あかねは暗い部屋の中を、不埒な侵入者の手を振り解き必死に逃げていた。
几帳を倒し手当たり次第、物を投げつける。
しかし侵入者はか弱い姫の些細な抵抗に怯む様子をみせなかった。
「姫……」
不埒な男は、あかねを怖がらせないようわざとらしい猫撫で声で囁く。
それがよりいっそうあかねの恐怖を誘った。
(怖い、怖い!!)
あかねは狭い室内を男から目を離さず背を向けないようにして逃げた。
言いようの無い恐ろしさに涙が零れる。
追い詰められないように、どうにかして逃れようと震える足を叱咤する。
「姫」
「来ないでっ!」
(怖いっ。どうすればいいの?……でも昔、どこかでこの恐怖を味わった事があるわ……)
恐慌状態に陥りながらも、どこか冷めた頭の隅に思い起こされた記憶。
男に追われ、死に物狂いに逃げたことなど今までのあかねに経験はなかった。
あかねはずっと吉野で、そしてこの京で友雅に守られて暮らしてきた。
真綿で包るむように、優しく大切に大切に育てられたあかねが男に追われたことなどあろうはずがなかった。
でもあかねのどこかが、見知らぬ男に追い詰められる恐怖を覚えていた。
(いつ?……ああ、そうよ……、沢山の男達に追いかけられたわ……。あれは…)
手を引かれ、何度も転びながら逃げていた、あの時。
霞がかった遠い遠い記憶……。
恐ろしさと悲しみとで知らぬうちに封印してしまったあの日の出来事。
あかねの脳裏に、母と別れた幼いあの日の記憶が蘇る。
男達の怒声、母親の悲鳴、そして置いていかれる不安と恐怖。
母に言いつけられたとおり、木の根元で膝を抱えていた自分。
けれども、森の静寂に耐え切れず泣きながら探した母親の姿……。
足が血まみれになるまで歩いて探し出した母親は、倒れ伏してどんなに呼んで揺り起こそうとしても動かなかった。
優しい母の声も二度と聞こえなかった。
動かない母の体に縋って、悲しみと淋しさに号泣する自分の前に現れたのは……。
それは……。
(助けて!兄様!!)
あかねは心の中で、あの日の恐怖と悲しみと焦燥から救ってくれたただ一人の人を呼んだ。
「殿!!お助けください!!」
先触れも礼儀も何も無く、友雅の対の屋に髪を振り乱して文字通り転がり込んできたあかね付きの女房の姿に、くつろいでいた友雅は思わず腰を浮かした。
「美和!無礼でしょう!」
友雅の酒を用意していた年嵩の女房が、驚きと共に若い美和を叱責する。
だが友雅はそれを制すと、激しく息を切らす美和の側に膝を付いた。
「どうした?」
穏やかな友雅の口調に、美和は緊張と焦りとで涙を零す。
それでも必死に東の対から走ってきた美和は、息も絶え絶えに友雅に事の次第を語った。
「姫様の元に、狼藉者が!」
「なっ!」
美和が告げた思いもよらぬ事態に友雅が絶句する。
「姫様をお助けくださいませ!殿!」
(あかね!)
友雅は美和の叫ぶような言葉を聞き終わらぬ内に、太刀を片手に部屋を駆け出した。
「きゃあぁぁ!」
暗い部屋の中、倒した几帳に足を取られあかねは床に倒れ伏した。
「姫……」
「いやっ!!」
吐息が掛かるほどの男の距離に、あかねは悲鳴を上げた。
力で押さえつけれながらも、あかねは必死に体を捩り逃げ出そうとした。
だが男の力にあかねの抵抗も空しく封じられる。
乱れた単衣から白く艶やかな胸元がのぞく。
「いやっ!!」
(いやっ、助けて、兄様!兄様!!)
「姫……、私の想いを受け入れて下さい…」
逸らした首筋に生暖かい息がかかる。
そのおぞましさにあかねは寒気だった。
(いやよっ!どうしてこんな男にっ!)
あかねは屈辱に涙を零しながら声を上げた。
「兄様っ!!」
届かないとわかっているのに、それでも脳裏に浮かぶのはただ一人の人……。
あかねは声を限りにしてその名を呼んだ。
瞬間。
「白雪っ!」
妻戸の向こうから聞こえた呼び声と激しく妻戸を叩きつける音に、あかねはハッと目を見開いた。
あかねに手を伸ばした男も、それに一瞬の怯みを見せる。
「兄様!」
男に押さえつけられ自由を奪われたあかねは、それでも必死に指先を伸ばし妻戸の向こうの友雅を呼んだ。
「ちっ!」
男があかねの口を塞いでも遅い。
「白雪!!」
妻戸を叩きつける音がいっそう大きくなる。
「くそっ!無粋なっ!」
男は忌々しげに吐き捨てながらも、あかねから身を引こうとはしなかった。
部屋の向こうでは、友雅の声を聞きつけた随身達が集まる声もする。
あかねを追い詰めた男は逆に追い詰めらたことを知り、焦りを見せ始めた。
あかねは首を振って、口を塞いだ男の手から逃げ叫んだ。
「兄様!助けて!」
「白雪っ!」
妻戸を叩く音は激しくなるばかりで、今にも破られそうな勢いだ。
男は側にあった袿を掴むと、あかねの体の上から退いた。
そして妻戸へ向かうと、いきなりそれを引き開けたのだ。
「なっ!」
侵入者から扉を開けるとは思ってもみなかった友雅の不意をついて、男は手に持っていた袿を友雅に投げつける。
友雅は体に纏わり付こうとするそれを手で払い退けたが、その一瞬の隙に男は友雅の脇をすり抜けていったのだ。
己の直衣の袖で顔を隠して……。
しかし友雅はすれ違う一瞬に、星明りで侵入者の姿を確認した。
「待てーっ!」
「追うな!!」
「殿!?」
声を張り上げ不審者を追いかけようとした随身を、友雅が止める。
まさが制止がかかるとは思っていなかった随身達は驚いて友雅を見上げた。
その納得いかないと雄弁に抗議する視線に、友雅は厳しい表情で首を振った。
「何も聞くな……。追わなくていい」
追って捉えてもどうにもならない。
侵入者の姿を確認した友雅は、行き場の無い憤りを隠して静かに呟いた。
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