思った。
 あかねが受けた恐怖以上を与えてやるとも。
 しかし、それは出来なかった。
 あの男は愚鈍ではあるが、家柄のおかげで友雅よりも官位が上なのである。
 おいそれと表立ってあの男を責めることは不可能だった。
 不甲斐ない自分にどうしようもなく腹が立つ……。





 そして、あかねの受けた傷を癒せない無力な己にもまた……。





「美和」
「はい!」
 不意に友雅に呼ばれた美和が、弾かれたように顔を上げた。
「私の琵琶を、ここに……」
「は、はい!すぐに!」
 美和は慌てて立ちあがり、友雅の所望する琵琶を持ってくるために急いで部屋を出て行った。
 あかねは友雅の突然の言葉の意味を飲み込めず、不思議そうに小首を傾げた。
「兄様?」
「久しぶりに合わせてみないかい?」
「兄様の琵琶とですか?」
「ああ。こちらへ来て白雪と合奏することがなかったからね。……お嫌かな?」
「そんなっ!………でも…」
「でも?」
「兄様と合奏出来るのはうれしいけれど、最近あまり弾いてないから……」
 己の腕を恥じらうあかねに、友雅は安心させるように微笑んだ。
 あかね以外には決して見せない、優しい笑みで。
「私も近頃、琵琶に触っていないから、丁度いいかもしれないね」
 美和が持ってきた琵琶は、美しい螺鈿が施された趣味の良いものだった。
 それは、以前友雅の琵琶の音に感銘を受けた帝が、職人に特別に作らせ下賜した逸品であった。
 友雅は美和からそれを受け取り、弦を撥で弾きながらゆっくりと音を合わせていく。
 あかねはそんな友雅の姿を、静かに見つめていた。






 幼い頃から、友雅が調弦をする姿を見るのが大好きだった。 
 初めて友雅に楽の手ほどきを受けたとき、手本として弾いてくれた『音』がとても綺麗で、幼いながらも感動したのをはっきりと覚えている。
 こんな風に弾きたい、こんな音を奏でたいと目標にしていたのは、いつも友雅の音だった。
 楽だけではなかった。
 あかねの世界の中心には常に友雅がいた。





 吉野で暮らしていた頃は、滅多に会えなかったけれど、次に会える日を心待ちにしてずっと過ごしていた。
 そして友雅に会った時には、たくさん褒めてもらいたくて、自らすすんで右近に色々なことを学んだ。
 あかねにとって、父であり兄であり師匠である友雅は、誰にも変えられない大切な人だ。
 無条件に慕い続けてきた。
 友雅はその存在だけで、誰よりもあかねを安心させてくれる人。
 ずっとずっと大好きだった。
 その想いが変わる日がくるなど、微塵も考えたことがなかった。






 あかねを襲った突然の恐怖。
 友雅の大きな翼の庇護の下にいたあかねは、今まで自分の身にあんなことが起こるなど微塵も思わなかった。
 耐え難い屈辱と恐怖と絶望と……。
 その極限状態のなかで気付いた、心の奥底にある小さな真実の想い……。
 





 いつから………、何故……、『大好き』の質が変わってしまったのだろうか?
 友雅を想えば温かく幸せだった心が、今は、締め付けられるように痛くて切ない。
 愛しくて、愛しくて……、体中に満ちた想いが涙となって溢れそうになる。
 





 どうして……。
 子供の純粋な想いでいられなかっただろう?






 手を伸ばせば届くのに……。
 この想いは永遠に届かない……。












              back | top | next