あの夜、見た女の姿が何故か気にかかる。






 
 友雅は手に持った蝙蝠を物憂げに弄びながら、あの夜を思い出していた。
 どこか彼の人を思い起こさせる後姿の女性を……。





 友雅を好きだといいながら、友雅との別れを選んだ月の姫に。
 




 愛しい女を苦しめたくはなかった。
 幼い少女の戸惑いも分かったから、物分りのいい大人の振りをした。





 彼の人が月に帰る時、もし想いのままに行動を起こしていたら、彼の人はこの腕の中にいたのだろうか?





 この腕の中で笑ってくれていただろうか?
 





 それとも憎んで……。
 






「どうなさったのかしら?橘中将殿?」
 笑いを含んだ艶やかな声が友雅の物思いを断ち切る。
 友雅は落としていた視線を御簾の向こうへと向けた。
 その顔にいつもの笑みを浮かべて。
「…失礼しました」
「橘中将殿も、お心を煩わせるものが多くて大変ですわね」
 何でもない言葉。だがそれにある含みを感じて友雅は鋭い眼差しを御簾の奥へと向けた。
 クスリ……、と吐息混じりの笑いを漏らす女……。
「……女御様?」
 御簾の奥、友雅には微かな影にしか見えない人物。そして通常、声などたやすく洩らさないはずのその人が笑う。
 女御が何かを命じたのだろう。御簾内を彩っていた女房達がさらさらと衣擦れの音をさせて、退室していくのが分かった。
 人払いをしなければならない話をするのだと、僅かに友雅の身に緊張が走る。
「私の耳に届いてないと思いまして?」
「……女御様……」
 軽々しく友雅に声を掛けてきたことを、無駄だと思いながら咎めるように呼ぶ。
 しかし女御は鈴のような澄んだ笑い声を立てながら、それを一蹴した。
「私が御し難いことは、主上様もご存知ですわ。それに……、今更、でしょう?橘中将殿」
 その美しさと明るさと心優しさ、そして己に正直な奔放さで主上の寵愛を受ける、今を時めく女御は探るように御簾の向こうから友雅に視線をよこす。
 友雅はその鋭さに息をついた。
「どこまで、噂になっているのでしょうか?」
「噂、というほどではないわ。そう、噂ならあなたの夜毎の華やかな噂の方が、派手ですわよ?そう、女二の宮さまとの事など、ね」
 女御のからかいで、嫌そうに顔を顰めた友雅がよほど面白かったのだろう。御簾内から朗らかな笑い声が聞こえてくる。
「女御様」
 奔放な女御を嗜めるように友雅が呼ぶ。
 するとますます笑い声は増し、やがてそれがおさまると小さな咳払いと居ずまいを正す衣擦れの音がした。
「これ以上からかっては、橘中将に嫌われてしまいそうね。………内裏に不穏な空気が漂っているようですわね?」
 不意に顰められた声。
 友雅は微かに眉を寄せた。
「こちらに届く話では詳しく分からないけれど、主上様のまわりになにか……」
「女御様」
 咎めるような声で、友雅が女御の言葉を遮る。
「橘中将……」
「それは憶測に過ぎません」
 きっぱりと言い切る友雅。だが女御もそれでは引き下がれなかった。
 内裏での不穏な動きは後宮で暮らす女御自身にも重大なことなのだ。
「では、どうして私の元まで噂が届くのかした?」
「噂というものは、得てして真実以上に大きくなるものです。語る者の憶測を交えて……」
「あくまで噂と言うのですね?」
「はい……」
「では、どうして陰陽寮が動いているのかしら?」
「……」
 女御の切り返しに、口を噤んだのは友雅だった。
 後宮の奥に身を置いていても、その耳と目はすばらしく隅々まで届いているらしい。
「心配しなくても大丈夫よ。たぶん他の方々は知らないはずだから」
「……あいかわらずお耳が早いですね」
「退屈なんですもの。とてもね……」
 ほぅ……と吐息が落とされる。
 友雅は手に持っていた蝙蝠を少し開き、それをパチンと小気味よい音を立てて閉じた。
「けれど、その退屈が紛らわされるものではないと思われます」
「……何も心配する事はないと?」
「些細なことですから」
 言い切って、鮮やかに笑う友雅に、女御が深く息をついた。
「そう……。では、あなたのその言葉を信じましょう」
 軽く見える友雅が、誰よりも本心を見せないと知っている美しい女御は、それ以上追及することなく静かに瞳を伏せた。






 内裏にいるあまたの女人達。
 彼女達に、あの月の姫の面影を捜し求め、腕に抱いたのはどのくらいか……。





 どこか月の姫に似通ったところのある女人を腕に抱いた瞬間、その違いに心が一瞬で冷えてしまう。そんな夜を幾度過ごしたか。





 似ていても非なるもの。
 その度に痛烈に感じるのだ。
 あかねはもういないのだと……。





 だが、あの女性は……。





 目にしたのは後姿だけだった。
 たったそれだけ。なのに、何故、こんなにも月の姫を思い出させるのか……。




 
 あの後姿が、友雅の心から離れない……。














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