こちらへ来て一体何日経っただろう?
あと何日で向こうへ帰ることが出来るのだろう?
あの夜、偶然耳にした友雅の声が、今も頭から離れない。
怨霊を封印する為に京を駆け回っていた頃と変わらない、柔らかな深い声音。
少しだけ意地悪めいた口調もそのままに……。
何も変わっていない。
一年経った今も、あの人は……。
彼が名前を呼んでくれる時、えもいわれぬ優しく蕩けるような甘い声になることを知っている。
そして、世界のすべてから守ってくれるような、深く温かな強い抱擁も。
5年経っても何一つ忘れていない。
あの人を忘れられない……。
あの日、ここに残る事を選んでいたらどうなっていただろう?
それは永遠に答えの出ない問い。
自分の世界に帰っても、後悔すると最初から分かっていた。
分かっていたけれど、帰ることを選んだ。
自分が16年間育ってきた世界を、たった一時の恋で捨てる勇気はなかった。
ゆっくりと確実に、お互いの心を確かめ合って、時には喧嘩をしながら育まれた恋ならば、あかねが導き出した結論は違ったかもしれない。
でも、あれは嵐のような3ヶ月。
龍神の神子だからと強がっていながら、心の底ではいつも誰かに支えて守ってもらいたかった。
甘い言葉で、抱え込んだ弱い心を許して欲しかった。
誰も気付かなかったあかねの本当の心……。
それを優しく自然に引き出して癒してくれたあの人。
あかねの望むものを、ごく当たり前のように与えてくれるあの人に惹かれたのは、自然な流れだったのかもしれない。
だから怖かった。
もしかすると友雅もまた、京を取巻く状況に流されて、自分に心を砕いてくれているのではないかと。
夢から覚めたら、いったいどうなるのかと。
怖かった。
龍神の神子から、ただの元宮あかねに戻るのか怖かった。
だから、逃げた。
もっともらしい理由をつけて。
何のとりえもない、普通の女の子に戻った自分に自信をもてなくて、幻滅されることを恐れて逃げた。
友雅が「愛している」と囁いてくれる最高の時に。
夢のような時間を永遠にしたくて……。
だから、友雅を恋しいと泣いても、戻りたいとは思わなかった。
あかねの心の中の友雅は、いつだってあかねを見つめていてくれたから。
あかねの恐れていたものが現実になる事は、あちらにいる限り絶対にありえなかった。
逃げることで、あかねは永遠の恋を手に入れた……。
臆病で幼かった恋。
それでも、一番大切な………、恋。
眠れぬ身体を褥に横たえてどのくらい経った頃だろう。
まるで風の悪戯のように、妻戸がほとほとと小さな音を立てた。
「?」
あかねが訝しげに音を立てないよう気をつけ、肘をついて上体を少しだけ起こした。
「姫様……。お休みですか?」
囁くような女性の声。
「………誰?」
あかねは用心深く、小さな誰何の声を上げた。
「安倍泰明様より、火急の文が参っております」
「泰明さんから?」
あかねは袿を羽織ると、おそるおそる妻戸へと近づいた。
「文は?」
「ここに…」
「あなたは誰?」
あかねは聞き覚えのない声の主に問い返した。
「葉月と申します。夜も更け、皆寝静まっておりましたので、私の一存でお届けに上がりました」
確かに、もう真夜中である。
葉月という女房も、寝入っている同僚を起こすのは忍びなかったのだろう。
「……いま開けるわ」
馴染みのない女房と顔を合わせるのを少しだけ戸惑ったあかねだが、今は真夜中。
少しだけ妻戸を開け、そこから文を差し込んでもらえばいい。
そう考えたあかねは、妻戸を内から僅かに開けた。
明るい月明かりが、一筋室内に差し込む。
「泰明さんの文は?」
「こちらに…」
わずかに開いた妻戸の向こう、女房の姿は見えず、彼女の指先と置かれた文箱があかねの目に入った。
「ありがとう…。文をこちらに」
文箱が入る程度に妻戸をもう少し開き、あかねは手先を文箱に伸ばした。
「!?」
その瞬間、何が起こったのかあかねは分からなかった。
差し込む煌々とした月光に思わず目を細める。
大きく力づくで開けられた妻戸の向こう。外を満たす銀色の月明かりに浮かぶ黒い影。
「…神子、殿?」
搾り出すような声に、あかねは瞠目した。
忘れるはずのない声、忘れられない声。
それは逢ってはいけない人の声。
呆然としたのは一瞬だった。
状況を理解したあかねは咄嗟に身を翻し、部屋の奥へ駆け込んだ。
塗籠を目指して。
だが……。
「逃がさないよ」
塗籠の扉に手をかけたと同時に、後からあかねの手首が力強く掴まれた。
そしてそのまま、その広い胸に強く深く抱きこまれる。
きりきりと締め上げるような手の強さ。
「神子殿……」
耳元で囁かれる吐息交じりの懐かしい響き。
そしてあかねを包み込む、しっとりとした侍従の香。
「神子…。あかね……」
あかねを5年もの間包んでいた、切なく苦しい唯一の永遠の恋の夢が覚める。
(ああ……。知られてしまった……)
あかねは唇を噛み締め瞳を閉じて、その温かい腕の中で天を仰いだ。
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