「………誰?」






 妻戸の向こうから微かに聞こえた女性の声に、友雅は静かに息を飲んだ。
 友雅の足元では、葉月が決められた科白をもっともらしく紡いでいる。
「安倍泰明様より、火急の文が参っております」
「泰明さんから?」
 驚くと少しだけ高くなる声は、記憶より大人びている。
 しかしその女性は稀代の陰陽師の名を、龍神の神子以外ありえない呼び方で呼んだ。
 衣擦れの音と床を踏みしめる音がする。
 自分が歩く時とは違う軽い音にすぐにでも妻戸を蹴破りたい衝動を、友雅はグッと手を握り締めて堪えた。
「文は?」
「ここに…」



「あなたは誰?」
 扉一枚隔てた彼女は、用心深く尋ねてきた。
 以前の彼女ならば考えられなかった慎重さ。
 一年前は、友雅が訪ねていけば、よろこんで扉を開けたものを……。






「葉月と申します。夜も更け、皆寝静まっておりましたので、私の一存でお届けに上がりました」
 葉月を知らない彼女の戸惑いが、手に取るように分かる。
 友雅は息を潜めて、彼女の出方を窺う。
「……いま開けるわ」
 カタリ…、と音がして、少しだけ妻戸が開かれる。





(まだだ…。まだ早い…)
 葉月と言葉を交わす彼女に見咎められないように、友雅は気配を消し息を潜める。
 妻戸が開けられた為、遮るものがなくなり直接友雅に届く声は、一年前に消えたと思っていたものだった。





 鼓動が激しくなる。
 気付かれてはならない。
 ここで逃げられては、もう二度と彼女を捕まえることは出来なくなる。






「泰明さんの文は?」
「こちらに…」
「ありがとう…。文をこちらに」
 葉月が差し出したのは、友雅が用意した偽の文箱。
 文を受け取ろうと、もう少し妻戸を開き、伸ばされた白く整った指先。
 





 それを見た瞬間、友雅の身体は本能で動いた。
 





 妻戸の隙間に手を掛けて一気に開く。






 突然の事態に驚愕し、差し込んだ月明かりに顔を顰める女性が目に映った。





「…神子、殿?」 
 扉を開いたそこで、突然の侵入者に言葉を失っているのは、友雅の記憶にある可憐な少女ではなく、あどけなさを僅かに残した美しい女性だった。





 女性が突然のことに動きを止めていたのは一瞬だった。
 彼女は友雅の姿を認めると、激しい狼狽を見せて身を翻したのだ。
 逃げる背中を友雅は追った。
 ここで彼女を逃がしてしまえば、本当にもう二度と会えなくなると思った。
 どこへ逃げるのかはわかっている。
 部屋の奥の塗籠だ。





「逃がさないよ…」
 友雅は塗籠に手をかけた彼女の手首を、容赦なく掴んだ。
 手加減などして逃すわけにはいかない。
 もう二度と逃がしはしない…。
 友雅は掴んだ彼女の手首は拘束したまま、攫うようにその胸に抱きこんだ。





「神子殿……」
 万感の想いを込めて名を呼べば、腕の中の華奢な身体がびくりと震えた。
 ほんのりと甘い肌の香りは、ずっと友雅が求めてやまなかった少女のものだった。
「神子…。あかね……」
 腕の中の女性は、天を仰いで小さく身体を震わせた。






 記憶にある彼女よりも少しだけ高くなっている背。長い髪。
 そしてどこかしらまだ固さの残っていた少女の体は、しなやかな女性らしいまろみをおびた曲線を描いている。






「あかね……」
 彼女の名前しか出てこなかった。
 少女が去ってから一年、ずっと想い考えていたすべての事が頭の中から消え失せ、ただ彼女の名前しか浮かんでこなかった。
 腕にある温もり。
 いつもなら朝になれば消えてしまう泡沫の幻だったのに…。
 今は確かにこの腕の中にある。






 耳元で囁かれるように呼ばれる名前…。
 その声は常にあかねの耳の奥で響いていたものだった。
 愛しくて切なくて、胸が締め付けられる。
 あかねの背を包む胸の広さと温かさ。
 それはあの戦いの日々の中で、無条件に安心感を与えてくれていた。





 でも……。
 今はそれが苦しい…。






 身体が震える。





「あかね……」
 頬に触れる大きな手が、5年の歳月を一瞬にして遡らせるようだ。
 それでも…。
 あかねは、友雅の手に伸ばそうとした自分の手を握り締めた。
 時間は決して戻りはしない……。






「顔を見せて…」
 引き寄せる力に抵抗はしなかった。彼の本気の力に抵抗できるはずないと分かっていたから。それ以上に抵抗したくなかったから。
 ただ、瞳だけは閉じて……。





 深い溜息と共に、そっとそっと優しく友雅が親指であかねの瞼を撫でた。
 まるで消えるのを恐れるように、ゆっくりとあかねの存在を確かめる。
「ああ……、やはりあなただ…」





