「ちい姫様!ちい姫様!!どこにいらっしゃいます!?もうすぐ義兄上様がお見えですよ!」



 若い侍女の声が聞こえ、花を活けていた右近は顔を上げて庭を見た。
 庭には、小さな姫を探してキョロキョロとしている侍女の姿がある。
 その様子を右近はくすりと笑って、姿勢を正して活け終わった花の傾きを確かめつつ呟いた。
「若君がいらっしゃるまでに見つかるかしら?姫君なのに、若君よりやんちゃだこと……」
「だから『若君』と呼ぶのはやめてくれまいか?」
 不意に聞こえて来た笑いを含んだ男の声に、右近はそちらへ顔を向けた。
 そこには花より艶やかな公達が、うっすらと笑いを浮かべた口元を蝙蝠で隠して立っている。
 右近は呆れたように肩を竦めた。



「女性の部屋へ案内も請わずに入るなど……。だからいつまでたっても『若君』なのですわ」
 右近の皮肉に苦笑し、彼はその場へ腰を下ろす。
 たっぷりとした直衣の袖を軽く払う仕草さえ、どこか華やかで洗練されていて目を奪われる。
「おやおや、手厳しいね。最近は忍んでお訪ねすることが多いから、つい、ね」
「……友雅様の華やかな噂は、この吉野まで届いておりますわ。ずいぶんとお楽しみのようですわね?」
「ふふふ……」
「あまり女君を泣かせることのないよう、ご注意申し上げます」
「ご忠告、ありがたくいただくよ」
 まったく反省の色もない友雅に、右近は諦めの溜息をつく。
 乳母の自分から見ても、うっとりとするような美丈夫ぶりの友雅。
 彼にその気が無くても、内裏の女房達が放っておかないだろう。
 そして友雅の性格から、「来るものは拒まず、去るものは追わず」で、ひとつまたひとつと恋の噂が増えていく。
 けれど彼を本気にさせる女性は現れていない。
 彼の心の闇を溶かすものは、まだ……。






「ところで、あかねはどこに?」
 友雅が一年前余り前に拾ってきた幼子の姿を求め、視線をめぐらす。
 右近は口元を袂で隠し、軽く笑いながらわざとらしく息をついた。
「姿を隠しておりますわ」
「姿を?」
「昔の義兄上さまに似たのでしょうか……。とてもやんちゃで活発な姫君ですわ」
 まだ幼い頃のことを右近に揶揄られては、友雅も苦く笑うしかない。
「そうなのかい?以前の袴儀の時は、大人しかったけれど?」
「友雅様の前では、とてもいい姫君ぶりですわよ。あくまで、大好きな義兄上さまの前ではね」
「おやおや、女の子はおませさんだね」
 庭ではまだあかねを探す侍女の声がしている。
 友雅はチラリと庭を見やってから、ゆっくりと立ち上がった。
「友雅さま?」
「やんちゃなちい姫をお迎えに上がるよ。さて、どちらにいらっしゃるのかな?」
「もしかするとお庭から脱走しているかもしれません。下男が探しているとは思いますが……」
「そう…。では、ちょっと出かけてくるよ」
 そして友雅はあかねを探す為、楽しげに右近の前から立ち去ったのだった。





 尼削ぎの小さな姫が野を駆けて行く。
 屋敷からあまり離れていないため、姫を探す声が風に乗って聞こえて来た。
 けれどちいさな姫には、どうしても欲しいものがあったのだ。 
 キョロキョロと辺りを見回しては、また駆けて行く。
 緑の野原を明るい色彩が跳ねる。
「あった〜!」
 目的のものを見つけた姫は、歓喜の声を上げ一直線にそこへ向かった。
 そこには密やかに咲いた蛍袋の花……。
 あかねは花の側にしゃがみこんで、花を傷つけないよう、そっと茎を根元から折った。
 そしてそれを太陽に透かして見つめる。
「綺麗〜、喜んでくれるかなぁ?」
「見つけたよ、ちい姫」
「きゃあ!」
 穏やかな声と同時に、フワリと浮遊感におそわれたあかねは、高く可愛らしい悲鳴を上げた。
 突然の狼藉に驚き、手足をばたつかせ暴れだしたあかねの耳にクスクスと小さな笑い声が聞こえた。
 はっ、と顔を向ければ、そこには幼いあかねさえ目を奪われるほどの艶やかな美貌……。
「兄さま!?」
 大好きな兄を認め、あかねが喜びに大きな瞳をますます大きく見開く。
 友雅は乱れて顔に掛かったあかねの髪を、その大きな手でゆっくりと掻きあげながら言った。
「久々に逢うのに、ちい姫は出迎えもしてくれないのかい?もう私など忘れてしまったのかな?」
「えっ?」
「私より外で遊ぶほうが楽しいとは……、淋しいねぇ……」
「違うよ!」
「そう?先触れを出しておいたのに、ちい姫は出迎えどころかお姿もない……。悲しくなってしまったよ?」
「違うもん!!」
 友雅の溜息混じりの言葉に、あかねの瞳が潤んできた。
 今にも泣き出しそうに顔を赤くして歪め、友雅を睨みつける。
 桜色の柔らかな唇をキュッと噛み締めたのは、涙を堪える為だろうか?
 あかねは友雅を睨みつけたまま、ずいっと右手を友雅の目の前に差し出した。
 白く小さな手が握っているもの……。
「これを私に?」
 友雅の問いに、あかねがこくこくと頷く。
 あかねが差し出したのは、たった今見つけたばかりの蛍袋。
 久しぶりに吉野を訪ねてくる大好きな兄様の為に、屋敷を抜け出してまで探していたもの。
 友雅は、顔を真っ赤にして唇を噛み締める腕の中の小さな姫の額に、自分のそれをコツンと合わせた。
「ありがとう、あかね。うれしいよ」
「……」
「怒っているのかい?」
 友雅の問いかけに、あかねは小さく首を横に振る。
 怒ってるわけじゃない。ただ友雅に淋しいと言われて悲しかっただけだ。
 こんなにも大好きな兄さまに少しでも喜んでもらおうと、綺麗に咲いた花を探しにきたのに……。
 喜ばすどころか、がっかりさせてしまったのが悲しくて……。
 友雅は瞳に涙を溢れんばかりに湛えたあかねを慈しみを込めて、ギュッと抱きしめた。
「あかね。すまなかったね。折角私の為にこんなにも美しい贈り物を探してくれていたというのに……。悪かった」
 友雅は普段では考えられないほど、あっさりと謝罪の言葉を口にする。
 そんな友雅の首にしがみ付いて、あかねは涙が溢れる瞳をその肩に押し付けた。
 細かく震える小さくまろやかな背。
 その背を宥めるようにゆっくりと擦り撫でながら、友雅は屋敷に向って歩き出した。





