室内は嵐が吹き荒れたかのように、無残な有様だった。
几帳は倒れ、香炉は灰を撒きちらして転がっている。
その中に、長い髪と真っ白な絹の単衣を乱して倒れ伏すあかねの姿があった。
あかねは細い肩を震わせて、声にならない声で泣いていた。
友雅は痛ましげに眉根を寄せてあかねを見、自分の着ている直衣を脱ぐと、そっとあかねの側に膝を付きその体を覆った。
友雅はあかねの細く震える肩を抱き、なるべくいつもと変わらぬ口調で安心させるように話しかけた。
「あかね……、遅くなってすまない」
ふわりと鼻腔を擽る侍従のしっとりとした薫り…。
暖かさと懐かしさと何よりも深い安心感を与えてくれるそれに、あかねは泣き濡れた顔を上げた。
「兄、様」
「安心なさい、もう大丈夫だから…」
「兄様!!」
あかねはまたもや危機を救ってくれた友雅の首に、両腕を伸ばして縋りついた。
友雅は力いっぱい縋りついてくるあかねの背を、宥めるように何度も優しく撫でる。
その手にあかねの小さな震えが感じられた。
「あかね……」
怯えきったあかねが哀れで愛しい。
ふと沸き起こった、今まであかねに対して抱いてきた感情と、どこか違うそれは友雅を戸惑わせる。
「兄様、兄様……、怖かった……」
しかし自分の胸に顔を埋めて再び泣き出したあかねを、友雅は一瞬の不可解な感情を振り払ってしっかりと抱きしめた。
「私はここにいるよ……、あかね」
そっとあかねの髪に口付け小さく囁く。
その美しく豊かな髪をゆったりと梳いてやると、あかねは子供のように友雅の衣を握り締め微かに頷いた。
泣いていたあかねがようやく落ち着きを取り戻し、小さくしゃくり上げる頃に友雅はそっと離れたところで控えていた女房達を目線で呼び寄せた。
「部屋を少し片付けなさい。それから白雪の褥を塗籠へ」
女房達は一礼して、友雅の命を忠実に実行する。
やっと気を落ち着けたあかねを怯えさせないため、なるべく音を立てないようにして倒れた几帳などを元に戻していく。
「兄様!?」
あかねは不意に抱き上げられて驚きの声を上げ、泣いて赤くなった瞳で友雅を見つめた。
「今宵は、塗籠で休みなさい」
友雅は塗籠の内に女房が用意した褥の上へ、そっとあかねの体を下ろした。
「兄様……」
友雅は涙で濡れたあかねの頬をそっと拭う。
その優しい指が遠ざかる瞬間、肌から離れる体温が切ないほど淋しいと、何故思ってしまったのだろう……。
あかねは思わず手を伸ばして友雅の手を掴んだ。
その仕草に友雅は微かに笑みを浮かべ、細いその手を柔らかく包み込んだ。
「大丈夫、今宵はこちらで宿直するから……。安心してお休みなさい」
「兄様…」
側にいて欲しいと、願いを口にする事が出来なかった。
今までとは違う、自分の気持ちに気付いてしまったから。
これまでと同じ言葉が、違う想いを持つ事に気付いてしまったから……。
あかねは塗籠から出て行く友雅の背を唇を噛んで見送った。
蘇った記憶。
右近の話を聞いたときは、どこか他人事だった。
母を亡くしたといってもあかねの記憶に母の姿はなかったし、常に右近が側にいて慈しんでくれたから淋しさも少なかった。
だから真実を知った時も淋しいとか悲しいなどの思いよりも、ただただ友雅への感謝と敬愛が心を占めていた。
小さな頃からあかねを暖かく包み込んでくれていた存在。
「兄様」
そっと微かにその名を呟くだけで、心の中は仄かな温もりに満たされる。
あかねは自分の体を包む、友雅の直衣を口元に引き寄せた。
深く息を吸い込むと焚き染められた香が、芳しく香り立つ。
それはあかねが一番大好きな侍従の香り。
他の誰でもない、友雅が纏う香りがあかねにとって最高の香り。
あの時、恐怖に怯えるあかねの脳裏に思い浮かんだのはたった一人だった。
「兄様……」
どうして気付いてしまったのだろう。
何故、自分の生い立ちを知ってしまったのだろう……。
身の危険にさらされて、初めて気付いた心の底の深い深い想い。
義妹だと信じていたら、この想いを封じてしまえたのに……。
友雅はあかねが幼い頃の記憶を思い出すのを望んでいない。
ただ本当の妹として生きる事を求めている。
『友雅様は姫様に二度と悲しい想いをさせたくないのです……』
何かの折に右近があかねに告げた言葉を思い出す。
その痛いほど優しい友雅の想いを壊す事は出来ない。
「兄様…」
一生口にする事の出来ない行き場の無い想いを、あかねは唇だけで呟いた。
「殿、姫様は?」
塗籠から出てきた友雅に、美和が心配気に尋ねてきた。
美和だけではない、他の女房達も不安に揺れる瞳で友雅を見上げている。
友雅はこれ以上騒ぎ立てて、ようやく落ち着いたあかねの心を乱さない為に、女房達を安心させるよう薄っすらと淡い笑みを浮かべた。
「大丈夫。落ち着いたよ。今宵は、私がここで宿直をするからね、皆も安心なさい」
「申し訳ございませんでした。私どもの不注意でございました」
深々と平伏する女房達に、友雅は溜息を吐いた。
「大事がなくてよかったが、もう二度とこのような事が起こらないよう、十分な注意を払っておくれ。私も常にこの邸にいるわけではないのだからね」
「はい、それはもう……」
「わかればいいよ。今夜は下がりなさい。白雪の側には私がついていよう」
「はい。では殿のお褥の用意だけいたします」
女房達はそう言うと、一礼して下がっていった。
友雅はあかねのいる塗籠の入り口に背をもたせかけ、立てた片膝に腕を乗せて座っていた。
まだ少し乱れた波打つ髪を無造作に掻きあげて息を吐く。
この扉の向こうの少女は、ちゃんと眠りについたのだろうか。
恐ろしい夢を見ないだろうか。
想うのは、大切な少女の事ばかり。
友雅は視線を落とし、じっと自分の掌を見つめた。
その手には、今もあかねの震えが残っているようだった。
華奢な体は初めて経験する恐怖に怯え打ち震え、助けを求めて力の限り友雅にしがみ付いてきた。
あの一瞬に、友雅は不埒な侵入者に対する激しい怒りと、腕の中の小さな少女にたまらない愛しさを感じた。
誰にも渡してなるものか、と。
それは今までになかった想い。
冷めた己の心に不意に湧き上がった、熱い感情。
友雅は少女の感触の残る掌を、グッと握りしめる。
そしてその頬に苦い笑いを浮かべた。
「これは、父親の気分というものなのかな……?」
友雅は、初めて抱く不可解な感情に微かな戸惑いを覚えた。
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