 仄かな月明かりが、大人びたあかねの白い顔を浮かび上がらせる。
 一年前少女の域を出ていなかったあかねは、可愛らしい面影を残しながらすっかりと美しい女性に成長していた。
「いったいあなたの上をどのくらいの時間が過ぎていったの?」
 一年でここまで変わるはずがない。
 友雅はあかねを飽かずに優しく撫でる。
「あかね?」
 深い声音が優しくあかねを呼ぶ…。
 瞳を閉じていても感じる強い視線。
 あかねは何度か唇を震わせて、躊躇いがちに開いた。
「5年です…」
「そう……。とても、美しくなったね」
 まるで蛹から蝶になるように。
 友雅の前から消えた少女は、友雅の目を奪う女性になっていた。
 瞼で閉ざされた瞳は、昔のままの純粋な光を宿しているのだろうか?
「瞳を見せて…」
 友雅の願いを、あかねは小さく首を振ることで拒んだ。
 ここで拒否されるとは思わなかった友雅が、僅かに眉を寄せた。
「何故?」
「ここは私の世界ではないから……。何も見ることは出来ません」
 小さな声だが、はっきりとあかねは友雅は拒む。
「あかね…」
「私はすでに……、龍神の神子ではないんです」
 僅かに歪んだあかねの唇。
 それは無理に浮かべようとした笑みか、切なさを堪えるためか…。
「あかね」
 あかねは腕を上げて、友雅に触れた。
 彼の喉元に。
「あなたに八葉の宝玉がないように、私も神子ではありません。だから……」
「……だから私の姿も映さず、名も呼んでくれないと?」
 あかねは微かに頷いた。
 友雅の名を呼んでしまえば、あの身を切るような別れをなかったことにしてしまいそうだから。






 けれどもうすでに運命は進んでいる。
 あかねは結婚を控え、友雅もまた帝の妹を娶る。
 それを自分の我儘だけで壊すことは出来ない。
 友雅の立場を揺るがすこと、そして優しい婚約者を蔑ろには出来ない。




 友雅もあかねも傷つくけれど、これがあの日二人が選んだ道だから……。





「………あの時、私達の道も世界も分かれました。もう後戻りできないんです」
「あかねは再び道が交わったと思わないの?」
 優しく問いかけられ、素直に頷けたらと思う。
 しかしこれ以上、自分の気持ちだけで人を振り回すわけにはいかない。
 自分の立場、友雅の立場、そしてそれを取巻く世界。
 二人が幸せになる道を、あかねがあの時断ち切ったのだから…。





「…思いません。あなたにはあなたの進むべき道があるように、私にも進むべき道が出来ています……」
 あかねは緊張に激しく脈打つ鼓動を抑える為、大きく息を吸った。
「私、結婚するんです」
「あかね!?」
 あかねの告白に、友雅が驚愕する。





 手放した彼女が他の男のものになる。
 分かっていたはずだった。
 分かっていてもなお、愛しい彼女を苦しめたくなくて手を放した。
 諦めていたはずなのに……。
 それなのに、何故こんなにも心が乱れるのか……。





「あなたも内親王を娶ると聞きました。……もう二度と、私達の道は交わらない」
 交わらせようとしないのは、あかね自身でもある。
 友雅は、頑ななあかねを深く強く抱きこんだ。
 すり抜けていってしまいそうなあかねを、少しでも腕の中にとどめるように。





「……あの時、無理にでもあなたを引き止めるのだった」
「……」
「物分りのいい大人を演じるのではなかった、そうすれば、憎まれようと罵られようと、あなたを私のものに出来たのに…」
「……」
「二度もあなたに拒まれてなお、この想いを断ち切れない自分を心底愚かだ思うよ……」
「……」
 静かに心情を吐露する友雅にあかねはただ、唇を噛み締めて俯いた。





 何も言うことなんて出来ない。
 好きだからこそ、離れたあの日。
 あの時、違う道を選べばどうなっていたのだろう。
 けれど……。
 指に輝く一粒の光が、あかねを縛り付ける。






「あかね。君はまだ少しでも、私の事を好いてくれているのだろうか?それとも、もう……」
 友雅の問いに、あかねは小さく首を振った。
 友雅の手を取らなくても、これだけは誤解されたくない。
 だから……。
「……何の感情もなければ、あなたに会いに行きました……」
「あかね…」
「でも、ダメなんです。一度決めた道は進むしかないんです」
 変わらないあかねの答え。
 友雅は空しく笑うしかなかった。
「あかねはしなやかでいながら、これと思ったことは絶対に引かなかったね。そしていつも私が負けていた…」
「私は私の世界で生きる事を選びました。だから…」
「…どうあがいても、君は頷いてくれないのだね…」
 あかねはじっと友雅の腕に抱かれているだけだった。
 頷くことも、首を振ることもない。
 それが何より雄弁にあかねの意志を物語っていた。
 友雅は深く息を吐き、あかねの手を取るとその白い甲に触れるだけの口付けを落とした。
「それならばせめて、天女に恋焦がれる哀れな男に、一夜の夢を……」
「…」
「一夜限りの甘い夢を…」
 囁きと共に、あかねの唇に柔らかな温もりが触れた。
 





 あかねは目を閉じたまま、別れを決めても尚、愛しい男の背にそっと手を回した。






 夜のしじまに、密やかな衣擦れの音が響く……。

 












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