「姫様、お文が届いています」
 楽しげに弾む声で御簾内に入ってきたのは、あかねと年の変わらない女房、美和だった。
 彼女の手には、美しい蒔絵の文箱がある。
 あかねは香を合わせていた手を止めて、美和へと振り返った。微苦笑を滲ませて……。
「美和……」
「また五位の蔵人様からですわ。こちらは兵部卿の宮様から、それと…」
「美和」
 まだまだ続けそうな美和を、あかねは少しだけ強い口調で呼んで止めた。
 美和が悪戯っぽく笑って、首をすくめる。
 あかねは深く溜息を吐いた。
「受け取らないでって何度言えば分かってくれるの?」
「でも姫様。とてもお断りできるような方々のお使いではなくて……」
 確かに美和の言い分にも一理ある。
 あかねが京に連れてこられたのが春、今は晩夏。
 夏の名残と秋の気配が感じられる季節。
 帝の懐刀と称される橘少将が、大切に隠していた妹姫の噂は、あっという間に公達に広がった。
 橘邸から漏れ聞こえる筝の音の繊細さも、男達の興味を惹いた。
 また兄である友雅があかねへの恋文を、相手が宮であろうがあっさり断ってしまうので、ますますあかねへの関心は高まるばがりだった。
 宮中でもその美貌は並ぶものがないと言われる友雅。その妹であれば、かなりな美姫に違いないとあかねへ届けられる恋文は増える一方。
 しかしあかねはその文に返事を書いた事がなかった。
「そうね……。確かに私にはもったいないお方ばかり」
「姫様、一度くらいはお返事なさったらいかがです?殿が何もおっしゃらないとはいえ、内裏でのお立場がございます」
「兄様のお立場を考えるとお返事が出来ないの……。田舎育ちの私は、京の雅を分かっていないから……」
「そんなことございません!姫様は、女御さまにも負けません!」
「ありがとう、美和」
 贔屓目なのは十分分かっているが、あかねは美和の褒め言葉に照れくさそうに笑った。
 その微笑みが、同性の美和から見てもとても可憐で可愛いもので、美和はつられて笑ってしまった。






「ご機嫌はいかがかな?白雪の君」
 魅惑的な声と共に、御簾がさらりと上げられる。
「兄様!」
 滑らかに室内へ滑り込んできた人物を見て、あかねは嬉しそうな声を上げた。
 美和が文箱を持って部屋の隅に控えようとしたが、目ざとい友雅はその文箱に気付いた。
「それはもしかして白雪への文かい?」
「えっ?あ、あの……」
 女房頭でもある遠乃に無断であかねへ文を取り次いでいた美和は、友雅に怯え声を震わせた。
 その怯えに気付いた友雅が、安心させるように軽く笑む。
「君を責めているわけではないよ。ただどなたが文を下さったのか気になってね……。教えてくれるかい?」
「は、はい。五位の蔵人様や兵部卿の宮様などです」
 美和は深く頭を下げて、文の相手を友雅に伝えた。
「そう……。宮様まで」
 少しだけ広げた蝙蝠を口元に当て、薄く笑む。
「兄様?」
 これまであかねが目にした事がない、友雅の冷たい横顔に我知らずあかねは友雅から僅かに身を引いた。
 それに気付いた友雅が、その笑みを綺麗に消してあかねへを向き直った。
 美和が急いで用意した円座に、友雅はゆったりと腰を下ろした。
 美和は二人の邪魔にならないよう、静かに部屋を辞した。
 相変わらず胸元を着崩した直衣姿でくつろぐ友雅に、あかねは呆れたように息を吐いた。
「兄様、女性の前ではきちんとして下さいと、右近にも言われていたでしょう?」
「やれやれ、あかねも私に口煩く言うのかい?」
「兄様こそ。いつまでも私を子ども扱いしないでください」
 拗ねてぷぅっと頬を膨らました姿こそ、童のようで友雅の笑みを誘った。
「あかねは文に返事を書くのかな?」
「………書いたほうがいいのですか?」
 今までの文を無視しまくっていた後ろめたさから、あかねは小さくなって上目遣いに友雅を窺った。
 友雅は少しだけ開いていた蝙蝠を、ぱちりと音を立てて閉じた。
「あかねは書きたくない?お断りも?」
「気の利いたお返事は出来ないもの。兄様に恥をかかせてしまいます」
「私の事は考えなくていいのだよ?あまりお待たせしても失礼だからね……」
「……私へのお文を内裏でお受け取りにならないのは、兄様でしょう?それは失礼ではないの?」
「おやおや、ご存知だったのかい?どうやらおしゃべりな女房がいるようだね」
 そういって笑う顔は、面白がっているようだ。
「兄様がお断りしているのに、文を贈って下さるのも少し困ってしまいます」
 あかねは溜息とともに、くるりと大きな瞳を動かす。
 友雅はスッと手を伸ばし、あかねの豊かな髪を一房取るとその唇に寄せた。
「兄様…」
「私が文の取次ぎを断っているのは、別にあかねから皆を遠ざけたいわけではないよ。ただ私の可愛い白雪を手に入れるには、それ相応の苦労と覚悟をしてもらわければね……。
人に頼って近道をしようなど言語道断だよ」
「兄様…」
「だから、あかねが気になる方がいれば返事を書けばいい。もちろんきっぱりとしたお断りもね。私の事は考えなくていいから」
「……書かなくてもいいの?」
「もちろん。それはあかねの自由だよ」
 友雅の言葉に、あかねはホッとした柔らかな笑顔を浮かべた。






