それは今から十二年ほど前のこと・・・・・。






 
 年若い東宮のよき相談相手として、誰もが橘友雅を認め始めた頃・・・・・。
 彼は十代の若さで、すでに貴族の女性達を魅了する貴公子としても名を馳せていた。





 同じような毎日が続く退屈な日々。
 戯れに華を手折っても、彼の退屈を紛らわしてくれるのはほんの一瞬。
 橘性故に、いくら東宮の相談役といっても、藤原氏全盛の政治の中枢に食い込めるはずもなく・・・・。
 だからこそ見えてくる、貴族社会の光と影に友雅は嫌気さえ覚える。
 東宮へとりなしてもらおうとして、友雅に媚びへつらってくる者、藤原性以外のものを快く思わず、隙あらば友雅を陥れようとする者。
 何もかもが煩わしい。
 だからだろうか、友雅は常に一歩引いた冷静な目で世の中を見ていた。
 藤原一族以外はいてもいなくても同じ・・・・。そう考える彼は、いつも気だるげな退廃的な雰囲気を醸し出していた。





 そんな彼の元に、乳母を勤めていた女性が風邪をひいたとの連絡が入ったのは、満開だった桜が散り始めた季節だった。
 友雅の乳母は以前に体調を崩し、養生のため吉野の里にある小さな屋敷へ移り住んだ。
 すでに四十を過ぎた乳母は、都に戻るつもりがなかったらしく、体調を取り戻してからも、美しい自然に囲まれた吉野にそのまま腰を落ち着けた。
 その彼女が季節の変わり目にひいた風邪は、思ったより長引いたようで、側に仕える家人が心配して橘邸に使いをよこしてきた。
 常に退屈の虫を飼っている友雅は、その知らせを聞いて、これ幸いと吉野へと出かけることにしたのだった。
 表向きは、乳母に薬を届けるため。その実、何か面白いことがないものかと期待して・・・・。







(声?・・・・・子供の声か?)
 吉野へ向う牛車に揺られながら、風に乗って切れ切れに聞こえてくる声に友雅は訝しげに眉をよせた。
 子供というより、幼子といった方がよいか・・・・。
 最初は微かだったその泣き声も、だんだんと近づいてくる。否、牛車が声の主に近づいているのだ。
 友雅は側の小窓を開け、近くの随身を視線で呼び寄せた。
「何か?」
「子供の声はどこから聞こえるのだい?」
「この声の近さからすると、街道沿いの林の中からかと思いますが・・・」
「そう・・・・」
「!友雅様!?」
 牛車を止めるよう指示した友雅が、止まると同時に中から姿を現し、随身が驚きの声をあげる。
 しかし友雅はかまわずに、差し出された沓を履くと泣き声のする方へと歩を進めて行った。
 それは街道脇の木々の中から聞こえてくる。
 幼子が全身を震わせて泣いているであろう、声。
 聞いている方が悲しみに胸を締め付けられるような号泣だった。





 
 幼い少女が泣いていた。
 倒れ伏し動かない女性を、一生懸命起こそうと揺り動かしながら・・・・。
「お母しゃん・・・、おっきして・・・お母しゃん・・・!」
 しかし女性は幼子に揺すられるだけで、ピクリとも動かない。その身を赤く赤く染めて・・・・。
 頬を流れる涙を腕で幼子が乱暴に拭うと、白い頬に乾きかけた赤黒い筋が入る。
 それが母の血だと少女はわかっているのか・・・・。
 幼子が身につけている継ぎ接ぎだらけの着物も、べったりと血に染まっていた。






