「まぁ!どうなされましたの?そのお姿は!!」
友雅を出迎えた乳母は、彼の出で立ちを見て驚きの声を上げた。
いつの物静かな彼女らしくない大きな声に、友雅が微苦笑を浮かべ、自分の姿を見下ろした。
「そんなに酷いかな?」
「酷いなんてものではありませんわ!それにその腕の中の・・・・」
乳母は見間違いではないかと、我が目を疑いながら友雅のたっぷりとした直衣の袖に包まれている『それ』を見つめた。
しかし見間違いでもなんでもなく、確かに『それ』は小さな小さな幼子だった。
幼子は友雅の腕の中で、安心しきった表情で小さな寝息を立てていた。
だがその頬は、乾いてこびりついた血で汚れている。そして友雅も、乳母が驚愕の声をあげるのも仕方が無いほど、直衣を血で汚していたのだ。
「可愛いだろう?ちょっと拾ったのだよ」
「・・・とにかく、お召し替えを。湯も用意させますから、お二人とも汚れを落としてきてくださいな。訳はその後に、ゆっくりと、聞かせていただきますわ」
にっこり微笑みながらも、乳母は友雅に有無を言わせず、腕に幼子を抱かせたまま部屋から追い立てたのだった。
「そういう事情でしたの・・・・」
友雅の話を聞き終えた乳母は、ほう・・・と息をついた。
女房達の手により、着替え終わった友雅は、その膝の上に幼子を抱いている。
先ほどまでやれ着替えだ、食事だと、女房達に翻弄され起きていた幼子も、お腹が満ちた為か、またうつらうつらと船を漕ぎ出している。
友雅は、幼子の頭をゆっくりと撫でながら幼子を眠りに誘う。
「呆れるかい?右近・・・」
「いいえ・・・。どうして呆れるなどと・・・。よいことをなさいましたね、若君様」
懐かしい呼び名に、友雅が微かに苦笑を刻んだ。
「『若君』はやめてくれないかな?右近。すでに元服を済ませて久しいのだからね」
「あら・・・、失礼しましたわ。ついつい・・・」
笑いながらも、右近はこれっぽっちも悪いとは思っていない。
それこそ生まれたときから友雅と共にいたのだ、どんなに立派な公達になろうと、右近にとって友雅はいつまでも子供のような存在なのだろう。
友雅も分かっているから、それ以上は何も言わない。ただ苦笑するだけだ。
「本当によいことなのかな・・・・。この子を拾ったことは・・・」
「何をお迷いになりますか?」
友雅は自分の腕の中で安心しきって眠る幼子を見下ろし、その頬にかかる髪を指先でそっと払う。幼子はその感触に、ちょっと嫌そうに眉を寄せ、むずかるような声を漏らした。
小さな小さな命・・・・。それが不思議と愛しくあり、恐ろしくもあった。
「私が拾った事で、この子の運命は大きく変わるだろう・・・・。私は自分を、人一人の運命を変える事ができるほどだと思ってないよ。だがこの子は私が拾った。それはこの子が私の生きる貴族社会で生きるということ・・・・。それが幸せだとは、私は思わない」
きっぱりとそう言い切る友雅に、右近は静かに頷いた。
友雅が貴族社会に対して思っていること、それは長い間友雅の近くにいた右近にはよく分かっていた。
人一倍優れた能力を持ちながら、家柄だけでそれを生かすことが出来ない。反対に、どんな愚鈍でも家柄が良ければ、どんどん出世し、政治の中枢に居座ることが出来た。
それが今の貴族社会だ。
そして女性も・・・・。自由に暮らせるわけはない。
屋敷の奥深く、隠されるように育てられる姫君たち。彼女達は出世の道具であり、戯れの恋の相手でもあった・・・・。
その世界に生まれてきたのならば、それが運命。だがこの、あかねという幼子は貴族とは無縁の世界の子。
なのに、一時の同情で幼子の運命を変えてしまっていいものか・・・・・。
友雅には分からなかった。
右近は静かに友雅の近くへ膝でいざりより、幼子の頬にそっと指先で触れた。
「可愛らしいこと・・・・。友雅さまと出会わなければ、この子のこんなに幸せそうな寝顔を見ることは出来なかったでしょうね・・・」
「右近・・・?」
「もしかすると、野犬などに食い殺されたかもしれない。それに、春とはいえ夜は冷えます。このように小さな子は凍えてしまうでしょう・・・。友雅様と出会わなければ、友雅様に拾われなければ、この小さな命は風前の灯火だったはず・・・。この子の人生は生きているからこそあるものです。友雅様はこの子の運命を変えるのを恐れていますが、友雅様に出会うこと、それこそがこの幼子の運命だったのではありますまいか?」
「・・・そうだろうか?」
「はい、私はそう思います。すべては御仏のお導きだと・・・」
腕の中の、心地よい重み。その存在を見つめているだけで、笑みがこぼれてしまう、不思議な感覚・・・。
「右近・・・」
「はい」
「この子・・・あかねをここでお前に任せてもよいかな?」
「京の都ではなく、吉野でですか?」
「ああ・・・。父上も母上も私の酔狂はご存知だから笑って許してくれるだろうけれど、いきなり都の暮らしはあかねに酷だからね。お前がここでそれ相応の教育を施してくれないだろうか?」
右近は一度友雅を見つめ、あかねに視線を落とした。
貧しい暮らしをしていたのだろう、細く小さな体。この愛らしい幼子を残して旅立たなければならなかった母親の無念はいかばかりか・・・。あかねはきっと幼すぎて母の顔を覚えていることは出来ないだろう。
ならばせめて・・・・。
「分かりました。この右近がしっかりとお預かりいたしますわ。自分の娘と思いお育ていたしましょう」
「・・・それは困る」
「はい?」
ぼそりと落とされた言葉を聞き逃し、右近が首を傾げる。友雅が僅かに肩をすくめた。
「右近の娘は遠乃だろう?遠乃がもう一人増えるのは勘弁してもらいたいな」
京の屋敷で自分の側近くに仕える女房を思い出し、友雅が顔を顰める。
その様があまりにめずらしく、右近は袖で口元を隠して笑い声を上げた。
「まぁ!友雅様ったら」
「乳母子の遠乃にはかなわない。これ以上苦手な人を増やしたくはないよ。・・・右近、あかねは私の妹と思って育て上げてはくれまいか?」
「橘家の姫君として、ですか?」
「そう、誰にも愛される姫に育てて欲しい・・・・。私の気まぐれに付き合わされるあかねには、せめて幸せに生きて欲しい。貴族の姫として、幸せな結婚が出来るように・・・・、誰にも愛される美しい姫に」
「わかりましたわ。この右近が帝の女御様にも負けない姫君に育て上げてみせます。・・・お任せくださいませ、友雅様」
右近はしっかりと頷き、友雅からその幼子の養育を請け負ったのだった。
03.04.20
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