京の橘邸には、吉野から牛車に揺られて移動した。
裳儀を済ませてからは、あまり遠くへ出歩くことの無かったあかねなので、牛車の揺れにいささか気分を悪くしていた。
向かい合って座る友雅に、具合の悪い顔を見せまいとして、深く俯いて広げた檜扇で口元を隠す。
しかしさすがに友雅の目を誤魔化すことは出来なかった。
「あかね?気分が悪いのかい?」
「……大丈夫」
ようよう小さな声で答えたあかねに、友雅の眉間が寄せられる。
「無理はしなくていいから……。少し休もうか?」
「大丈夫よ、兄様……。もう少しで着くのでしょう?」
血の気の失せた顔色で、それでも友雅を心配させまいとしてあかねが微笑む。
友雅は、微苦笑を浮かべ頷いた。
「もう、京に入ったからね……。本当に我慢できるかい?」
「はい……。お屋敷でゆっくりと休むほうがいいから…」
「そう…。もう少しだけど、我慢できなくなったら言うのだよ?……おいで」
「え?兄様?」
友雅は不意にその腕を伸ばして、あかねの体を引き寄せた。
そしてあかねの頭を自分の胸にもたせ掛け、ふんわりと抱きしめる。
友雅の腕に包まれたあかねの鼻腔を、ふくよかな侍従の香がくすぐる。
「屋敷に着くまで、楽にしていなさい。苦しくはない?」
腕の中にすっぽりと納まったあかねの頬に、乱れてかかった髪を指先で払いながら優しく尋ねる。
あかねは力なく上目使いに友雅を見上げ、こっくりと頷いた。
「……はい」
あかねは友雅の温もりと頬に触れる胸の鼓動に、ほっと息をつき強張った体の力を抜き瞳を閉じた。
橘邸の女房である遠乃は、今日からここへ移り住む新しい主の為に、東の対屋を整えていた。
すでに友雅の両親は亡く、今までは友雅のみが暮らしていた屋敷なので、少女の好むような調度を新調したばかりなのだ。
すべて友雅の指示通りとはいえ、最終的な配置決めは姫君を迎えに行った友雅に代わって、右近の娘であり友雅の乳母子である遠乃に一任されていた。
「遠乃様、殿がお帰りになりました」
年若い女房の声で、遠乃は焚き始めたばかりの香炉を置いて、さらりと衣擦れの音を立てて立ち上がった。
「殿は?」
「車寄せです」
「まだ?」
てっきりこちらへ向かってきていると思った遠乃が訝しげな声を上げる。
「はい。姫様のご気分がすぐれないようで……」
「まぁ……。それは大変」
遠乃は心配気に眉宇を寄せ、足早に車寄せに向かった。
車寄せでは、すでに降り立っている友雅が、車の中の少女に笑い混じりに話しかけているところだった。
「殿!」
「遠乃」
「お帰りなさいませ、殿。姫様のご気分がすぐれないとのことですが、大丈夫なのですか?」
「慣れぬ車に少し酔ったようなのだよ。それより、私の白雪の部屋は整ったのかい?」
「はい、姫君の部屋はすでに……」
「そう……。白雪の君、いつまでもそこにいても仕方がないよ。早くおいで」
友雅は笑いながら言って、車の中に腕を伸ばす。
すると、中から小さな非難の声が上がった。
「一人で歩けます!降りられないからそこを開けて下さい、兄様!」
「駄目だよ。まだ顔色が悪いじゃないか。私の大切な妹姫に万一の事があっては大変だからね、おいでなさい」
その蕩けるような優しい口調に、側にいた遠乃はやれやれと肩をすくめた。
母の右近がまだ存命中、何度となく遠乃に宛てた文の中に、いつもの友雅ではありえないような優しさと甘さを妹姫に与えているとあったのは本当だったらしい。
母に会うため、吉野を訪ねた時にあかねとも会っていたが、友雅とあかねが一緒にいるのを見るのは初めてだった。
他の女房達も、初めて見る主人の甘く優しい姿に、目を丸くしている。
しばらく、埒も無い問答をしていた二人だったが、何を言っても動かない友雅にあかねが先に折れた。
「もう!兄様のわからずや!」
「おやおや、ずいぶんなおっしゃりようだね。私はただ可愛い白雪が心配なだけなのだよ?」
くすくすと笑いながら、車の中から友雅がフワリとあかねの体を抱き下ろす。
あかねは美しい襲の色目に縁取られた腕を舞うように挙げ、しゃらりと開いた金銀泥で彩られた大和絵も見事な檜扇でその華の顔を覆い隠した。
遠乃達には扇で遮られ見えないその表情。
だが、あかねを抱き上げた友雅は、扇の内側のあかねの顔を見下ろして、その瞳に柔らかな光を浮かべた。
「そう拗ねないでおくれ?白雪の君に拗ねられると悲しくなってしまうよ」
「……拗ねてなんていません。ただ呆れているだけです」
柔らかな高音の少女の声が、怒ったように響く。
しかし、友雅は別に堪えた風もなく、人一人を抱えているとは思えない滑らかな足取りで、少女がこれから暮らす東の対へと足を向けた。
あかねの新しい生活が始まる。
「白雪の君は?」
濡れ縁で月を見上げながら、杯を傾けていた友雅は、聞こえてきた衣擦れの音に振り向きもせずに、そう問いかけた。
友雅はあかねを人前では『白雪の君』と呼ぶ。
少女の清らかさと純粋さそして透き通るような肌の白さから、吉野で何時の頃からかそう呼ばれてきたのだ。
あかねと呼ぶのは、義兄妹二人の時だけだった。
問いかけられた遠乃は、友雅の近くに腰を下ろし、そっと空になった杯に酒を注いだ。
「姫様はお休みになられました。ずいぶんとお疲れのご様子でしたわ……」
「初めての長旅で無理をしていたようだからね。ところで、遠乃?」
「はい?」
「あの子はどうだい?」
曖昧な問いかけ。
だが、子供の頃から一緒に育ってきた遠乃には、それで十分だった。
人に意見を求めるなど、らしくない事に遠乃がくすりと笑う。
「とても素晴らしい姫君だと思います。殿の妹君でもありますから、すぐに京中の公達の噂になりますわ」
「噂…ね」
「気になることでも?」
「いや……。あの子は吉野で気ままに育ってきたからね。いきなり京の男達の恋の相手にされるのも…、と思っただけだよ」
「あら、あちらこちらの美しい花々を渡り歩く移り気な殿も、白雪の君にはご自分とは違う誠実な男性を希望されるのですか?」
「…ずいぶんな言いようだね。…あの子には幸せになってもらいたい、それだけだ」
遠くを見つめる友雅に、遠乃は辺りをうかがってから声を落として問うた。
「殿。白雪の君はご自身の出生の事を?」
「あの子は知らないよ。教える気もない。この事を知っているのは、私とお前だけ。これから先、あの子の出自については口にしないように。誰が聞いているかわからないからね」
「わかりました」
「それと、あの子に近づく男には注意しなさい。恋の遊びが出来るほど、まだ大人ではないから……」
「承知いたしました。殿のような男性には十分、注意いたします」
遠乃の鋭い嫌味に、友雅は苦笑を浮かべ酒を煽った。
遠乃の予想した通り、友雅の妹「白雪の君」の噂が内裏で囁かれるようになったのは、あかねが邸に入ってまもなくの事だった。
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