「・・・これは・・・」
 むせ返る血の臭いに、友雅は思わず袂で口元を覆う。友雅に付き従ってきだ随身もあからさまに眉を顰めた。
「お母しゃん!おっきしてよぉぉ!」
 母の優しい眼差しを再び取り戻そうと、幼子は声の限りに叫ぶ。
 しかしすでに青白くなった女性には、愛しい我が子の声を聞くことが出来なかった。
 幼子は目の前に現れた友雅達さえ気付かぬ必死さで、母に縋り付いて泣く。
 友雅はその光景に、やるせない溜息を吐いた。
「野盗の仕業でしょう・・・・。お戻りになられますか?」
 そっと随身が友雅に耳打ちをし、血の穢れに当たった主人を早く立ち去らせようと促す。
 しかし友雅は首を軽く振り、ゆっくりと幼子に近づいていった。
 母の体の向こうに現れた足。
 幼子は激しくしゃくり上げながら、その足先からゆっくりと視線を上げていった。






 それは幼子がまだ見たことのない、美しい着物を纏った美しい人・・・・。
 幼子は泣くことを忘れ、つぶらな瞳を見開き呆然と友雅を見つめた。
 澄み切った穢れのない瞳で・・・・。






「どうしたの?こんなところで・・・」
 耳を擽る優しい声音が、幼子に警戒心を抱かせない。
 幼子は友雅の問いに、一瞬忘れていた母の事を思い出し、ふにゃっと顔を歪め涙を溢れさせた。
「お母しゃんが、おっきしてくれないの。いっぱいの男の人に追っかけられて、あかねを置いていちゃったの。あかね、いっぱいいっぱい歩いてお母しゃん見つけたのに、
おっきしてくれないの。・・・あかねいい子にしてるのに」
 そして再び、幼子は母の体を揺さぶり始める。すでに事切れて久しい女の体を・・・・。
 その小さく細い体のどこにそんな力があるのかと思わせるほど、激しく母の体を揺さぶる。
「友雅様!?」
 随身の驚きと制止にもかまわず、友雅はその場に膝を付くと幼子へ向って腕を伸ばした。
「やーっ!!」
 友雅は幼子の両脇に手を差し入れ、軽々と胸に抱き上げた。直衣が女の赤黒い血に染まるのも構わずに。
 しかし幼子は母から引き離されるのに驚き、バタバタと暴れだした。
「やなのっ!お母しゃん!」
「あかね・・・」
 しっとりと自分の真名を呼ばれ、大きな目をますます見開きあかねは友雅を見つめかえした。
 腕の中で大人しくなった幼子を怯えさせないよう、友雅は柔らかく笑みを浮かべ、サラリと幼子の髪を指先で梳いた。
「母君は少し疲れてお休みをしているのだよ。なのに君がそんなに泣いていたら、ゆっくりお休みできないよ?」
「・・・・・ねんねしてるの?」
 すんっと鼻を啜りながら、あかねは友雅の言葉に首を傾げる。
 友雅は親指で、幼子の頬を汚している血を拭いながら微かに頷いた。
「そう・・・。いつもよりずっと長い眠りについたのだよ。だからあかねは母君が眠っている間、いい子で待っていなければね・・・」
「いつおっきするの?」
「そう・・だね・・・。ずっとずっと先だよ・・・・。あかねは待てるかい?」
「うんっ!あかね、いい子で待てるよ!ずっとここでお母しゃんがおっきするの待ってる!」
 泣いて真っ赤になった目で、うれしそうに母を見下ろす。
 二度と目覚めることはない母を・・・・。
 友雅の作り笑いに、哀し気な翳がさす。疑うことを知らぬ幼子。この子が真実を理解するのは、いったいいつなのであろうか。
 友雅は幼子の頭を幾度も撫でながら言った。
「ここでは風邪をひいてしまうよ・・・・。そうだ、私のところで母君を待てばいい」
「・・・・お兄しゃんのところ?」
「ああ、母君は別のところでお休み頂いて、あかねは私のところで母君を待てばいいよ・・・・・。嫌かな?」
「ううん!お母しゃんがおっきしてくれればいいの。あかね、ちゃんといい子で待てるよ!」
「・・・・そう・・・・。では、私と一緒においで・・・・。あかね・・・・・」







 それは偶然と、ほんの少しの気まぐれ。





 
 友雅は一人の幼子を拾ったのだった。






03.03.21







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