幼い頃の記憶は曖昧だった。
記憶の糸を辿って一番最初に辿り着くのは、大好きな兄の腕の中にいたこと。
季節外れの春の嵐の夜、鳴神に恐れ慄き部屋の隅で声も出せず泣きながら震えていた自分を、その広い胸に優しく強く抱き上げてくれた。
その瞬間の安堵感は、子供心に強烈な印象を残した。
それ以前の事は覚えていない。
だから信じて疑わなかった。
友雅と自分は母の違う義兄妹だと。
「お話があります」
右近かいつもより少しだけ緊張した面持ちで、あかねに切り出したのは14歳の秋の事だった。
あかねは爪弾いていた琴から、不思議そうに顔を上げた。
「姫様ももう裳儀を済ませ、大人におなりになりました。ですから、そろそろ姫様も御自分の事をお知りになったほうがよいと思います」
「右近?」
今まであかねを厳しくも優しく慈しんで育て上げてくれた右近が、あかねの裳儀が終わって10日ほど経った頃、妙にかしこまってそう告げた。
いつもと違う右近の神妙な雰囲気に、あかねが不思議そうに首を傾げると、その肩からサラサラと癖の無い美しい髪が零れ落ちる。
そのたわいない仕草さえ、可愛らしさと美しさを醸し出すあかねに、右近は眩しそうに目を眇めた。
「友雅様は姫様に伝える必要はないとおっしゃいますが、私の判断で真実をお伝えいたします。姫様は冷静にその事実を受け止められると思いますから……」
あかねには訳の分からないことを話す右近に、いつもは大人しく人の話を聞くあかねが珍しく右近の言葉を遮り先を促した。
「右近?いったい何のことなの?まわりくどいことはいいわ。あなたの言う『真実』とは何なのですか?」
あかねの微かな苛立ちがわかったのだろう。右近は一つ頷いて、しっかりあかねの瞳を見据えて、それを告げた。
「姫様、心してお聞きくださいませ。姫様の出生についてですわ」
「出生?」
予想外の言葉に、あかねが鸚鵡返しに問い返す。
右近はゆっくり深く頷いた。
そしてあかねがこの屋敷に連れて来られた日の事を静かに話し始めたのだった。
あかねは右近の話を伏目がちに俯いて、ただ静かに聞いていた。
右近に聞きなおすことも、話を否定することもなくじっと耳を傾けている。
しかしその細く白魚のような指が、関節の色をなくす程強く袴を握り締めていた。
まるで微かに震える体をそこで止めようとしているように……。
長い長い話もやがて終りを迎える。
話し終えた右近は、長年の秘密の重さから解放された安堵感から深く静かに息を吐いた。
二人の間に沈黙が流れる。
表情を消したあかねが、今何を考えているか右近には解らない。
けれど、その顔はこれまでの幼さばかりが目立つものではなかった。
思慮深い、美しい女性の姿だった。
しばらく動かなかったあかねは、やがてスッと顔をあげまっすぐ右近を見つめた。
「右近……、私は兄さまにこのご恩をどのようにしてお返ししていけばよいのですか?」
「何も……。友雅様は姫様が真実をお知りになることを望んではいませんから」
右近の言葉に、あかねは柳眉を寄せた。
「でもっ!……でも私は知ってしまいました。命を救われただけでもありがたいことのなのに、何も知らなかった私は、義妹として兄の愛情を当たり前のように受けてきました。兄さまに甘えてばかり……。それなのに!……右近、私はどうしたらいいのですか?このご恩をどうしたら少しでもお返しできるのですか?」
初めて知った真実に、あかねは戸惑いながらも、真剣な眼差しで右近に問う。
その視線を受け止めながら、右近は静かに首を振った。
「何も……、今までどおりでよいのです。姫様、私は姫様にご恩返しを求めて真実を告げたのではありません。ただ何も知らずにいるのは、きっと姫様にとって、為にならないと思ったからです。ですから、どうか今までと同じように、お過ごし下さい。友雅様は姫様を義妹としてとても可愛がっておられます。それなのに、姫様が距離を置いてしまっては、友雅様が悲しまれますわ」
「それでいいのですか?限りない愛情を頂いて、私は義妹だという事を欠片も疑ったことがありません。本来、そのような立場ではないのに……」
込み上げる感情に言葉を詰まらせて俯いてしまったあかねの手を、右近がそっと握り締めた。
幼い頃から、母親代わりの右近の暖かい温もり。
右近はあかねを宥めるよう、優しく手の甲を撫でた。
「姫様。友雅様にご恩返しをなさりたいならば、黙って知らぬ振りをして幸せになってください。それを友雅様は望んでおられます」
「……本当に?本当にそれでいいの?」
「ええ、どうぞ、姫様はそのままで……。ただ」
「ただ?」
あかねが少しだけ身を乗り出して、右近に聞き返す。
右近は薄っすらと微笑み、あかねに言い聞かせるようにゆっくりと伝えた。
「いざという時には、どうか友雅様の事を一番にお考え下さいませ。友雅様が幸せであるように……、ただ、それだけを……」
大好きな兄が幸せであるように……。
あかねはしっかりと頷いて、その事を胸に刻み込んだ。
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