熾烈を極めた鬼との戦いも終わり、神子と呼ばれた尊き斎姫はただ一人の男の為、
すべてを捨てて京と呼ばれるこの地に留まった。
左大臣家、東の対の屋の一室。
京で暮らすようになって、あかねは水干姿から他の女性達と同じように小袿を纏うよう
になった。
今着ているのは華やかな山吹襲。
風雅な恋人からの贈り物だった。
あかねは真剣な面持ちで文机に向かっていた。
手には筆、あたりの床には色とりどりの薄様。
そのどれにも手習いの『いろは』が書かれている。
あかねは文字を書いていた手を止め天を仰いで溜息をついた。
「あーあ・・・お母さんみたいにお習字しておけばよかった」
しみじみつぶやいてみても仕方がない。
習字の教免を持っている母が書いていた流れるようなかな文字は、あかねの最愛の
人の手跡とは違うがとても綺麗なものだった。
漢字に比べたら面白くない、と母はあまりかな文字を書くことはなかったが、その印象
は強烈だった。
細い筆先で微妙な曲線と力加減そして墨のかすれ具合まで、見事としかいいようのな
い文字なのだ。
筆を持つことさえ稀だったあかねには、想像もつかないほど高度な技法。
友雅にそう言ったら笑われてしまったけれど・・・
そして友雅は側にあった薄様に、さらさらと文字を書き始めた。
あかねからみたら、らくがきをしているとしか思えない気軽さで友雅は『いろは』を書き
付けたのだった。
「まずこれをみて手習いをしなさい。あかねには母君の血が流れているからすぐに上手く
なるよ」
手渡されたのは、柔らかな女文字。
普段友雅が使わない文字なのに、何故こんなにも見事で艶やかなのか・・・
しかしそれを受け取りながらちょっと不安になったのだが。
「だって、お父さんは字が下手なんだも〜ん!」
文机に突っ伏しあかねが情けない声を上げた。
「もともと字が下手なんだもん。お母さんの血なんて流れてないもん。何で字が綺麗に書
けるように生んでくれなかったのよー!!」
「おやおや、姫君は何をお嘆きなのかな?」
「! 友雅さん」
不意に掛けられた声に、あかねは弾む声で身を起こした。
御簾を軽く上げ姿を現した美丈夫。
あかねの最愛の人。
彼は微かに笑んで身を屈めた。
「今日は手習いをなさっていたのだね」
「きゃー!見ちゃダメー!!!」
床に散った薄様を手に取ろうとした友雅の手の下から、あかねは素晴らしい速さでスラ
イディングしつつすべてを抱えこんだ。
「・・・・・」
「見ちゃだめです」
ちょっと頬を膨らまし、拗ねた目で友雅を見つめる顔のなんと愛らしいことか。
宿敵、藤姫さえいなければすぐさま自邸に攫って行きたいぐらいだ。
「何とつれないことを仰る。今更隠す仲でもないだろうに・・・。物忌みの時はちゃんと文を
下さっていたよ?」
「過去の事はもういいんです。今は上手くなるまで友雅さんに見られたくないんです」
きっぱりと言い放たれても寂しいものがあるが、言い出したら聞かないのは十分分かっ
ていた。
友雅は軽く息をつき、あかねへ腕を伸ばす。
「姫君が嫌がるなら、文を下さる日まで待とうか。さあ、あかね取らないから起き上がりな
さい」
床に伸び伏したままのあかねを抱き起こそうとした瞬間、
「触らないで!」
切羽詰った声の拒絶。
友雅が衝撃でしばし呆然としてしまったのも無理はない。
あかねはうるうると涙を浮かべ言った。
「足がしびれてるんです・・・・」
手習いに夢中で長い間ずっと正座していたあかねは、友雅と話している間にしびれを
切らしたのだった。
今は少しでも動けば息が止まりそうな程痛い。
恥ずかしさと情けなさで、今にも泣き出しそうなあかねに思わず友雅は声を立てて笑っ
てしまった。
そんな友雅にあかねが顔を赤く染めて怒りをぶつける。
「笑わなくていいじゃないですか!」
「ふふふ・・失礼・・。あまりに可愛らしい姿だから」
「きゃー、だから触らないでって、いたーい!」
友雅はあかねの抗議など聞かずコロンとあかねの体を仰向けて、あっという間に膝の
上へ横に抱いて座った。
痛みの為ぎゅっと友雅の首に抱きついたあかねに至極満足そうだ。
「固い床の上よりもこの方がずっといいだろう?」
なだめるようにあかねの背中を優しく撫で下ろす。
床ではあかねが手放した薄様がふわふわと風に遊んでいた。
「しばらくこうしてじっとしていよう。すぐに良くなるから・・・」
返事の代わりにあかねの腕が、ぐっと力を増した。
暖かい腕の中。
思い出してしまった、幼い頃の事。
懐かしい両親・・・・
自分がいなくなってどうしているのだろうか?
心配して体を壊してないだろうか?
不意に溢れ出した切ない郷愁にあかねは友雅の肩に顔を押し付けた。
少しして友雅の膝の上でもぞもぞとあかねが動き出した。
友雅がふわりと笑み、腕の中のあかねを見下ろす。
「もう大丈夫かな?」
ほんのり照れくさそうに頬を染めたあかねがこっくりとうなずいた。
友雅が乱れたあかねの前髪を指先でかき上げると、あかねはくすぐったそうに首をすく
めた。
いつもは恥ずかしがって友雅の膝の上からすぐに逃げるあかねだったが、なぜか今日
は照れた顔を見せながら大人しく腕の中にいる。
それをうれしくも不思議に思った友雅は、あかねの耳元に唇をよせた。
「今日はどうなさったのかな?」
直に耳に流れ込んだ美声に、思わず体が震えた。
優しく抱きしめる腕が、あかねを促すように軽く揺すられる。
聞かれるままあかねは悪戯めいた顔で言った。
「友雅さんに仕返しです」
「仕返し?」
意外な言葉と仕返しされる覚えの無い友雅は、首をかしげ面白そうに問い返した。
余裕な友雅にあかねは拗ねてちょっと口を尖らせた。
「さっき、足がしびれて苦しんでる私を見て笑ったでしょ?仕返しをするんです」
「私の側にいてくれるのが仕返し?うれしいだけだよ?」
あかねが顔の前で、人差し指を振った。
「甘いです。今私の体重で友雅さんの足をしびれさせてるんです。そして立てなくなった
ら、今度は私が高笑いしてやるんだから!」
「・・・・・私の足がしびれまで?」
「はい!私の体重を甘く見ないで下さいね。友雅さんを力いっぱい馬鹿にしてあげるから
!」
あかねはそう宣言して友雅の首に再び抱きついた。
結局理由をつけて甘えたいだけなのだと気付いた友雅は、軽く笑いあかねをしっかりと
その腕に包み込む。
「そう間単にあかねの思う通りにはならないよ。思う存分姫君に甘えさせてもらおうかな
?」
(意地っ張りの姫君の為に、騙されてあげよう・・・・・・)
腕の中で微かに肩を震わして泣いているあかね。
両親を思い出しても友雅を思いやって寂しいなど一言も口にしない優しい月の姫。
だから、気付かないふりをして気のすむまで抱きしめているよ・・・
次に見せてくれるのが、とびっきりの笑顔だと分かっているから・・・・
<終>
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