「身体を強く打たれていますが、他に大きな怪我などはございません。気を取り戻されれば大丈夫でしょう。しばらくお身体は痛むでしょうが…」
「そうか…」
急いで呼ばれた薬師の見立てに、友雅はひとまず安堵の息を吐いた。
薬湯などの説明を受けるのは遠乃に任せて、友雅は褥に横たえられたあかねの傍についていた。
階を落ちた衝撃からだろうか?
あかねの白い貌は僅かに青ざめている。
友雅は手を伸ばし、その青白い滑らかな頬を包み込んだ。
「あかね…」
手のひらから伝わる温もりが、あかねの無事を実感させてくれる。
これまで友雅に逆らったことのないあかねが、あれほどまでに拒絶を見せた実質上の入内。
あかねを拾った時から、ずっと彼女の幸せを願ってきた。
大切に大切にこの腕の中に包み込んで……。
けれど……。
友雅とあかねを取り巻く運命は、穏やかな二人の時間を長くは許してくれなかった。
主上は絶対的な存在だ。
出世などに興味は無い。
けれどあかねを守る力は必要だった。
しかし、その為にあかねの意思を無視して入内させるのは本末転倒だ。
意識を失っていながらも、苦しげに眉を寄せるあかねの表情が友雅を責めているようだった。
主上に逆らい野に下るか……。
その時にあかねを守ることが出来るのか。
打撲のためか、時折零れる吐息を痛ましげに聞きながら、友雅は深く思案をしていた。
「殿…。姫様はどのようなご様子でしょうか?」
薬師を見送った後、遠乃があかねの休んでいる部屋へそっと戻ってきた。
「まだ目覚めないよ…」
不安に揺れる眼差しを隠そうともせずあかねを見下ろす友雅の顔色も、あまり芳しいものではなかった。
遠乃は友雅から少しは慣れた所に控え、騒動が起こってからずっと心にひっかかっていたことを尋ねた。
「殿、姫様はいったい何故濡縁まで出られたのでしょう?」
「………」
しかし返ってくるのは沈黙だけ。
言葉を選んでいるのか、言えないことなのか……。
それならそれと伝えて欲しいと、遠乃は声を潜めて友雅を再度促した。
「殿?私にはお話し出来ないことなのでしょうか?」
「遠乃…」
「あの姫様が何も無く浅はかな行動をするとは思えないのです」
昔はおてんばが過ぎる姫だったと亡くなった母親から伝え聞いていた遠乃だが、都の屋敷に入ってからのあかねは帝の女御達にも劣らないと思えるほどの女人だった。
その姫が理由無く軽率にも濡縁まで姿を現すとは思えないのだ。
友雅はあかねを見つめたまま深く苦悩の息を吐いた。
「……私は白雪が幸せならいいと思っていたのだよ…」
「殿?」
「吉野で過ごしていた時のように、白雪の君が笑っていてくれたらよかったのに…。どうして周りは私達を放っておいてくれないのだろうか?」
伸ばした指先であかねの黒髪をそっと梳く。
拾った幼子は、友雅の庇護の下で美しく育った。
身分の高い貴公子に求められることは、貴族の姫にとってそしてその家にとって喜ぶべきことだ。
そしてその頂点である主上自身に求められるのは、最高の栄誉といってもいい。
けれど…。
そんなものは一切望んでいなかった。
求めていたのはただひとつ。
幼くして母を亡くしたあかねの幸せ。
友雅の暗い表情に遠乃は重大なものを感じ、そっと友雅の傍へといざり寄った。
「何がありました?」
「……主上が白雪の君を尚侍として参内させるようにと申されたのだよ」
「っ!?そ、それは……」
友雅が口にした予想外のものに、遠乃が息を呑む。
尚侍としての参内…、それはすなわち…。
遠乃の物問いた気な眼差しに、友雅が微かに顎を引いた。
「事実上の入内となるだろう」
「それで姫様は?」
「……参内するくらいなら俗世を捨てると…」
「なんて事を……。姫様……」
遠乃は悲痛な面持ちで、意識を失っているあかねを見下ろした。
主上の思し召しに逆らうなど、あってはならないことだ。
それがわからぬ姫ではないはずなのに…。
友雅は苦しげな溜息をひとつ吐き出した。
「私はどうしたらよいのだろうね…」
「殿。それは決まっております。主上に望まれたのは、姫様にとってもとても栄えあることですわ」
「けれど、白雪は泣いて嫌がっているのだよ?」
「急なお話で驚かれたのでしょう」
ぴしゃりと言い切った遠乃へ、友雅が不快げに眉を寄せた。
「…遠乃」
「はい?」
「私は、いつも白雪の幸せを考えているよ。この子をこの腕に抱き上げた時からね」
「存じております」
「その白雪が泣いて嫌がるのだ。私はどうしたらいい?いっそ白雪を腕に、野に下ろうか……」
「殿…」
「その時、お前は白雪の為についてきてくれるかい?」
「殿と姫様の思し召しであれば……。しかし殿」
「ん?」
「忘れてはなりません。殿が姫様のお幸せを第一に考えるように、姫様は常に殿を大切になさっておいでです」
「遠乃……」
「その姫様が、ご自分の為にすべてを捨ててしまう殿をお喜びになるでしょうか?参内は姫様の望むものではないかもしれません。けれど殿に負担をかけることこそ、最も姫様が厭うものです。
突然のお話に、姫様は混乱されてしまったのでしょう。どうか殿、すぐに結論を出さずにしばらく姫様を見守ってくださいませ」
「……私のために、白雪は自身を犠牲にしてしまうと?」
「いえ、殿の幸せが姫様の幸せにございます」
「私は白雪の幸せを望んでいる」
「……殿。殿も混乱しておいでです。今は姫様がお気づきになるのを待ちましょう」
押し付けがましくない静かな遠乃の口調は、少しだけ友雅の気を和らげてくれる。
乳母子として育っただけあり、兄弟のようなどこか通じ合うものがあるからだろうか?
友雅は溜息で返事をし、未だ眠りの中にいるあかねを見つめていた。
それからどれくらい経っただろうか。
なかなか目覚めないあかねに、薬師の見立てが誤っているのだろうかと不安が首をもたげてきた頃、不意にあかねの呼吸が乱れ眉宇が苦しげに顰められた。
「……ぅん…」
「白雪?気づいたのか?」
「姫様?」
そして二人が心配そうに見守る中、長い睫に縁取られた瞼がゆっくりと開いた。
「白雪…」
やっと開いたつぶらな瞳。
友雅は、ひとまず安堵の息を吐いた。
「痛っ」
あかねは少し身じろぎをして、身体を走った痛みに息を詰める。
「姫様、お身体を強く打ってらっしゃいますから、急に動かないで下さいませ」
痛みを耐えるように顔を歪めたあかねへ、遠乃が手を伸ばしゆっくりとさする。
それが身体を突き抜けた痛みを和らげるのか、あかねは少しずつ身体の強張りを解いていった。
「大丈夫かい?気分は?」
まだ青ざめているあかねの頬に友雅が指先で触れた瞬間、彼女の身体が僅かに逃げをうった。
「…白雪?」
友雅に向けられた怯えるような瞳。
そして……。
「誰?」
掠れた小さな声が、静かな部屋に大きく響いた気がした。
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