「白雪の君の心を奪うのは、どなただろうね?」
 拾ったあの日から掌中の珠として育てたあかねを見つめ、友雅は感慨深げに呟いた。






「眠れない……」
 そう呟いて、あかねは褥からゆっくりと起き上がった。
 こんな夜に話し相手になってくれる遠乃は、長谷寺詣に出かけていて留守なのだ。
 あかねは、一つ息をつき袿をまとい褥を抜け出して、そっと妻戸を開けた。
 外は星月夜。
 あかねは秋の冷たい風を避けるように、袿の前を寄せた。
 降る様な星空に、あかねは吉野の里を思い出していた。
 何も知らず、おおらかに育ったあの頃。
 外を駆け回るのも自由で……。
 あかねの世界は友雅と右近と邸の者たちだけだった。
 橘家の姫と疑いもせず、ぬくぬくと暮らした日々。
 あかねは美しく瞬く星を見上げた。
「右近……。私は兄様にいったい何が出来るのでしょう?兄様の為に……」
 あの日、あかねの過去を語った右近は、それ以降二度とそれについて触れることはなかった。
 また、あかねがそれを口にするのも許さなかったのだ。
 あかねは変わらず『橘家の姫』だった。






「白雪の君?」
「えっ?」
 小さな小さな声だった。
 あかねは反射的に声のした方向に振り返った。
 そこには建物の影に隠れるように、担ぎ布を被った公達が一人、佇んでいた。
 あかねは見慣れぬ人物に恐れ戦き、ぱっと身を翻した。
 この邸の女房の元に通ってきた公達だろうか。
 吉野にいた頃と同じ感覚で、無防備に外へ出た己の軽々しさを呪う。
「お待ちくだされ!」
「きゃっ!」 
 室内に駆け込み妻戸を閉じようとしたが、男があかねの腕を掴むほうが早かった。
「お放し下さい!」
「白雪の君。私の話をお聞きくだされ!」
「嫌です!放して!」
 あかねは掴まれた腕を振り払おうと、懸命に暴れた。
 しかし、如何せん力が違う。
 暴れれば暴れるだけ、男の指があかねの柔肌に食い込んだ。
「姫様?いかがなさいました?あっ!?」
 物音に気付いた美和があかねの部屋に駆けつけ、飛び込んできた光景に声を失った。
「美和!助けて!」
「ちっ!」
 男は美和の姿を認めると、舌打ちと共に慌てて妻戸を閉じてしまった。
「姫様!姫様!!」
 美和は妻戸に縋って激しく叩く。
 だが、それは空しい音を響かすばかり……。
「放して!いやー!!」
 あかねの絹を裂くような悲鳴が夜のしじまに響き渡った。










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