人の口に戸は立てられないとはよく言うが、どんなに口止めしてもやはりどこからともなく噂は漏れるものだ。
 おしゃべり雀と言われる女房達の口から口へと「ここだけの話」が広がっていったらしい。
 あの夜の橘邸での出来事は、あっという間に宮中にまで広まっていた。





 
「橘少将殿、なにやら面白い噂が流れているようですね?掌中の珠を守る為、剣を片手に狼藉者と闘ったとか…」





 御簾の奥から、通りかかった友雅に浴びせられた質問と同時に、クスクスとさざめく様な笑い声が聞こえてきた。
 言葉は違えど、同じ内容の質問をもうすでに何度も受けていた友雅は、少しだけ広げて口元に当てた蝙蝠の影で息をつく。
「さすが女房殿はお耳が早い」
「まあ!では、やはり本当のお話ですのね?」
 御簾の向こうで退屈を持て余した華やかで美しい女房達が、興味津々に身を乗り出しているのが分かるようだ。
 友雅はうんざりと、でも表面上はいつものように艶やかな笑顔を浮かべた。
「いつの間にかそんな話になってますが、大袈裟ですよ」
「そうですの?でも宮中ではますます噂になってますわよ。橘少将殿の大切な大切な白雪の君のことが……。少将殿がそこまで大切になさるとは、普通の姫ではあるまいと」
「普通の姫ですよ。……ただ」
「ただ?」
「最近まで、吉野で育ちましたので、まだまだ鄙びたところのある姫で……。その点では普通の姫ではないかもしれませんね」
「まあ……」
 軽い笑いが漣のように広がる。





 きっとこれでまた白雪の君の噂がひとつ増えただろう。
 友雅の言葉そのままに「鄙びた姫」となるか、「友雅が隠すほど大切な姫」となるのかはわからないが……。
 たぶんのその両方が、噂をする本人の都合の言いように使い分けられるのだろう。





 なんにせよ、あかねの噂が広かるのを友雅は苦々しく思った。
 幼い頃に母を悲惨な状況で亡くしたあかね。あの日泣きながら、それでも友雅の言葉を信じてすべてを預けてきた幼子。
 その幸せだけを願っているのに……。





 この内裏で噂が広がれば、それだけあかねに自由がなくなってしまう。
 噂が原因で退屈を持て余す公達の関心を惹けば、戯れの恋を仕掛けるものがもっと増えるだろう。
 本当にあかねを心底大事にしてくれる男であれば反対はしない。
 しかしずっと見てきたこの世界。自分を含めどれだけ不実な男が多いことだろう……。
 そう考えて友雅が苦く笑う。
 本当に、人の事は言えない……。





 どれだけ美しい華を手折ってきただろう。どれだけあっさりとその華達に背を向けてきたか……。
 泣き崩れる女性達を見て哀れとは思えど、失せた興味を再び掻き立てられる事は無かった。
 縋ってくる女に興醒めしたのも数知れず。
 しかし、あかねにはそんな想いを味あわせたくなかった。
 自分勝手な男だと思う。
 けれど、友雅は大切に慈しんできたあかねに不実な男を近づけたくない。
 そして、それ以上に不実な自分を見せたくなかった。
 いつまでもあの明るく優しい笑顔を浮かべていて欲しいから……。
 





 しかし、友雅の想いとはうらはらに噂は勝手に広がっていく。





 橘邸の女房頭である遠乃は美しい蒔絵が施された文箱や、花の添えられた薄様を前に頬に手を当て溜息をついた。
 それらを挟んで、あかね付きの若い女房の美和が小さくなって座っていた。
「あなたがこれらをお断りできないのはわかっているわ。だからそんなに怯えなくてもいいわよ」
「遠乃様……」
「けれど、白雪の君が受け取らないのは確実。困ったわ……」
「最近、数がとても増えてますし……」
「殿曰く、『噂が内裏中に広がっている』らしいわ。まったく、誰がしゃべったのかしらねぇ……」
「………」
 美和は黙って顔を伏せた。
 あかねの側近くに仕えていない女房達が、面白おかしくあの夜の話をしていたのを聞いたことがある。
 きっとその話がどこからともなく伝わっていったのだろう。
 遠乃が再び深く息をつく。
「とりあえず御文が届いているのは、白雪の君にお伝えしないといけないわね。
殿のご機嫌も悪いし……。まったく忌々しいわ、あの男!」
 思慮深い遠乃にしては珍しく、感情のまま苛立たしげに吐き捨てた。












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