今宵も、月は雲間に隠れている……。





 
 友雅は乱れた髪もそのままに、女の袿を肩に羽織っただけの姿で、端近に座って空を見上げていた。 
 流れる雲の向こうから、月の光りがうっすらと透けている。
「友雅様?何をお考えですの?」
 しっとりとした気だるげな女の声が、先ほどまでの艶めいた一時の余韻を引きずっている。
 友雅は立てた膝に肘をついて、女には答えず東の対に視線をやった。
 人気のない東の対。
 だが、時折見回りに訪れる武士団の者や、頼久の姿が見て取れた。






「どうなされたのですか?」
 単衣を纏い、褥から抜け出した女が甘えるように友雅の肩に縋りつく。
 友雅はうっすらと冷たい笑みを浮かべ、自分の肩にしなだれかかる女の長い髪を指先に絡めた。
「……東の対にどなたかが滞在されているようだね」
「友雅さまも気になるのですね?」
「私も?」
 くすくす、面白そうに笑いながら女は友雅の首に腕を回した。
「ええ、友雅さまも。実は私もあちらのお方はどなたか知りませんのよ」
 女はそう言って東の対に目を向けた。
 あちらは人の動きもなく、静まり返っている。
「左大臣家縁の姫君と聞いたが?」
 友雅の問いに、女が軽く頷いた。
「はい。私達もそう聞いています。でも東の対に近づけるのは、決められた者のみ。女房さえそれ以外の者は近づけませんの」
「ほう……。それは珍しいね…。……いったい誰がそのような命を?」
 何気ないふりをして、友雅は女から情報を引き出す。
 女は、濃密な一時を過ごしたばかりの男に警戒心も抱かず、あっさりと自分の知っている事を口にした。
 東の対について、軽々しく他人に話してはならないとのお達しがあったが、よくここを訪れる男の質問に答えるのには躊躇しなかった。
 きっと躊躇してしまっては、男が興をそがれて立ち去ってしまうだろうと分かっていたから。
「藤姫様ですわ。女房も警護もすべて藤姫様がお決めになったと聞きました」
「お付きの女房は誰だい?」
 友雅の問いに、女が答えたのは藤姫の側近くに仕える女房数人だった。
 その名に、友雅が僅かに目を眇める。
 彼女達は一年前、龍神の神子の側にはべっていたものばかりだった。
「それに、嫌な噂もあるのですよ」
「嫌な噂?」
「ええ。まったく姿を現さない姫君は、呪詛をかけられているのではないかと。2日に一度は、陰陽寮の安倍泰明殿が東の対を訪れるので、そのような噂が…」
「泰明殿が……」
 友雅は、小さく呟いて改めて東の対へ視線を向けた。





 
 今まで誰も使うことを許されなかった東の対に滞在する、姿を現さない左大臣家縁の姫。
 側仕えに上がる女房は、たったの数人。それも藤姫に近い者達。
 東の対を固く守るのは源頼久を筆頭に、これまた龍神の神子を守っていた者たち。
 そのうえ今まで左大臣家にあまり訪れることがなかった安倍泰明が2日と空けず、その姫君を訪問するという。





 そして友雅が一瞬目にしたあの後姿。





 友雅のからかいに、頼久は思わず彼女の事を「女房ではない」と言い切った。
 女房でないとすれば、必然的に東の対にいる「左大臣家縁の姫君」でしかありえない。





 
 あかねを思い出させたあの女性。
 彼女は、一年前あかねの周りにいた者たちを側に置いている。





 それの意味するところは……。





 友雅は手の中で弄んでいた蝙蝠を音を立てて閉じ、それをカラリと床に転がした。





「葉月…。頼みがあるのだが…」
「友雅様?」
 友雅に甘えかかっていた女は、男の意外な言葉に眼を丸くした。
 驚いた顔さえ美しい女に、友雅は拒絶を許さぬ冷たい眼差しで微笑みかけた。
「聞いてくれるね?」
「あ……」
 その逞しい腕で強く腰を抱き寄せられ、女は艶やかな吐息を漏らしてうっとりと瞳を閉じた。







「泰明殿…」
「友雅か?」
 後ろから掛けられた声に、氷の美貌を持つ陰陽師は歩みを止めて振り返った。
 友雅は帝の元から辞したばかりなのだろう。
 いつもは優雅に背へと流している長い髪を、きっちりと結い上げたままだ。
 口元にはいつもの食えない笑みを浮かべて……。
 友雅は泰明に近づくと、持っていた蝙蝠を少し広げ、口元を隠すようにして泰明の耳元に顔を寄せた。
「後宮に噂が広がっているようだよ」
 友雅の言葉に、泰明の無表情が僅かに苛立ちを含む。
「誰が言った?」
「耳の早い女御が私に探りを入れてきた。『主上のまわりが騒がしいようだ』とね」
「お前は何と答えたのだ?」
「ただの噂だと。だが陰陽寮が動いていることもご存知だった」
「そうか……」
「目星はついたのかい?」
「まだだ。不穏な気配がするというだけでは、なかなか尻尾がつかめん。かといって怪異が起こってからでは…」
「遅いねぇ……」
「だが、時間の問題だ。やっかいな仕事を増やしてくれた輩には、それ相応の礼をしてやらねばならぬ」
 泰明ならばその言葉どおり、術者にきっちりと報復するだろう。
 彼は誰よりも優秀な陰陽師だ。
 友雅は蝙蝠の翳で、美貌の陰陽師を鋭く見つめた。
「やっかいな仕事ねぇ……。そういえば泰明殿は、最近よく左大臣家に立ち寄られるとか」
 いつもと変わらぬ微笑。だが友雅のその目は笑っていない。
 泰明は感情を浮かべぬ冷めた瞳で、友雅を流し見た。
「それがどうかしたか?」
 一切の感情の揺れを見せない泰明。
 それでも友雅はひたと泰明と視線を合わせる。
 一片の隙も見逃すまいと……。
「いや。鬼との一件以来、あまり左大臣家に寄り付かなかった泰明殿が、東の対をよく訪れると聞いてね。あちらには縁ある姫君がご滞在中とか。少し不思議に思っただけだよ」
「お前には関わりのない事だ」
「冷たいねぇ……。頼久が護衛し、泰明殿が訪れる。気にするなというほうが、無理じゃないかな?」
「あちらの姫は、ある呪がかかっている。それだけだ」
「そう……」
「用がないなら失礼する」
 泰明はすっぱりと友雅を切り捨て、先ほどと変わらぬ足取りで歩いていった。
 その後姿を見送りながら、友雅は冴え冴えとした笑みを浮かべたのだった。












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