 あかねは友雅の優しい手の温もりと、ゆったりとした足取りによる柔らかな振動で、ゆっくりと眠りの中へ落ちていく。
 不意に重みを増したあかねの体を、友雅は殊更大事に抱きしめていた。





 あかねが目を覚ましたのは、もうすぐ夕餉という時間だった。
 日暮れと共に灯された明かりが、仄かに揺れている。
 褥を隠すように立てかけられた几帳から、そっと顔を覗かせると控えていた右近が視線を向けた。
「お目覚めですか?」
「……兄様は?」
「友雅さまなら少し探し物をされるとかでお出かけですよ」
 いない、と聞いた瞬間、あかねの顔が泣きそうに歪む。
 そんなあかねに右近は慌てて言い継いだ。
「夕餉までにはお帰りになるそうですから、もうすぐこちらへいらっしゃいますよ。さぁ、姫様。友雅さまをお迎えする為に、お着替えをいたしましょう」




 
 右近に手伝ってもらって、友雅が都から持ってきてくれた真新しい着物に袖を通す。
 夏らしい可愛い色合いは、幼いあかねによく映えていた。
「よくお似合いだね、あかね」
 友雅はまたも案内を請わず、御簾を上げて部屋へと入ってきた。
 右近が鋭い視線で、友雅の行動を咎めるが、当の本人はどこ吹く風。
 あかねは泣いてしまってばつが悪いのか、拗ねたように俯いてしまった。
 友雅は、あかねの前に座ると、先ほどあかねにもらったばかりの蛍袋を袂から取り出した。
 そして手振りで右近に灯りを消すように指示を出す。
「あかね、ご覧。あかねから貰った素敵な贈り物のお返しだよ」
 灯りが消され、部屋に夕闇が下りる。
 あかねは友雅が差し出した蛍袋を不思議そうに首をかしげて見つめた。





「あっ!綺麗…」
 蛍袋に現れた変化に、あかねが感嘆の声を上げ瞳を輝かせてそれを見つめる。
 あかねの視線の先で、蛍袋はほんわりと輝きを放っていた。
 ふわりふわりと花の内から光が呼吸するように明るさを変える。
 花びらを透かして、小さな光源が動いているのが見える。
「……蛍?」
「そう、こうすると蛍も花も美しさを増すと思わないかい?」
「うん……、綺麗……」
 あかねは友雅の膝に手を付いて、闇の中で優しい光を放つ蛍袋を一心に見つめていた。





 そんな二人の様子を、少し離れた場所に控え、右近は微笑ましく見つめていた。
 あかねは友雅が来るといつにも増してよく笑う。
 ここに来た当初は、母が襲われた衝撃が心の奥に生々しく残っていた為だろうか、よく夜中に泣き叫んでいた。
 昼間は何もないように健やかに過ごしながら、闇夜には狂ったように声を上げて泣きじゃくる。
 右近が抱きしめてあやしても、あかねの恐怖が拭い去られることはなかった。
 ようやく落ち着いた今でも、油断をすると深夜、母を探して彷徨い歩くことがある。
 けれど友雅が側にいる時だけ、あかねに安らかな眠りが訪れる。
 あの恐怖から友雅があかねを救い上げたからだろうか?




 
 友雅にも変化は訪れていた。
 都からの噂とは、まったく違う一面を吉野で見せる。
 あかねを心から可愛がり、慈しんで……。
 いつの頃からか浮かべるようになった、冷たい表面だけの笑顔も、あかねの前では片鱗も見せなかった。





 そうして月日は流れていく。
 仲のよい、年の離れた義兄妹……。
 いつまでもこの生活が続くと思っていた。





 そうあかねが14歳の冬。
 体調を崩しがちだった右近が風邪をこじらせ、突然この世を去る、その時まで……。








03.08.12




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